おしらさま ※R18 - 3/5

   ◆

 ひたり、ひたり、と湿気を含んだ音がそこかしこで反響している。
 それを徐々に鼓膜が拾い上げ、僕の意識は浮上してゆく。
 上体を起こすと、冷たい岩にそれなりの時間横たわっていたせいか身体が軋んだ。
 いつの間にか昏倒していたらしく、洞窟の前で村長と対峙した以降の記憶がない。殴られでもしたのか、頭頂部から僅かに鈍痛がする。
 次いで首筋で主張する違和感。まるで細い針に刺されたかのような――気になってそこに手を這わせてみたが、ただ滑らかなままだった。
 周囲に目を走らせる。
 待てど暮らせど一向に慣れそうにない視界。その原因は、どうやら暗闇だけではないようだ。
 気怠い身体に鞭打って上体を起こすと、真っ黒な岩肌がゴツゴツと掌に食い込んでくる。
 背中や腰が痛むのも道理だと思った。
 周囲を見渡す。背後でちらつく一点の外光。ひゅうひゅうと、風を取り込む音が反響している。
 脚を擦り合わせるように身動ぎしながらゆっくりと立ち上がった。身体は光へ向かおうとするが、どうしてか意識は反対側が気になった。
 両者の意向を中途半端に汲んだ斜め四十五度。奥から響く水が滴る音と終着点の見えない闇が、僕のポニーテールを引っ張ってくる。まるで別れが惜しいと言われているような。
 あるいは、捕まえた獲物を逃がさないと言いたげのような。

 ――アマデウス。

「……え……」
 暗闇の向こうから柔らかなテノールが聞こえてハッとする。碌に反響しなかった呼び声は一瞬幻聴かと疑った。
 が、それにしてはやけに鮮明だ。
 なにより、僕がサリエリの声を違えるはずもない。
 サリエリの声を借りた闇は次いで甘ったるい香りを放って僕を誘惑してきた。彼の好物である菓子とは違う、まるで香水のような得体の知れない匂いだ。まだ距離があるせいか然程キツさはないが、あまり気分のいいものではない。
 しかし眉間が緊張してゆく僕の胸中とは裏腹に、身体は何故か別の反応を示した。
 ざり、ざり、ざり。僕の踵が少しずつ光から遠ざかってゆく。酩酊したような千鳥足で、半ば吸い込まれてゆくように、ゆらゆらと洞窟の奥を目指していた。
 案の定、密度を増す臭気。甘ったるさが肺に堆積し身体が重くなる。それと同時に、脳は司令官としての責務を徐々に放棄してゆく。手足の制御が難しくなり、止まれと念じる指令が虚しく過ぎ去る。
 やがては理性が上手く働かなくなっていった。ぼうっとする意識。
 何故この身体が匂いに誘われているのかわからない。
 ざり、ざり。覚束ない足取りで匂いの元を辿って行くと、白い大きな物体を見つけた。真っ暗闇の中でもはっきりと視認できるそれ。心なしか発光しているようにも見える。ソレは僕の足音を聞きつけるともぞもぞと蠢いて顔を上げた。
「なっ……!?」

 鱗翅目とヒトガタを掛け合わせたかのような姿の化け物が僕と目が合う。

 白い。
 あまりにも無垢な肢体。纏う輪郭は痩躯の成人男性のようだが、腰回りがやけに細い。コルセットらしきものを巻いているからそう見えるのだろう。
 首元に付いている装飾は、まるでスリットの入った特殊なジャボだ。丈が長く、胸元や肩周りを覆い隠すように流れていてその下の様子が窺えない。
 優雅な印象を受ける上半身だが、彼を想起させる逞しい肩幅と、そこから伸びる鋭い指先から非常に男性的だ。
 だからこそ、酷い違和感を覚えたのは彼の下半身だった。
 まるでウェディングドレスに纏うオーバースカートのようなそれ。その間には股関節を隠す前垂れがかかっており、まるでスリットから顔を出すかのように、すらりと長い脚が、岩礁に乗り上げる人魚の如き体勢で折り畳まれていた。
 括れた腰から伸びる下肢のライン。なだらかな曲線でもって描かれる峰。そして太腿の半分から覆う長いブーツ。
 非現実的な光景に唖然としながらも、僕は音を立てて生唾を飲み下す。
 名状しがたい色。それは、末端に到達するとより薄命的な意味を帯びているように感じた。
 自立など許されないと言わんばかりの形状。まるでピアノの足かバレリーナの爪先のようなそれは、どこまでが足首でどこからが足なのかまるで判別がつかない。
 きっとこの生き物の生態的に、自立すると都合が悪いのだろう。
 とにかく、あんな身体のせいでこの化け物はずっと、僕の来訪を万全に出迎えることができないでいた。
 人間離れした胴体の上に乗る白いかんばせが浮かべているのは、悔しさと悦びが綯い交ぜになった複雑なもの。じりじりと前傾姿勢になって両手を広げている。
 そして彼の背後で揺れ動いているのは、蝶か蛾か判別のつかない、純白の翅だ。
 全く羽ばたく気配のない、重たげなそれ。
 化け物は真っ白な肢体を見せつけながら唖然とする僕を見詰め続けていた。
 微睡みから徐々に覚醒してゆくかのように蕩けた眼差しで、緩く目を細めている。
 嬉しそうにも見える顔。それはまるで子供のように直球で、かつ得体が知れなくて、僕は背筋を寒いものが滑り落ちてゆくのを感じた。
 真っ赤な瞳。不純物ひとつない無垢なレッド。その周囲を象る顔かたちは、ひと月程前に忽然と姿を消した彼と瓜二つだった。
「サリエリ……」
 その名を口にすると、化け物は驚いた顔でこてん、と首を傾げた。しかしそれもつかの間、みるみる表情を華やがせて再び諸手を広げ始める。
「――――――!」
 鈴が転がるような声は人の言葉にならず、ただの音として僕の鼓膜を震わせた。
 すると鼓動がひとつ、胸の内側を大きく叩く。

「ぁ、……」
 ふらりと、誘いに応じるように一歩を踏み出す。
 あの匂いがまたひとつ濃くなった。

「――――!」
 鼓動はひとつのみならず何度でも、扉を叩くように大きく鳴った。その度に肺が圧迫される錯覚に襲われ、息が苦しくなる。

 ――ざっ、ざり、ざり。

 僕の接近を心待ちにしていたと言わんばかりに、化け物は身を捩って正面に座り直した。何かに背中を預けて両脚を立てる。ゆっくりともったいつけるようにそれが拓かれてゆくと、徐に前垂れが捲られる。
 するとむわりと鼻腔を擽る甘ったるい臭気と共に目にしてしまったそれに、僕は息を呑む。

 化け物の股の間は、女陰の壺のように、甘く、しとどに濡れそぼっていた。

 僕の項がチクリと痛む。

 暗転。