明月を喰らう - 2/5

    一

〝絢爛な玉座から引きずり下ろされた皇帝が無様に地を這う〟

 猿山にとっての最大の誤算は、他ならぬ皇帝自身がこの筋書きを台無しにしたことだった。檻を食い破り顕現した悍ましい機械竜キメラこそ、皇帝の本来の姿なのだと確信させた。皇帝は、純白の衣に見合うよう躾けられただけに過ぎず、彼が身に纏うべきは白ではない。至った結論は、猿山の中で揺るぎようのない真実に変わった。
 猿山が亮に目を付けた当初は、血生臭いデスマッチを少しでも華やかにするために過ぎなかった。
 当時の地下の花形デュエリストはマッドドック犬飼だ。手堅く、かつ相手を執拗に嬲るプレイングによって、その快進撃は留まることを知らなかった。対戦相手は次々と衝撃増幅装置の餌食となり、ついには誰もいなくなってしまったのである。名簿には再起不能・・・・の烙印を押されたデュエリストが何人も並び、やがてそれが半分を占める頃には、猿山は次なる羊を探すためマイナーリーグのスタジアムへ通うようになっていた。
 そこで見つけたのが、丸藤亮だった。
 容姿、タクティクス、共に申し分なし。だが彼は大スランプに陥っており、その穴だらけのプレイングでは勝利に程遠いところに立っている。なにより犬飼のデッキと亮のデッキとでは、コンセプト的に犬飼の方に分があった。
 この男なら、高嶺の花を汚す興奮と快感を与えてくれる。そんな役回りを期待して、猿山は選手用の通路で待ち伏せたのだ。
 しかしいざ檻に閉じ込めてみれば、羊は土壇場で全く違う立ち居振る舞いをしたのである。
 羊は、絶対的な敗北を突きつけた途端に牙を剥いた。どこに隠していたのか問いたくなるほどの獰猛な闘気が鉄格子を震わせ、怒濤のカード捌きによって瞬く間に流れを変える。勝利への飢餓を体現した機械竜が召喚された瞬間に、捕食者と被食者の立場は逆転したのだ。
 悪辣な笑みと吠えるような勝利宣言。どれを取っても数時間前に対峙した優等生とは信じ難い。
 とんでもない拾いものをしたと猿山は思った。そして同時に、磨けば極上に美しい化け物に変わるだろうという確信も生まれた。すぐさま書類と衣装を用意し契約の話を持ちかける頃には、初陣から三日が経過していた。

「ヒールに転向するのだから、いつまでも白い服でいるわけにはいかないでしょう」

 そう言って猿山は、地下の楽屋で再び対峙した男に漆黒のコートを与えたのである。
 亮は手渡された服をにべもなく広げ、無言で袖を通す。仕立ては完璧だった。眼前に立つ彼の姿を見た猿山は満足そうに口角を吊り上げる。

「やはり、貴方には黒がお似合いだ」
「フン。どんな色を纏ったところで、そう変わるものでもないだろう」

 馬鹿馬鹿しいとばかりに亮は鼻を鳴らす。手は、未だコートから離れていない。猿山はその様子に、やはり図体ばかりデカいだけの子供だなと内心だけで嗤う。

「ええそれは解っていますとも。ですが、周囲はそう思いますまい。残念ですが、エンターテインメントの世界において、本質などというものは不要。必要なのは、イメージに合致した見た目・・・なのですよ」

 貴方も、似た経験がおありでしょう、と口にしてやれば、ようやく亮はコートから手を離す。

「さて、お次は今後の契約についてですが……」

 そのまま楽屋内の応接テーブルに亮を誘導した。どうぞ、と声をかけた猿山も向かい合って腰を下ろす。
 楽屋と銘打ってはいるものの、薄暗くダクトが剥き出しになっているこの部屋は、最低限の休憩と着替えが可能な程度のものであまり清潔とは言えない。だがそれで十分だ。ここは見世物たる獣がより獰猛に、肉を喰らうための牙を研いでもらう部屋。闘争心という飢餓をより一層増幅させる場所。それが猿山の定義する楽屋だった。

「ご覧の通り、ウチは正式なスポンサーとは一線を画します。地下の情報を外部へ漏らさぬよう、便宜上は今後もフリーランスとして登録していただきます。しかしここでデュエルをし、勝った以上、私は貴方をマネージメントしなければならない。ファイトマネーの何割かは戴きますが、その見返りとして、始めにお話した通り、貴方に、闘いの場を提供し続けましょう。……こちらが契約の詳細となります」

 革製のアタッシュケースから書類を取り出し、机上に差し出す。
 文字を読むには些か照明が暗過ぎるが、受け取った亮は気にする素振りもなく淡々と読み込んでいく。時折、瞬きを挟みながら視線を動かし、最後の一文に刻まれたリングネームに眉を顰めた

「……〝ヘルカイザー〟……」
「いい名でしょう? 圧倒的な力で叩きのめす貴方にピッタリだ」

 猿山の鼻が上機嫌に鳴る。

「今の貴方に〝カイザー〟であった頃の面影などありませんよ。ホラ、そこの鏡を見てご覧なさい。漆黒の衣装に見合った、冷徹で獰猛な眼差しを。これから貴方は、敗者の返り血を浴び続ける道を行くのですよ。白い服なぞ着られましょうか」

 まあ、着たいのなら止めはしませんがね。猿山は肩をすくめて目を伏せる。
 沈黙が落ち、ダクトの唸る音だけが部屋に響く。亮は能面のような表情のまましばらく書面を眺めていたが、やがてバサリと放り出し「くだらん。要はこれも形式・・に過ぎんのだろう? ならば何を名乗ったところで意味はない」と吐き棄てた。
 猿山の笑みが深くなる。

「でしたらとことん、大衆の思う形式・・を演じていきましょう。貴方はこれから地獄を統べ、ゆくゆくは地上すら支配していくのです……全ては、純粋なる勝利を得るために」

 リングネームの下に設けた署名欄を指差して、皇帝を誑かす悪魔は囁く。
 さあ、後はもういいでしょう。こちらに貴方のサインを。
 万年筆を差し出しながら、そんな言葉で青年の背中を押す。彼は猿山の顔を暫し眺めた後、悪鬼の如き笑みで万年筆を取った。

「地獄の楽園へようこそ、ヘルカイザー。私は貴方を歓迎しましょう」