二
代わり映えしない景色に挟まれた、適当な脇に廃材を寄せてできた程度の粗末な道を歩いてしばらくが経った。
彼が立ち止まり、漆黒のコートが翻る。目的地らしいそこは、周囲と同じスクラップを材料にしたかまくらのような建物が聳え立っていた。どのような方法で建立したのか不明だが、デュエルモンスターズの墓場などという非現実的な世界で理屈を考えることは無意味である気がした。
彼に遅れて亮も足を止める。それから一歩、二歩と前進を再開して、また止まった。
三階もありそうな建造物は他の山と比べて一際高い。まさに〝廃墟の城〟と呼ぶに相応しい貫禄を備えていた。建材に使用されている廃材は今までに見たスクラップの全てが使われているらしく、中には亮が手に取ったサイバー・ドラゴンの部品も混ざっている。
他にもサイバー・バリア、サイバー・レーザーと、慣れ親しんだモンスター達の残骸も見て取れた。頭部のパーツが亮を睨む恰好で露出しており、まるで部外者の入城を拒むかのような威圧感を放っている。並々ならぬ怒りを向けられているような気がして、亮は僅かに後退る。
しかし彼は構わず亮に背を向け、門扉のない城の中へ入って行った。先を促すことも物怖じする態度を嘲笑うこともせず、ただ静かに建物の中へ消えていく。先導者の動きに意識が現実へ戻った亮は、慌ててその後ろをついて行った。
城と表現した建物の中に人が生活していたような痕跡はどこにもなかった。山の中には小さくした同じ山があるだけで、調度品のようなものはどこにも見られない。ますます不思議な造りの建物である。
奥に向かって歩みを進める彼の背中。それがやけに広く見えるのは、肩を大きく見せる作りの衣装のせいなのか、亮には判別がつかない。やがて彼が再び歩みを止めたその先は地下へ続く階段があった。
カツン、カツン、カツン――
二人分の足音が通路中に反響する。壁はコンクリートで囲まれ、階段は縞鋼板でできているためによく響く。増幅された音が方々へ飛び散り、亮と彼の鼓膜を叩く。覚えのある音と景色。それらは一体何だったか。亮と彼の存在を証明する上で欠かせない記憶であるはずだというのに、脳は回顧を拒絶する。自らの中に生まれた相反する欲求は、亮の頭に鋭い痛みを齎した。
最後の一段を下りる。正方形に刻まれた目地が模様のように広がる床の上に二人は立った。踏板の位置を確かめるために落としていた視線を上げる。部屋の半分を覆う規模の巨大な檻が目に飛び込んできて、亮は息を呑んで瞠目した。
――無様な敗北。投げ込まれるゴミと残飯。
――ダクトが剥き出しの薄汚い廊下にて、自分を待ち伏せしていた黒衣の男。
「は、……ッ!?」
固く閉ざされていた記憶の蓋が開いていくのが解った。体内を殴打されるような痛みが、波のように押し寄せてくる。
――飴玉をちらつかされた子供のように、男の背中を追う自分。
――その男が浮かべた笑みの意味を深く考えようともせずに。
――人気のない夜の路地。罅割れた雑居ビル。地中深く伸びる階段。
――鉄扉を開けると、仮面で素性を隠した観客に囲まれて巨大な鉄檻が鎮座している。
「ぁぐ、うぅ……!」
両足は爪を立てられたかのように自立する力を奪われた。墓の山を目にしたときと同じように膝が折れる。どこが痛むのか解らない。自分自身を抱き締めながら、無心に二の腕を掻き毟った。
――自分を餌と認識し、下卑た笑いを隠そうともしない対者。
――見知ったルールであるはずなのに、違うゲームを強いられているような違和感。
――次々と錆び付くモンスター達が、無慈悲な対者によって葬られていく。
――そして、無力な自分を嘲笑うように電流が襲いかかった。
今度は首を絞められたかのように呼吸ができなくなった。はくはくと唇を開閉させて仰け反るも、一向に酸素が取り込まれる気配がない。
頽れた身体がみるみる丸まっていく。あまりにも覚えがあり過ぎる痛みの奔流が身の内を暴れ回る。どこを掻き毟っても、背中を丸めてのたうち回っても、感覚全てが苦痛に変換されて何もできない。
――なんだ、この痛みは。
いつかに零した無知蒙昧な科白が再び口をついて出た。
「ああ、痛かったな。これまで経験した中で最上に値する苦痛だった」
抑揚の死んだ声が前方から飛んでくる。重い頭を持ち上げると、檻の中央に立つ彼が静かに亮を見下ろしていた。声音と同じく、表情も抜け落ちている。
亮は彼の態度の理由が解らなかった。どうしてこうも他人事なのか。お互いを同一人物だと評したのは他ならぬ彼だというのに、都合のいいときだけ他人のフリをするのか。怒りよりも困惑の方が強く、山ほどあるはずの疑問質問は、しかし痛みで痙攣する全身が発言を許してくれなかった。指先ひとつ動かすのも億劫だと訴えてくる。丸まっていた身体がぐらりと揺れ、遂には床へ倒れ伏した。
「人間の順応力には目を見張るものがあるな。あれだけの苦痛を、何度も受け続けていればいずれ慣れが生じ、苦痛だとすら思わなくなる」
靴音と共に彼の声が近付いてくるが、身体はピクリとも動かない。無様に転がったまま、彼の放つ科白をただ甘受するしかなかった。
「お前は……俺達は、最も無様な方法で痛みに順応した。〝苦痛〟に関する記憶を切り離し〝俺〟という自我を生み出すことによって地下デュエルを制したのが証拠だ。当初は劣勢に立たされたときだけだったのが……いつしか、デュエルそのものにお前は苦痛を見出した……」
「そ、れが……俺の意識が消えた、原因か……」
「そうだ。あの日記では随分と俺を非難していたが……実際は、お前自身が意識を保つことを放棄したのだ」
靴音が止まる。転がる亮の頭上に彼の気配がする。いつの間にか痛みは止んでいたが、全身を強張らせた疲労から未だ満足に動けない。そして氷のように冷めた眼差しで彼に見下ろされていることを想像すると、なおさら仰視する気にはなれなかった。
「それで? いつまで寝ているつもりだ。俺と話がしたくてここに来たんだろう?」
それでも彼は亮に立ち上がれと暗に言う。手を差し伸べる素振りは見せないが、声音に急かすような態度が見え隠れする。軋む関節を叱咤し、よろめきながらも何とかして立ち上がる。重い右脚を引き摺るようにして前に出し、一歩ずつ、覚束ない足取りで檻の中へ彼と共に入っていく。
あの日、何も知らない亮を招き入れたデュエルフィールドと同じ。
しかし、二人の腕にデュエルディスクはない。デュエリストが意思の疎通を図る上で最も手っ取り早い手段が使えない以上、別の方法に頼るしかなかった。
丸藤亮は、言葉を用いてのコミュニケーションが苦手である。会話よりもデュエルの方が相手から得られる情報が優れていると認識しているため、努めて言葉を発してこなかったからだ。
つまり、彼と話がしたいと勇んで対峙したはいいものの、開口一番に何と言えばいいのか判らずにいた。そしてそれは彼も同じであろう。
流れる沈黙に圧され、唇は固く閉ざされていく。ぐるぐると渦巻く質問の数々。その内のひとつを抜き出し、舌の上に乗せる。もっと他に気の利いた科白があっただろうに、言葉による対話が苦手な亮にとってこれが精一杯だった。
「日記は……続けてくれたか……?」
薄氷を踏むような神妙さで、亮は科白を口にする。どこにでも転がっているような話題だからこそ、選び取ることは難しい。それは眼前の彼も同じで、突拍子もなく投げられたそれに面食らいながらも質問の意味を咀嚼し、乏しい語彙を駆使して返した。
「大したことは書いていないがな」
「そうか……」
亮はほっと目を伏せ、胸を撫で下ろす。
「だが……もう見られないのは、少し残念だな」
「だからこそ、お前の願いを叶えてやっただろう」
「あのヨハン戦のときか……。闘っていたのはお前だったが、不思議と俺にも意識はあった。まるでお前と共にデュエルしているような感覚だった……。感謝している。ありがとう」
しかし、彼は不審げに眉を顰め「なぜ礼を言う?」と吐き棄てた。それに答えるため、亮は続ける。
「自我の主導権がお前に移って以降、ずっと考えていたんだ。何故、デュエルのときだけ意識をなくすのか……。始めはお前が俺からデュエルを奪っているのではないかと考えたが、やがてそれは違うと気が付いた」
彼は沈黙する。静かに、亮の言葉に耳を傾けている。
亮は伏せていた目を上げ、彼の薄い虹彩をしっかりと捕らえた。
「……ずっと肩代わりしてくれていたんだろう? 地下で芽生えた敗北の恐怖を」
亮の眼差しには射貫くほどの鋭さはない。しかし真っ直ぐで揺るぎないそれは、確実に彼を射止めていた。
カイザーでも、ましてやヘルカイザーでもない。〝丸藤亮〟というひとりの男が持つ実直さを表してのものだった。
「確かに俺は、デュエルという決闘から逃げていた。プロの世界において重視すべきは結果だ。道場で師範から教わった〝リスペクトデュエル〟を語るには、まず結果が伴っていなければならない。俺のしてきたことは……張りぼてのエゴに過ぎなかった……」
――知っていた。解っていた。気付いていた。
――それなのに、ずっと目を逸らし続けていた。
「プロデュエリストとして生き残るために……勝ち続けるために、お前は最善の方法を執った。ただそれだけだった。俺そのものとも言える矜持を曲げてまで、お前はその選択をしてくれた。……俺には到底できないことだ」
「……俺はお前だ。俺の執った選択は、同時に、お前の選択でもある」
「そうだな……。だがお前が選ばなければできなかったのもまた事実だ」
――ありがとう。
亮は目頭が熱くなるのを感じた。
「お前のお陰で……俺は俺のままでいられた。お前が痛みと恐怖の記憶を肩代わりしてくれたお陰で、俺は自分を見失わずに済んだ……」
ずっと言いたかった。散々に否定し、非難し続けたというのに、彼は最期まで痛みを被ってくれたことを。
そして――
「ずっと謝りたかったんだ。お前がどういう存在か気付いていたのに……俺は拒み続けた……」
――すまなかった。
声に震えが生じていることに気付いた亮は、それっきり口を閉ざす。ぼやりと視界が滲むも、涙が出る気配はなかった。
二人の口元には二種類の笑みが刻まれている。
次は、彼が口を開く番だった。
「俺は……お前が自分自身を守るために切り離した存在だ。俺は、俺の執った行動を悔やむつもりもなければ、お前に非難されたことを憎むつもりもない。どちらも、お前を維持する上で必要な過程だった。……だがその口振りでは……もう俺は必要ないと見える」
彼の科白に、亮は緩くかぶりを振った。
「そうじゃない。どちらも俺なら、一つに戻ることも可能だろう? 互いに同じ記憶を共有し、同じものを見て、同じ目的に向かう。俺達は……変わらなければならない」
どちらか片方だけが残れば、いずれ同じ過ちを犯すだろう。崇高過ぎる理想に押し潰されることも、地獄に身をやつして泥水を啜ることも――もうしてはならない。
自らを打ち上げ、天高く昇る蕾から、絢爛かつ大輪の花を咲かせて証明したのだ。
二人の〝丸藤亮〟が選んだ道は、どちらも間違いではなかったのだと。
そのために、亮は彼に哀願したのである。
勝ち負けを超越したデュエルがしたい、と。
「お前の痛みは俺も背負うべきものだ。そして俺だけが甘受し続けていた温い記憶も、お前は受け取る権利がある。そうすれば俺は、やっと……この世界が見せてくれた過ちと向き合うことができる……」
やっと決心を付けることができたんだと、亮は言った。不器用に歪む笑顔は哀切を湛えており、しかしその瞳から悲しみの雫が零れることはなかった。胸に固い決意を抱き、真っ直ぐ彼を見詰める。
しばしその眼差しを眺めていた彼は、す、と身を捻って逸らす。半身だけ後方に向け「なるほど」と嘆息する。
「それで、こんなものが置いてあるのか……」
「……ベッド……?」
「そうか。たしかにそれが一番手っ取り早い」
どうする? と彼は首だけで振り返り亮に視線を戻す。しかし亮は彼の言葉の意味が解らない。
亮の声なき疑問を無言で受け取った彼は、ベッドに向かって歩いていく。白一色で統一されたシーツと枕。何故か布団がない。どこかのホテルで見たような大きなベッド。彼が腰かけたことでそのサイズがよく解った。大人二人が寝転がっても窮屈さを感じないキングサイズ。少々硬い感触ながらもよくバウンドするスプリングは、彼の身体をしっかりと支えている。
「初めて地下デュエルを行ってすぐの頃だ。リーグ復帰のためにと猿山に呼ばれ、会食をし、その後……お前はホテルで何をされた?」
そして記憶の糸を辿るように放たれた彼の科白に、亮の呼吸が乱れた。
思わず踵が逃げを打つ。
「やはりそこは覚えているか……。あれ以降も、会食と称して何度かさせられていた」
「復帰……してからもか……?」
「俺自身の力で稼げるようになってからは、流石になくなったがな……」
「それを……俺が……」
「そうだ。お前の宣言を実行するのであれば、これも受け入れなければならない」
問われる覚悟。亮は逃げ出したい衝動を必死に押し殺して、悪夢の舞台と、それに腰掛ける彼の姿とを交互に見遣る。
重大な選択の場において、亮は常に迫る側だった。強制することもしなければ、選んだ道を非難することもしない。ただ静かに、自らの選択に責任を持てと言うだけ。
彼も同じ丸藤亮なら、選び取った亮の行動に異を唱えることはしないだろう。
即ち、亮が選ばなければ、彼は永遠に待ち続ける。
そうなれば、二度と彼と対話するチャンスを失う。亮はそんな予感がした。
選び取るしかない。腹を括るしかない。いつかの檻の中で自分を買った男が言ったように、自分が、互いが生き残るためには、彼の受けた苦痛を受けなければならない。
カツン――
怖じ気づく脚を叱咤して、前へ押し出す。一歩分ずつ彼との距離が詰まり、能面のような仏頂面が鮮明になっていく。
やがて腕を伸ばせば触れられるほど近くなったところで、亮は立ち止まる。
「覚悟を決めたか」
凜と低い彼の声。
「ああ」
それに返事と共に腕を伸ばすと、亮は獲物を捕らえるような俊敏さで掴まれた。