ルナー・イクリプス - 3/5

    三

 異世界生活の中に丸藤亮の介護・・・・・・という作業が追加された。とはいっても、無駄に元気な病人がいつ発作に見舞われるか目を光らせておく程度のことであるが。
 あれ以降、亮は心臓を鷲掴みすることはなかった。ボクの目を盗んでこっそり耐えているのかとも思ったが、本当に何もないらしい。顔色は相変わらず白いままだが、何度も見ていると、最初からこの色だったのではないかと錯覚する。脳裏にへばりついて離れない亮の苦鳴も、小さく丸まった背中も、どちらも質の悪い妄想で、ヘルカイザーは病などに冒されていない。そんな思い込みでそう上書きしてしまいそうになる。だがその度に、少し前に交わされた自供も同然な遣り取りの記憶が事実を突きつけてきた。
 亮は寝室に籠もっていることが多かった。何をしているのか気になって一度だけ覗きに行くと、部屋に設えてあるデスクに腰掛け、何やら書き物をしている様子だった。開いた扉の薄い隙間から、見慣れたノートとペンが見える。恐らくトランクに入れて持ち歩いていたのだろう。日記か、あるいは詩か。どちらにせよ、自身を顧みることをしなさそうな男にそのような趣味があることに驚いた。記憶を遡る限り、あのノートを取り出す姿なんて一度も見たことはないのだが。
 淡々とペンを走らせていく黒い背中。実に模範的な姿勢で机に向かっている。手を止めて思考する時間もほんの僅かで、長くても三秒程でまた執筆を再開させている。一日の出来事を振り返る日記ですら、言葉選びやネタの捻出である程度思考する時間を要するというのに、彼は何を書いているのだろう。
 ――カタン。

「……ッ!?」

 不意に硬いものがぶつかる音がした。右手がノートの隣に置かれている。掌の下にペンもあった。紙面に視線を落とす恰好でしばらく制止し、やがて徐に左手がノートの表紙を掬った。ぱたん。空気が破裂してノートが閉じられる。どうしてか、男の心が閉じられたような気がした。
 それっきりボクは、亮の寝室を覗きに行くことはしなくなった。

 洋館で生活を始めて五日ほどが経った。昼夜を確かめる術がなく、手持ちの懐中時計で無理矢理時間を与えているため正確性に欠けるが、大体それくらいだろう。個人的にはあと二日ほど休ませたいところだが、食料調達のついでに立ち寄った集落で覇王軍の動きが活発化しているという噂を耳にしたのだ。つまり潮時であった。
 だが出発するにはまだ手札が足りない。できれば決定打となり得るものが欲しいが、一般人側から引き出せる情報には限界があった。近隣には聞き尽くした自覚がある。そろそろ別の角度から攻めてみなければならないだろう。
 今後の動きについて思案しながら、意味もなくエントランスをうろつく。不意に上階からゆったりと規則正しい足音が近付くのが耳に入って顔を上げると、白い顔の男がいつものコート姿で現れた。視線が絡むのを感知したボクは、頭の片隅で用意していた科白を投げて寄越す。

「亮、気分はどうだ?」

 これは今後の行動を円滑に進めるための確認だ。間違っても、亮の身を案じているからではない。

「変わりはない」

 案の定、病人は病人である自覚がなさそうな返答を吐き棄ててきた。冷ややかな視線がボクを見下ろす。

「なら、そろそろ出発する準備がしたい」
「覇王軍か?」
「ああ。近く、この周辺を進軍するらしい」
「ならばその前に、斥候がここを通るだろう」
「そうだろうな……。どうにか気付かれず捕まえたいところだが……」

 ボクは顎を撫でる。

「ならば……ここで待ち伏せすればいい」
「は?」

 思わぬ提案にボクは顔を上げた。変わらない無表情が目に映る。

「……方法は?」
「さあな。だが、お前は確か茶番が上手かったな」

 それはつまり、ボクに一芝居打てということだろうか。

「随分と無茶なことを言うんだな」
「敵陣に気付かれず斥候を捕まえたいなら、自陣へ引き込んだ方が効率がいい」
「設定や配役は?」
「お前に任せる。言っておくが、俺に役者の真似事など期待するなよ」
「丸投げか。病人のくせにいいご身分じゃないか」
「俺は事実を述べたまでだ」

 どうあっても考える気はないらしい。ある意味潔い亮の態度に、怒りを通り越して呆れが込み上げ、唇から零れ落ちる。二酸化炭素の濃度が増した。
 実際この男にできることは少ないだろう。頭は回るくせに、世事に疎い。腹芸じみたコミュニケーションを取るよりも、力で圧して口を割らせる姿の方が容易に想像できる。
 そしてこの想像は、悲しいかな現実問題として果てしなく正解に近いだろう。あまり動き回らないで確実に釣るなら、やはりボクが上手く立ち回る必要があった。

「わかった。ならば亮、お前は一階右手の広間で待機していろ。複数人なら部屋を分けて締め上げた方が、得られる情報も増えるだろう。いつでもデュエルできるように準備しておけよ」

 とはいえ、あるのは互いの頭脳とデッキのみ。資材も道具も、ほとんど皆無に等しい。ゲームマニアの縛りプレイよろしく劣悪な環境で打てる手段など限られている。幸いこの屋敷周辺に建物らしき影はない。ワンフロアだけでも明るくしておけば、それなりに目立つだろう。何より、ボクらには幾つも案を考えるような猶予はない。
 脳内で組み立てたシナリオの杜撰さに目を瞑り、亮をエントランスから広間へと追い遣る。再度ひとりとなって静寂が戻り、思考の波が静かに寄り添ってきた。少しずつ爪先から身を浸し沈んでいくと、この屋敷を訪ねてくる覇王兵の幻覚が現れた。
 さてどんなシチュエーションで出迎えてやろうか。最初は下手に出た方が自分のペースに持ち込みやすい。せっかく大きな屋敷を拠点にしているのだから、召使いのような振る舞いが自然だろう。適当に「主人の許へ案内する」とでも言えば分断も容易だ。丸藤亮を主人役とするのは些か癪だが、それは致し方ないこととして我慢するしかない。
 そうして粗方シミュレーションが済んだところで、ボクは一階全てに明かりを点けて獲物を待つことにした。