おしらさま ※R18 - 2/5

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 サリエリが行方を晦ましてからひと月が経った。お祭りまで二週間を切ったと言うのに、どこで何をしているのだろう。
 外界から隔絶された山奥の小さな集落で起きる失踪事件とは、大概が遭難だろう。あるいは誰にも告げないまま街まで下山していたか。後者は遅くとも一週間もすれば戻ってくることが多い。
 そもそも碌な交通手段を持たない村人が下山するには徒歩で丸一日はかかるためそれなりに準備が必要だ。つまり誰にも知られず出て行くこと自体がまず難しく、それにより彼の失踪には不可解な点が多く見られた。
 正確には、サリエリの失踪に気付いてからひと月が経った。これが正しい。なにせ誰も彼も騒ぐことなく、本当に静かでいつも通りだったからだ。
 僕はルーチン化されたサリエリの生活リズムを粗方把握している。
 ふとまたあのフレンチトーストが食べたいと思って彼の自宅を訪れるもまるで現れる気配はなく、致し方なしにそのまま中へ入れば、既に蛻の殻になっていたのだ。生活感は残っているものの、調度品ひとつない様子を見て愕然とした。こんな用意周到な失踪なんてあるものか。夜逃げかと思ったほどである。
 考えれば考えるほど疑問は尽きない。まるで家主だけが蒸発してしまったかのように、人は忽然といなくなるものなのだろうか。サリエリを可愛がっていた近所のアンナおばさんや、夫婦共々仲のよかったサンドラ夫人など、サリエリと親しかった人物に片っ端から話を聞こうとしたが碌な返事がなかった。どれも煮え切らない答えで、他人事のような口振り。酷いものだとそんな男は知らないと言う始末。何故こうも手応えがない?
 まるでサリエリに関する記憶だけ消し去られでもしたかのような。
 サリエリのことを聞いて回る度、連中の表情に困惑と嫌悪が混じっていることには気付いていた。知られたくない腹の内を探られそうなときに見せる顔だ。
 やがて連中は、これ以上追求されては堪らないと言いたげに僕を避け始めた。
 そうして、まるで村八分にされたような気分を抱きながら、一週間を無収穫のまま過ごす。
 僕のやることは変わらなかった。除け者にされたのなら、逆手にとって自由に動けばいいのである。仕事で出払っている目を盗んでは辺りを物色し、彼が失踪する原因を探る。
 そうして虱潰しに探ってみるも手掛かりらしいものはなかった。
 次に外へ切り口を変えて普段から立ち入りを制限されている森の一角へ向かう。
 もちろん人の目がないタイミングを見計らって。
 鬱蒼と茂る薄暗い木々の間を走る轍をひたすら辿る。
 時折地表に顔を出した木の根に足を取られながらもなんとか進み、辿り着いたのは標縄しめなわで入り口を封鎖された洞穴だった。
「なんだこれ……」
 ひたり、ひたりと湿気を纏う穴の向こうは暗くてよく見えない。まるで呼吸するかのように、しでが内側に向かってふわふわと揺れている。ひゅう、と洞穴が鳴いた。手招きするように、あるいは僕を誘い込むように。思わず踏み出した一歩を慌てて引っ込めた。どうしてか、そこへ行ったら戻れなくなるような気がして。
 しめなわ。
 つまりその先は神聖な場所であることを示している。
 この村で神聖視されているものは何だったか。
 この村は、何を信仰していたのだったか。
 風が吹く度、洞はひゅうひゅうと訴えかけてくる。弱々しい金切り声はどこか悲鳴のようだ。胸が締まる感覚に息が詰まる。
 この洞穴にはきっと、誰か・・がいる。
 直感的にそう思った。
「そこでなにをしているッ!」
 不意に殴りかかってきた怒声に、僕の肩が跳ねる。反射的に取った畏縮行動だが、思考は殊の外凪いでいた。
 逃げ出そうという気がまるで起きない。が、面倒なことになったなとは思った。
 振り返れば、案の定見知った顔。村長が鼻息も荒く真っ赤な顔をして立っていた。
 あの様子ではあまり迂闊なことは口にできまい。正直にサリエリの失踪を伝えても、なんて罰当たりな、と一蹴されてしまうだろう。
 言い訳は愚か、真摯な謝罪すらも困難とは酷い八方塞がりである。
「あー……ごめんなさい。新しい狩り場を探そうと思って見慣れない獣道を辿ってたらつい……」
 至極申し訳なさそうな表情を作り、しおらしさ満点の声音を作って謝辞を入れる。
 しかし聖地へ足を踏み入れようとするほんの直前に見付かったのだから、恐らくそんな程度では解放されないだろう。面倒だが、相応の罰を覚悟しなくてはならない。
 それにしても普通に人間の立ち入りを封じるならもっと明文化してほしいものである。立て看板を設けるとか、会合の際にはもっと周知させるとか――

 ――騒騒ぞぞ

 不意に僕の胸中が枝葉のざわめきとなって表出する。
 いつの間にやら陽が傾いていたのか、視線を下げた地面がヘドロを塗りたくったかのように黒く明度と彩度を落としていた。
 僕の足許から陰鬱な闇が絡み付く。
 まるで足首を掴まれたかのように動かない。息が苦しい。指先から少しずつ体温が下がってゆく。
 風が冷たい。
「……っ!?」
 不意に至近距離から足音が聞こえて顔を上げる。すると視界に飛び込んできた村長の顔に、僕は思わず後退った。
 熱っぽく荒い呼吸にうっすらと上気する頬。
 気持ち悪い。醜く黄ばんだ眼球は血走り、その中央で僕を凝視する瞳が特に気持ち悪い。
 よく見れば瞳孔が開ききっているじゃあないか。これではまともに僕の姿など映るまいに。
 この爺は、僕を通して一体何を見ているのだろう。
 じり、じり。
 奴が一歩近付けば同じだけ後退し距離を取る。そうして睨み合いを続けて暫く、遂に僕の踵は退路の消失を訴えた。
 振り向かずともわかる。硬い岩の感触は洞窟の一部だ。視界の左端に映る真っ黒い洞。そこから風を吸い込む音が絶えず僕に訴えかけている。
 気が散りそうになりながらも脅威は着実に近付いていた。
 生臭い息遣いが感じられそうなほどの距離にまで村長が接近している。退路を断たれた僕は身を捩って少しでも触れられぬようにするので精一杯だ。爺の瞳孔が僕を飲み込まんと迫ってくる。
 駄目だ。
 もう、為す術はない。

「みつけたぞ、アマデウス」

『すまない』

 サリエリの声が聞こえた気がする。

 暗転。