二
次なる花形を祭り上げる準備は着々と進む。
亮のマネージャーとなった猿山は、その契約に沿って戦場を提供し続けなければならなかった。地下であればいくらでも見繕えるが、それでは宝の持ち腐れである。せっかくプロから引き抜いてきたのなら、その肩書きを使わない手はなかった。
猿山は手持ちのコネクションを駆使してマイナーリーグ責任者の男とコンタクトを取った。幾度となく会談を重ねるもあまり感触がいいとはいえず、やはり一度落ちぶれたデュエリストなどその程度かと諦めかけていた。
しかしあるとき、男はこんなことを口にしたのである。
「一度でも落ちたデュエリストが再びプロの舞台に立ちたいなら、本人がその身で示さなくちゃなぁ」
なるほど、と猿山は顎を撫でた。この男が酔狂者であるのは業界でも有名だ。亮の名前を出してからずっと、その濁った水晶体がキラリと煌めいている辺り、随分と執心であるようだった。
すぐに猿山は「喜んで手配させていただきます」と頭を垂れた。猿山の手帳には、走り書きの文字で新たなスケジュールが追加される。
「それでは、会場でお会いできる日を楽しみにしております」
廊下には、慇懃にそう挨拶をする猿山と男以外に人の姿はなかった。
そして当日。
催しの主役である亮には「マイナーリーグ責任者との会食がある」とだけ伝えてある。場所はホテルも併設された高級レストランだ。
ウエイターの案内で奥の個室へ向かう。先客はまだいないようだ。猿山は亮に四人がけテーブルの上座へ座るよう促す。会食ではもてなす側だと聞いていた亮はその指示に眉をひそめたが、先方たっての希望だと伝えると渋々といった様子で腰を下ろした。それを見届けて、猿山も亮の向かい側に座る。
特に何か言葉を交わすこともなく、手帳を眺めて無為に時間を潰す。書き込まれていないこの後の予定について段取り確認をしていると、ふと眼前の青年のことが気になった。
青年はぼんやりと、壁の彫刻を眺めたり卓上に並ぶ食器に視線を落としたりしている。契約を交わした日に見た不遜な態度など微塵もなく、心ここにあらずといった様子だ。緊張しているのか、それとも単に何も考えていないのか。能面じみた顔の裏がまるで読めない。一見すると少し冷徹な印象の、極めて静かな男である。しかし実際はどんな獣よりも獰猛な怪物を腹に飼う男だ。
だからこそ、不気味なまでに大人しい亮の態度に違和感を禁じ得ない。
(まあ……暴れられるよりはマシか……)
亮は猿山の視線に気づいていない様子だった。早々に興味をなくした猿山は、手元のスケジュールに再び目を落とす。
そうして長い沈黙のまま刻限となった。時間ぴったりに現れた主賓を握手で出迎えた猿山は、亮の隣へ誘導する。ウエイターにコースの開始を告げると、空気が一変して腹を探り合うような談笑が始まった。
会話を先導したのは猿山だった。喋り過ぎず、黙り過ぎず、絶妙な密度で話題を提供し、主賓の男から望む言葉を引き出す。対して共催であるはずの亮は自ら話題に乗ることはなく、ただ黙々と食事を進めていた。
ほんの数ヶ月前まで学生だった男は、こういった場では役に立たない。もとより最初から期待などしていなかった。猿山と男にとって会食は前座で、本番はその次なのだ。適度に気分を盛り上げたあと、最高の宴となるようバトンを繋ぐ。
パスの相手はもちろん亮である。しかし当の本人は、そのバトンの意味も、バトンを渡されることも知らない。
初めてには違いないだろう。ならばせめて痛みばかりの思い出とならぬよう、ある程度の配慮が必要だ。きっと今後も求められる可能性は高いであろうから。
そんなことを思う猿山は会話の隙間に、喉奥で嗤った。
コースの最後を飾るデザートを食べ終えたのは三人ほぼ同時だった。
「悪くないディナーだったよ」
「それは光栄です」
雑談に興じつつ、沈黙の濃度が増したところで前方の亮へ目配せして合図を送る。ガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、猿山は主賓の男へ右手を差し出した。
「本日は貴重なお時間をいただき、誠にありがとうございます」
硬くごわついた皮膚の感触が掌にじわりと広がる。心なしか湿り気を感じるのは、この後の展開を想像してのことだろうか。
猿山はヘテロセクシャルだ。自らお膳立てしたとはいえ、とても正気の沙汰とは思えなかった。生贄になる亮に同情心を抱くことこそないが、やはり邪魔な私情は棄てた方がいいだろう。
「私は少しここで用を済ませてくるから、君たちは先に行っててくれたまえ」
男の耳打ちを合図に、握手を解かれた。男はそのまま隣に立つ亮にも握手を求め、一回りほど大きな掌が、細く節くれ立った白い手を包む。感触を確かめるかのような動きを視界に捉え、猿山は僅かな嫌悪感を覚えた。
「今日はいい夜になりそうだ」
「こちらこそ、ありがとうございました」
笑顔か真顔か判別のつかない顔で、亮は男の手を握り返した。その硬くぎこちない動きから猿山はやっと、亮が緊張していたことに気付く。
「では、私たちはこれで」
そうして挨拶を終えた三人はその場で解散となった。上座でつっ立っている亮を連れて個室を出る。打ち合わせでは、男とは一時間後に客室で落ち合うことになっていた。
レストランの更に奥へ向かって革靴が床を踏み鳴らす音がふたつ、パラパラと響く。フロントで名前を告げ、鍵を受け取った。ボーイの案内で向かったエレベーターが三人分の体重を乗せて軽々と上昇していく。
ガラス張りの箱。ドアから離れた両角に、猿山と亮がそれぞれ張り付いている。背面ではネオンの街並みが急速に遠のいて小さくなっていき、その景色を、亮は無表情に眺めていた。
やはり、奇妙な男だと猿山は思った。
「こちらのお部屋になります」
エレベーターから降りてしばらく歩くと、持たされた鍵と同じ番号の部屋に辿り着く。促されるまま入室し、客室設備について説明を受ける。そして「ごゆっくりお寛ぎください」と残して、ボーイは出て行った。
「お疲れでしょう? シャワーでも浴びてきたらどうです?」
「ああ……」
猿山はスーツケースをソファーテーブルの上に置き、荷解きを進めながら亮を寝室から追い出す。少し重そうな足取りでシャワールームへ消えて行く長身の背中を見送り、二十秒ほど息をひそめる。やがて水音が聞こえ始めて、猿山は動きだした。
まずは冷蔵庫。デスクの下に嵌まる小さな扉を開けると、様々な種類のペットボトルが所狭しと並んでいた。その中からミネラルウォーターを取り出し、扉を閉める。アイスペールやマドラーと共に置いてあったグラスを手に取り、ミネラルウォーターを注ぐ。八分目まで満たしたところで、残りは冷蔵庫に戻した。
一旦スーツケースの許へ戻る。衣装やデュエルディスクが詰め込まれた中身を掻き分けて、小さなポーチを取り出した。中には粉末の入った小さな袋が入っている。封を破り、水の入ったグラスの中へサラサラと落とした。マドラーで掻き混ぜると、粉末は瞬く間に消えていく。
色も匂いも変化のない、無垢な液体ができあがった。その仕上がりに、猿山の口角が痙攣する。
余韻に浸るのもそこそこに、すぐさまマドラーや包み紙を片付ける。ひとつの痕跡も残さぬよう細心の注意を払いながら作業を終えたのと同時に、シャワールームの扉が開く音がした。デスクに置いてあるデジタル時計に目を遣ると、男と約束していた時間がもうすぐそこまできていた。
猿山は客室に備え付けてあるバスローブを纏って現れた亮にグラスを手渡す。
「そこへ座ってください。髪を乾かしましょう」
「ああ」
ひとり掛けのソファーへ誘導し、猿山は脱衣所からドライヤーを手に戻る。スイッチを入れると、コンセントから電力を受け取ったモーターがけたたましく唸る。作り出された風が熱風であることを確認して、碧色の髪に指を絡ませた。
「今日は、やけに緊張していましたねぇ」
「そうか?」
「ええ。普段よりずっと、口数が少なかったですよ」
「……そうか」
する、するり。硬質ながらも男にしては指通りのいい繊維を、何度も絡み付けてはほどいていく。猿山の指に髪を引かれる衝撃を甘受する亮は、静かにグラスの液体を啜っている。
「……少し苦いな?」
「水質が違うのでしょう。貴方の故郷に比べて、ここは硬度の高い水が主流ですから」
「そういうものなのか」
「ええ」
見た目や匂いは偽れても、どうやら味まで誤魔化しきるのは難しかったらしい。しかし視線が合わなければ表情もわからない。表情が読めなければ、感情の機微も悟られまい。猿山にとって目の前の無垢な青年を欺くなど造作もないことだった。
ましてや淡々と語りかけるマネージャーがどんな表情をしているかなど、されるがままの男は知るよしもないだろう。
「さあ、終わりましたよ」
「ああ」
熱風を冷風に変えて髪を冷ましていく。粗方熱が取れたところで作業終了を告げ、猿山は一歩右にずれた。テーブルには空になったグラスが置いてある。猿山はそれを手に取って亮から離れた。
グラスをデスクへ移動させたところでノック音が響いた。約束ぴったりの時間。猿山は、やれやれと内心で溜め息を吐きながら出迎えに行った。
「やあ、どうも待ちきれなくてね」
ドアノブを捻った先には予想通りの人物が立っていた。つい一時間ほど前まで共に卓を囲んでいた男が浮ついた顔で部屋に押し入ってくる。
「仕込みは終えております。頃合いを見て戻りますので、ごゆっくりどうぞ」
「なんだね、ノリが悪いじゃないか。せっかくの初体験なんだから、君も見ていきたまえ」
男の提案にこめかみがひくつく。猿山としてはすぐにこの場から離れたかったが、固辞して男の機嫌を損ねてしまえばこれまでの努力が無駄になってしまう。思わず舌の上に乗りかけた悪態を即座に呑み込んで、同意の科白に変えた。部屋から出て行こうとしていた身体を百八十度回転させる。
亮は一瞥で猿山の帰還に反応した。しかし同時に訪問者の姿も映り、息を呑む。
「……ッ!?」
彼の驚愕は言葉になっていなかった。弾かれたように立ち上がったと思えば、すぐに崩れて床に膝をつく。その姿を見て、薬が効いてきたなと猿山は思った。
「おやおや、具合が悪そうじゃないか」
猿山の横を男がすり抜ける。微塵も労る気のなさそうな猫なで声で亮に近付くと、膝を突いたまま状況が飲み込めていない様子の亮の肩に手を伸ばす。
瞬間、男に触れられた亮はびくりと身を震わせた。
悲鳴は上がらなかった。咄嗟に奥歯を噛み締め、なんのことはないはずのボディータッチに必死に耐えている。反射的にその手を振り払ってしまえばきっと楽だろうに、強靱過ぎる精神力のせいか、亮はそうはしなかった。
優等生は、どこまで行っても、何をされても、優等生のままだ。
次第に男の手は無遠慮に亮の身体を這い回り始めた。肩から二の腕のラインを確かめ、背骨をなぞり、腰を撫でる。男の動きに翻弄されるまま、亮は太股の上で握った拳を固くしていく。顔を伏せ、瞼を閉ざし、眉間に深い皺を刻む。歯を食いしばり、悲鳴を押し殺す。徐々に強張りを見せる身体のあちこちは、抵抗できぬ亮に許された唯一の拒絶だった。
しかし憐れな獲物がどんな心境でいるかなど、捕食者たる男には無関係であるようだった。まるで玩具のピアノを前にする子供のように、べたべたと身体のあちこちに触れてはその反応を楽しんでいる。しかも「ああ可哀想に」などとのたまう始末だ。
「くっ、あ!」
だがそんな戯れにも飽きたらしい。男は軽々と亮を抱きかかえると、皺ひとつない純白のシーツの上へ放った。
「……ぅ、く……」
スプリングが軋み、バウンドする細い身体。胎児のような恰好でもぞもぞと身を捩るばかりで、一向に逃げ出す気配がない。男の戯れを甘受している間に、薬は滞りなく亮の全身を蝕んだようだった。
活きの悪い魚が俎上で震えている。男はその皮を、下卑た笑みを湛えて無情に剥いでいった。