ルナー・イクリプス - 1/5

    一

 成り行きで飛ばされた異世界にて同業者であるヘルカイザーと行動を共にするようになって、しばらく経った。
 この世界には昼夜の概念がない。加えて四六時中闇夜が支配していながら、月齢らしきものも存在しない。そもそも月がないのである。
 つまりボクたちが今いる世界には、暦というものがなかった。カレンダーに縛られる生活に慣れきっているボクたちからすれば不便極まりない。住人の生活様式について事細かに観察してみたい欲求に駆られたが、紀元初期のような文明レベルを見る限り、これといった不便もないのだろう。
 だがそれでも時は流れる。可視化されていない時間は、刻一刻と世界情勢の変化を知らせてきた。
 覇王軍とやらの台頭である。
 一緒に飛ばされたはずの遊城十代一行の行方が依然と知れない中で、それは最悪の展開だった。件の軍隊に属していないボクらは必然と連中から目を付けられるようになり、大っぴらに動き回れなくなってしまったのである。
 ボクのデッキも、亮のデッキもこの世界では異質だ。人の多い場所で戦えばすぐに勘づかれる。これで仲間と合流できれば御の字なのだが、今まで影すら掴めなかったのだからリスクの方が大きい。それに、気がかりは他にもあった。
 どうやら覇王は遊城十代なのではないかという疑問だ。甲冑で全身を覆っているが、声や背丈からまだ成人していないだろうということ。融合のカードを使うデュエリストであるということ。そして〝ヒーロー〟デッキ使いであるということ。主な要素としてはそんなところだろう。こうなればひとりの知人にすら会えない状況にも納得がいく。散り散りになったか、あるいはとうにこの世界から消えてしまったか。
 ボクと亮は、すぐさま情報収集にあたることにした。従来通り身を潜めたまま各地の集落へ足を運んで住民に話を聞くと、覇王に隷属したデュエリスト達が拠点に集結しようとしていることが解った。近く、大きな戦争をしかけるつもりだろうと専らの噂だ。
 ならば正面突破は難しい。幸いその辺に転がっているデュエリストは取るに足らない実力の者ばかりだったが、その全てを、ボクと亮だけで相手するには些か骨が折れる。目には目を歯には歯を。ボクらも相応の戦力を準備してから乗り込んだ方が得策だった。
 集落には何故かデュエリストの姿がほとんどなかった。女、子供、老人ばかりで、辛うじて残っていたデュエリストも、初心者に毛が生えた程度の到底戦力にならない者ばかり。聞けば捕虜として軍に連れ去られてしまったらしい。詳しい収容先までは知らないようで、これは直接軍の連中から聞き出すしかなかった。
 ここまでの収穫を得たところで、ふと見覚えのあるデュエルディスクを拾い、その後で亮が単独行動がしたいと言い出した。おおかた弟の行方を案じているのだろう。互いの行動を制限しているつもりもなかったので適当に許可した。体感して一晩ほどで戻ってきた亮に成果を問えば、ボクに一瞥すらくれず「ああ」と答えて去って行った。その背中を、ボクは慌てて追いかける。マイペースもここまで極まってくると、もはや子供の自由に振り回される親のような気分だ。
 他人に興味なさそうなこの男は肉親にも同じ態度を取るらしく、弟の安否を確認した後は早々に別れて戻ってきたのだ。ジェネックスで再会したときにも思ったのだが、ヒールに転向すると性格まで豹変するものなのだろうか。イメージチェンジと考えれば納得できそうだが、そもそも彼にそんな器用な真似ができるとは到底思えない。ましてや今はオフも同然である。本当にイメージチェンジをしたのであれば、ヒールの皮などとっくに脱いでいてもおかしくない。

 心の病・・・――そんな言葉が脳裏を過るも、確証がないため断定ができなかった。

 それに亮には、別の気がかりがあった。
 始めに気付いたのは、恐らくこの世界に来る少し前。忽然と姿を消した校舎と生徒が元の世界に戻ってすぐ、ボクと亮はオシリス・レッド寮へ様子を見に行ったときのことである。騒動の黒幕として浮上した精霊の存在について聞き耳を立てていた矢先、亮が僅かに表情を歪めて胸を押さえだしたのだ。しかし異変はほんの一瞬で、すぐさま元の不遜な表情に戻ってその場は収まった。あの頃から亮は、何か病めいたものに蝕まれていたのだろう。当時のボクは、それ以上深く追求しなかった。
 思えば彼の異常についてもう少し気にかけなければならなかったと、今になって後悔している。ボクはすっかり忘れていたのだ。丸藤亮という男が、どれほどに自分自身を顧みない悪質な人間かということに。
 平たく言えば、亮の体調は急速に悪化した。快適とは程遠いサバイバル生活に加えて時間の概念も薄いこの世界で、亮の疲労はみるみる蓄積していったのである。それなりに心得があるのか、始めの頃こそ共に野営の準備をしていた亮だが、日を追う毎に休息の時間が増えていったのだ。
 疑念が確信に変わった瞬間だった。これ以上野営を続けることは難しいと判断したボクは、そろそろどこか雨風の凌げる建物でも探さなければならないと頭を悩ませるようになった。
 しかし思い立っても、そう都合よく事が運ばないのがサバイバルである。

「……ぐっ……う、ぁ……!」
「亮!」

 次の集落に向けて森の中を歩いていると、それは起きた。前方の亮が不意に歩みを止めたかと思うと、背中を丸めて崩れ落ちたのだ。慌てて駆け寄り、俯く亮の顔を覗き込もうとして既視感が過る。左胸を鷲掴みするような仕草。それはアカデミアで見た異変と同じだった。手の甲を突き破らんと隆起する骨が、亮を襲う苦痛の度合いを示している。悪化していることは明白で、すぐにでも休息の場を探さなければならなかった。

「すぐに休める場所を見付けてくる! 間違ってもここでくたばるなよ!」

 革製のトランクに縋り付いて上体を支えている亮を半ば押し込めて横にさせる。頭の下にはボクの私物であるアルミ製の鞄を挟んで枕代わりにした。革と比べて寝苦しいだろうが、緊急事態にそう贅沢も言っていられない。亮のものより厚みがない分、多少はマシだろう。そして自分の外套を布団代わりにかけ、デュエルディスク以外の荷物全てを置いたところでこの場を離れた。
 見渡す限りの木、木、木。変化に乏しい鬱蒼とした景色は、形振り構わず走るボクに焦燥を与え、代わりに肺の中の酸素を奪っていった。こめかみを伝う汗を拭う時間すら惜しい。どこまでも続くじっとりした地面が、ボクの行く先を阻み続けている。
 永遠の夜が支配する世界では道標となる太陽光に頼れず、そのせいで探索は困難を極めた。少し考えればすぐに気付くはずなのに、亮の病的発作を目の当たりにしたボクは存外に冷静さを失っているらしい。焦りは世界の思う壺だ。頭では解っていても、一刻を争う事態の中では早々落ち着けるはずもなかった。
 亮から離れてしばらく、前方で立ち塞がっていた森が消えていることに気付く。そのまま真っ直ぐ突っ込んでいくと、開けた場所に出た。
 頭上には巨大な彗星が支配する夜空がある。足下にはだだっ広い未舗装の道路が左右に広がっている。ようやく森から出られたのだ。

「……あっ……!」

 安堵の溜め息を呑み込んで、すぐさま周囲を見渡す。左へ九十度回しかけた所で、目当てのものを見付けた。
 廃墟のような様相の屋敷だった。西洋式のレトロ建築のようにも見えるが、具体的な建立時期は不明だ。明かりもなく、建物の荒廃具合から無人であろうと推測した。
 念のため軽く屋内を探索する。やはり人の姿はない。寝室は二階にあった。ベッドやクローゼットのような大きな家具は残っているが、調度品はない。図体のでかい男を運び込むには骨の折れる階層だが、背に腹は代えられない。むしろ階段を上ってすぐの場所に寝室があったことは幸いといえるだろう。最低限の間取りを頭に叩き込み、そそくさと来た道を引き返す。
 そして戻る頃には、既に亮の発作は治まっていた。けろりとした顔で「遅かったな」とぬかす病人に、どっと疲労感が押し寄せる。一言物申したい衝動をどうにか呑み込んで、先程の洋館へ亮と共に向かう。
 ボクの肩に腕を回して歩く病人の足取りは、少し重かった。