ルナー・イクリプス - 2/5

    二

 館に着いて早々、何かを察したらしい亮は、他人の肩を借りている身でありながら「構うな」と吐き棄ててきた。
 これには流石のボクも看過できず、されどこのまま床に転がしておくこともできず、歯痒さからくる苛立ちに任せて「ボクに引き摺られていなければ自分の足で立つこともままならない奴が文句を言うな」と声を荒らげてしまった。正に売り言葉に買い言葉である。少し前まではプロの先輩としてボクの方が余裕があったのに、いつの間にか逆転してしまっていることが腹立たしくて仕方がない。
 しかも当の亮は、ボクの雑言などどこ吹く風だ。鉄仮面ゆえに謝意があるのかすらも判らない。カイザーと呼ばれていた頃の方がまだ人間らしく揶揄い甲斐があった。ヘルカイザーと名を改めるとき、リスペクトデュエルと一緒に感情まで棄て去ってしまったかのようだ。
 これは、その切欠を与えたボクの咎なのだろうか。異世界で亮と行動を共にするようになってから、時折脳裏にちらつく。
 答えはまだ、見付からない。
 だがひとつだけ、ボクに身を預けて歩く男にはボクの助けが必要であるということだけは解る。ボクは粛々と、その責任を果たしていく。

 寝室に着くと、ボクはすぐさま亮をベッドに押し込む準備を進めた。窓を全開にし、枕や布団を振って溜まった埃を落としていく。本来なら天日干しでもできれば快適に眠れていいのだが、この世界に来てから一度も昼光を拝んだことがない。いつ来るとも知れない太陽を待つよりも、今できることを完璧にこなして少しでも長く休息の時間を取った方が得策だろう。ある程度ベッドメイクを終えたら、ドアの横で突っ立っている病人に寝るよう指示する。するとそのまま横になろうとする亮に、ボクは慌てて呼び止めた。

「おい亮、コートくらい脱いだらどうなんだ」

 子供か?

「あとベルトも外せ。できる限り身体の締め付けは緩めた方がいいからな。ズボンとインナー以外は全て脱げ」

 そう言いつけると、亮は緩慢な動作でコートの袖から腕を引き抜いていった。これが幼気な子供ならまだ可愛げもあっただろうが、相手はあのヘルカイザーである。わざとなのか無意識なのか判然としないところが余計に腹立たしい。
 とりあえず何とか無事にベッドへ押し込めることに成功すると、部屋の隅で縮こまっていた丸椅子をベッド脇まで引き寄せて腰掛ける。もちろん、手のかかる病人が抜け出さないよう見張っておくためだ。ただ座っているだけでは暇を持て余すので、鞄からデッキを取り出して構築の確認をする。この世界にいる以上、新たなカードの入手は不可能だが、勝率を上げるための調整はしておきたい。負けは死を意味するなら尚更だ。
 案の定、ボクが部屋に居座ることを察知した亮は「大袈裟だな」と鼻を鳴らした。

「ついさっきまで死にかけていた奴が何を言っている」
「俺はまだ死なん」

 病人は枕に頭を沈めたまま静かに笑っている。これは、自らの死期を悟っていながらも生き急ぐ馬鹿の顔だ。元の世界に帰れば延命の手段などいくらでもあるはずだというのに、この男は得体の知れない世界で自分の人生に幕を下ろすつもりなのだ。
 デュエルで死ぬことがデュエリストの本懐だとでも言いたいのだろうか。見つけたはずの弟と合流せず、こうしてボクとの二人行動を続けている辺り、人知れずくたばる心積もりなのだろう。己のデュエル以外眼中にないこの男ならやりかねない。
 ふざけているにも程がある。

「お前がボクと行動を共にしている以上、勝手に死ぬことは許さないからな」

 釘を刺したところで、我が道を行く男には響かない。解っていても、コイツの十字架を背負う可能性を考えたら、どんなにちっぽけな免罪符でも懐に忍ばせておきたかった。亮は馬鹿だが浅慮ではない。多分、全て承知の上でこの選択をしたのだろう。
 なら、腹を決めなければならないのはボクの方か。

「……いつからだ?」

 慣れているはずの日本語が、口にしづらかった。

「さあな。デュエルに明け暮れていて、気付く余裕もなかった」
「地下か……」

 亮は「ああ」と答える。

「翔は知っているのか?」
「知らんだろうな」
「このまま誰にも告げず死ぬつもりか?」
「お前が知っている」
「ふざけるな! ボクはお前の死を見届けるなんて御免だからな! 大体、なぜ翔と合流したときに話さなかった!」
「翔は、十代と袂を分かったばかりだ。そんな状態のアイツに俺の問題を話したところで何ができる?」

 あくまで静かに、亮は言葉を紡ぐ。極めて合理的な単語の繋がりが、完璧な質問の答えを示す。ボクが亮と同じ状況に見舞われても同様の返答をするだろう。だがそれは、相手が他人の場合に限る話である。肉親なら、死に目に会えなくても故人の十字架を背負わなければならない。日本人の多くが信仰する仏教には、死者に名を付け人目に付く場所に祭壇を設けるらしいが、それはつまり生者の生活の中に死者が居座ることになるのではないだろうか。
 ボクなら話す。自らの死期を悟ったなら真っ先に家族の許へ行き、ボクの亡霊に囚われることなく生きろ、とハッキリ告げる。たとえ肉親でも、自分のせいで家族の運命が狂うなど御免だからだ。

「たったひとりの弟なんだぞ!」

 他人の事情に踏み込み過ぎている自覚はあった。それでも、どうにも自棄的に見える男の態度に冷静さを保てない。知らずの内に椅子を蹴倒す勢いで立ち上がっていた。手に持っていたはずのカードは布団やら床やらに散ってしまっている。早く拾わなければならないのに、真っ白な顔をして天井を眺める男から目が離せない。
 そういえば、ボクは一度も亮と目が合っていない。

「お前に言われずとも解っている」

 亮はボクに一瞥すらくれず言った。勢いのない声は空気を震わせるには至らず、撃たれた鳥のように呆気なく落ちた。
 耳鳴りがする。

「……まあいい。とにかく、今はここで安静にしていろ。ボクは疲れたから隣の部屋で休む」

 不快な音が頭痛を伴い始めたところで、ボクはようやくカードに手を伸ばした。拾い集めながら、乱れた呼吸を整えて平静を取り戻していく。紛失したカードがないことを確認し、一枚一枚向きを揃えて鞄の中にしまう。倒した椅子の片付けも忘れてはならない。
 立ち上がってから部屋の扉に辿り着くまで、亮は何も言わなかった。引き留めの文句も、見送りの挨拶も、何もない。またしても心がささくれ立つ感覚がしたが、これ以上この無情な男に情緒的な関わりを求めても無駄である。それはここしばらくの生活で厭というほど思い知らされた。
 だが、言葉は通じる。ボクはひとつだけ言い忘れていた科白を舌の上に乗せ、振り向きざまに勢いよく投げてやった。

「ボクがいなくなったからって、勝手に部屋を抜け出すなよ!」

 返事は待たなかった。