三
深まりきった夜の末路は、清々しい朝日だ。徐々に足されていった白が飽和した末に新たなインクを垂らされ、空色から白藍、紺へと変じていく。
それはまるで、亮の人生を表現してるかのようだと思った。蒼穹のように鮮烈な青で学園を照らし、けれど地獄に落とされた光は月光のように死んでしまった。否、僕としては光っている以上まだ希望はあると思っていたけれど、当の亮がその手を拒んでしまったのだ。
そして、翔君から聞かされた異世界での末路。きっと何よりも美しく輝いていただろう。そのまま終わらせてしまうには惜しいほどに。
翔君曰く、亮の最期を看取った周囲は皆、涙していたと言っていた。そしてその輝きを十代君は受け継ぐと誓ってくれた。亮としてはこの上ない幸せだっただろう。多くを望まない彼はそれだけで十分だと、心から言える人だから。
「……亮」
ベッドの縁に腰かける。あのまま夢の中へ意識を手放してしまった亮は、自身の髪を弄ぶ僕の指に気付かない。徐々に白んでいく空がそよ風を運んでくる。ついさっきまで情事で蒸された空気が、開け放たれた窓を通して清浄なものと入れ替わる。ひやりとする感覚が心地好かった。
「……ん?」
ふと真っ白な空間に一点のシミを垂らされたかのような強い色を感じ、視線を遣る。枕の下敷きになっているそれは激しい情事で動いたのか、半分だけ顔を覗かせていた。
ゆっくりと引き抜き、表紙と裏表紙を確認する。
「ノート……?」
それは、表紙に書かれた日付以外は何もない、ごく普通の大学ノートだった。無意識にページを捲るために持ち方を変えて――しかし視線をずらす。
持ち主は未だ寝息を立てたままだった。深い夢の底にいることを確認して、それが不躾な行為であると自覚した上で、少しだけ紙質の硬い表紙を捲る。
生真面目な彼のことだからマメに付けているのだろうと思っていた。実際は逆で、意外にも要領を得ない文章と飛び飛びになっている日付から、あまり習慣付かなかったのだろうと推測する。
『一月四日(水)
日記を始めた』
初日はこんな書き出しだった。内容は、自分のことを書き綴っているはずなのにどこか他人事。そこが亮らしいといえばらしいのだが。身体の不調を訴える記述がそこかしこに見られ、けれどそれを切実に思うような表現が一切ない。明らかに異質だ。
中でも特に違和感を覚えた記述は記憶障害を示唆する表現と、別人が書いたような荒々しい文字。まるで交換日記をしているかのような二種類の筆跡は、僕の中にひとつの予感を想起させた。
ジェネックスで対戦した亮はどちらだったのだろう。
そして、今の亮はどちらだろう。
読み進める度に亮の意識が解離を起こしているのが解った。あれだけ渇望した勝利を手に華々しく返り咲いた裏で、筆舌に尽くしがたい懊悩の日々を送っていたのだろう。僕が見慣れた文字は徐々に減り、あの異様な筆跡が目立つようになる。
日記は異世界に飛ばされても続いているようだった。この辺りから、ほとんどの出来事は荒い文字が大半を占めるようになっていた。亮の意識が消えたのか、あるいは統合されたのか。恐らく前者だろう。
これまでずっと亮を突き放しているばかりだった文字は、ある日を境に歩み寄りを見せていた。原因は、現在治療中である心臓の病だった。生命の危機を感じて初めて、自身の苛烈さに気が付いたのだろう。
以降の顛末は記されていなかったけれど、これは翔君や十代君から聞いているから知っている。
最高のデュエルを。
瞬間の輝きを永遠に。
それが、ふたりの亮によって導き出した結論なのだろう。
死期を早めるだけだと知っていても、デュエルを続ける。
それはあまりにも痛ましくて亮らしい答えだと思った。
ふたりの亮はやはり感情が希薄だった。義務と責任について常に思考し、それにより確立させた強固な矜持は、些細な切欠で移ろう感情を必要としなかった。棄てたのか、あるいは元々優先度が高くなかったのか、判らないけれど。
そんな亮の日記の中に――簡潔な文章で綴られた一日の記憶達の中に、慟哭じみた感情が血痕のように浮かんでいる。明確な表現はされていないが、筆跡の乱れや、合理性を失った構成から感情の揺らぎが見えるのだ。
痛み、苦しみ、怒り、そして悲しみ。
戸惑いもあるかも知れない。
それら負の感情が糸のように絡み合い、亮を雁字搦めにしていた。どれだけ辛かったのか、推し量ることしかできないのが歯痒くて堪らない。
『全身に巻かれた傷跡と彼が恐怖から身を挺した事実を忘れてはならない』
これが、最後に記されていた文である。
ノートを閉じる。日記とするにはあまりにも淡泊な記録には、これまで一度も見たことのない恋人の葛藤が綴られていた。音を立てないよう、そっとサイドテーブルの上に置く。身を捻り、未だ夢の淵を彷徨ったままの恋人の前髪をサラリと払う。名残惜しそうに絡み付く毛先が朝日を受けて白く煌めいた。
「亮……今の君は、どっちなんだい?」
穏やかな寝顔を見下ろして、小さく問いかけるも、当人の耳に入れるつもりはなかった。亮がずっと積み上げてきた心の要塞を暴くことになるし、なにより、学園で療養を始めてから何度も僕と顔を合わせているのに一度も日記の話をしなかったのだ。恐らく、翔君も知らない。
彼が自ら口にしないのなら、たとえ一時の好奇心で覗き見てしまっても知らないふりをするのが優しさというものだ。
この科白は、知りたいという抗いがたい衝動を小さくするための、一種の儀式である。だからこの言葉に意味はない。意味を持たせてはいけない。
なのに、彼はどうしてこんなにも聡いのだろう。
「そうだな……どちらでもあってどちらでもない。いや、むしろ前者に近いか……」
「……えっ」
眼下の恋人は、いつの間にか夢から覚めていた。朝日を吸い込んだ碧色の瞳が宝石のように透き通っている。
僕は弾かれたようにベッドから立ち上がった。
「ご、ごめん……! その、読むつもりは、なかったんだ……」
「かまわない。どの道、いつかは話さなければならないと思っていた……」
亮は真っ白な天井を眺めながら目を細める。天井の向こう側に広がっているだろう雲を見詰めているような、そんな遠い視線だった。
それが、つ、と横に逸れる。寝起きの、透明度の高い瞳が僕の顔を映す。眦が柔らかく綻んだ。
「対者をリスペクトしようとする俺も、貪欲に勝利を渇望する俺も、どちらも俺に変わりない。丸藤亮の名を冠する以上そんなことは当たり前だというのに……俺は俺を否定し続けた。その結果に、自我が解離したんだろう」
「じゃあ、今は?」
「けじめをつけた。俺も、十代のことを言える立場ではなかったらしい。逃げ続けた記憶を肩代わりしてくれた俺と話をつけた。もう、互いが離れることはない」
それは学園で何度も見せてくれたものと同じ笑顔だった。自信に満ち溢れた、晴れやかかつ穏やかな表情。
ああでも、あのときより随分といい顔になっているような気がする。カイザーでもヘルカイザーでもない、他ならぬ〝丸藤亮〟が見せてくれた笑顔だから。重過ぎる荷物を下ろした彼は、とても美しい顔をしていた。
僕はもう一度ベッドに腰かける。身を屈めて、仰向けの亮の顔に自身の顔を近付けた。
「僕たち……やっと本当の恋人になれたね」
「ああ……随分と待たせて、すまなかった」
光量を強めた曙光は〝陽光〟と名を変える。
気が遠くなるほどに長い夜を彷徨った僕らは、頼りない灯台の光をずっと道標にしていた。どちらからともなく口にした「明けない夜はない」という言葉を信じて。
それがやっと、報われるのだ。
唇を重ね合う。
甘く、切ない味がした。