明月を喰らう - 5/5

    四

「彼は、とても素直でいい子だったよ」

 気を失った亮をベッドに横たえたままシャワーを終えた男が、湿った薄毛をドライヤーで乾かしながら言う。その様を眺めながら猿山は「光栄です」と口にした。

「明朝に組み合わせ会議がある。そこで彼の出場を打診してみよう」
「ありがとうございます。必ずや結果を出してみせましょう」

 当り障りのない笑みを張り付けて答えながら、猿山は心の内で事の達成を噛み締める。
 これでようやく、スタートラインに立った。そこが戦場でさえあれば結果は揺るがない。今でこそ襤褸雑巾のように倒れ伏しているが、彼はヘルカイザー・・・・・・の名を冠しているのだ。
 丸藤亮は勝利に飢えている。涎を垂らすほどに渇望する獲物を逃すようなヘマはしない。

「期待しているよ。……ああだが、仮に勝てずとも、また私の許へ来ればいつでも提供してあげるがね」

 ドライヤーのスイッチを切った男が耳につく声でそう言った。テーブルに置いておいた服を纏うと、入室時と違わぬ身なりができあがる。これで外に証拠は残らない。
 猿山は「よい夢を」と残して部屋を出て行く男に最後まで抜かりなくごまをするために、キッチリ九十度に折り曲げた腰で形ばかりの敬意を表す。その姿勢は扉のラッチが噛み合う音を聞くまで崩れはしなかった。

「……ふう……」

 終わった、と猿山はひとり安堵の息を吐いた。日付はとうに変わり、あとは朝日を待つばかりである。
 再び室内に戻り、ベッドを見遣る。性交の名残は何一つ払拭されておらず、その被害者たる亮は未だシーツに沈んだままだった。猿山に背を向ける恰好であるため、表情は判らない。
 彼は太陽が昇るまで起きることはないだろう。今日を終えるにはもう遅い。あらゆる汚物に塗れたままのその姿に一瞥をくれ、猿山は軽く仮眠を取るためにソファーへ足を向ける。

「……おわったか……」

 不意に、嗄れたテノールが耳介を撫でた。「起きていたんですか」と猿山が振り返って問えば「ドライヤーの音が喧しかった」と答えた亮が寝返りを打つ。仰向けになったことで色濃い疲労を貼り付けた表情が見て取れる。薬は抜けて瞳はいくらか光を取り戻したようだが、唇から漏れ出る吐息はまだ色を残していた。

「これが……俺に勝利を提供するための手段とやらか?」

 天井に視線を投げたまま吐き出された科白が弱々しく霧散する。返答を拒否するような音量を拾い上げた猿山は「ええそうですよ」と言った。

「せいぜい頻度が減るよう努力することですね。ヘルカイザー」

 その言葉に、人形のように虚ろだった眉に感情がこもる。

「なら……奴の出る幕は、しばらくないな……」
「……?」
「シャワーを浴びてくる。俺が戻るまでに、その汚らわしい痕跡を消しておけ」

 数時間前の白痴っぷりが嘘のように不遜な態度で、亮は起き上がった。ベッドから立ち上がる際に僅かによろめくも、猿山が支える前にひとりで踏み留まる。大胆に全裸を晒し、内腿を伝う性交の残滓を纏わり付かせながら、ぎこちない足取りでシャワールームへ消えていった。

 床に叩き付けられる水流の音に混じって聞こえてくる雑音。
 人間の呻吟か、獣の唸りか、判別がつかない。
 だが、これだけは猿山にも理解できた。
 如何に皇帝に相応しい風采を持ちつつも――

 その実、彼は、まだ年端もいかぬ餓鬼でしかないということを。