行為から一箇月、異変は音もなく襲いかかる。
朝、俺は酷い吐き気を覚えて飛び起きた。布団を蹴落とす勢いでベッドを降り、形振り構わず洗面台へ直行する。蛇口を捻って顔を突っ込む頃には、胃液が唇から溢れ出ていた。何度も噎せ返りながら、汚い音を立てて体液を吐く。饐えた匂いが立ちのぼり、その臭気に鳩尾が痙攣して更に吐いた。起き抜けで空っぽだった胃は中の粘膜を吐き出すしかない。いよいよそれすらなくなると、止まらぬ嘔吐き声だけが残る。それを、目一杯の水でざあざあと流し続けた。
吐き気が治まると、どっと押し寄せてくる疲労でへたり込んだ。混乱する頭で体調不良の原因となりそうな事象を探るも、皆目見当がつかない。食事の前には必ず手は洗うし、食後は決まって歯磨きとうがいを徹底している。夜更かしもしていない。ひとつひとつ順番に時を遡っては可能性を潰していく作業を続けていると、ふと自身の左手が下腹部に触れていることに気付く。
瞬間、記憶のテープが早巻きになる。次に再生された場面は、激しい情事に我を失う俺と、俺を組み敷いて嗤う男の顔だった。
まさか、そんな。あり得ない。
戦慄く唇が必死に現実を否定する。ガタガタと震える全身。指先から徐々に体温が消えていく。今度は右手で己の腹を撫でると、僅かな膨らみがあるような感覚がした。
胃の中には何もない。にも拘わらず、腹は出ている。だらしなく弛緩する口からは、まさか、という語が漏れた。
あの日俺は、男に強要されるまま譫言のように「孕ませてくれ」とのたまった。本来であればあり得ない。否それ以前にそんな願望は毛ほどもなかった。しかし、脂肪ともつかぬ内側から押し上げるような硬い感触が、真実を指し示す。
そうか、俺は文字通り孕んだのか。
見出した結論は、すとんと腑に落ちた。
強い念を込めて放つ言葉は言霊という。男はあの夜、それほどの願いを込めて俺に精を放ったに違いない。であれば、俺ひとりの独断で堕ろすことは憚られた。ベッド脇に置いてあるPDAの所へ行き、アドレス帳から男の連絡先を探し出して通話を試みる。おはよ、朝からどうしたんだよ。もしかして夜のオサソイ? 開口一番ご挨拶だなと思った。俺はすぐに事情を説明する。期待に添えず悪いが子供ができた、と。あまり深刻にならないよう細心の注意を払って、端的に。
すると男は大仰な疑問符を投げ返してきた。お前なに言ってんだよ、丸藤がそこまで馬鹿だとは思わなかった。
失礼な奴だな。お前が孕めと言うから孕んだのではないか。これでお前の望みは叶ったのだぞ。それで? 認知するのか、しないのか?
どれだけ詳細に説明を重ねても、返ってくるのは事象そのものを否定する科白ばかりだった。お前、おかしいよと、次第に俺の精神すら疑うようになっていく。その度に正気だと訴えるも、終ぞ信じてもらうことは叶わなかった。
通話の終わりは突然だった。割れた音声から何と言われたのかまるで聞き取れず、しかしきっと暴言を吐かれたのだろうということだけは理解できた。
静まり返る室内。鳩尾の辺りが再びムカムカとし始める。途端、鷲掴みされたような気持ち悪さが襲い、口を押さえて再び洗面台へ走って行った。
空っぽの胃から饐えた空気だけを吐き出したら、ズルズルと身体が崩れ落ちていく。台の縁に縋りつき、不快な解放感に呆然とその身を預けるしかなかった。
気がつけば顔を覆っていた。人工の闇が、残酷極まりない結末を提示する。これを否定しようにも、男の態度は直接的過ぎた。嗚呼、俺は棄てられたのか。それだけならまだよかった。腹の子はどうするつもりなのか。言質すら取れなかった今、俺はどうすればいい。
八方塞がりの絶望。上手く呼吸ができない。また少し腹が大きくなったような感覚がするのは、きっと気のせいではないだろう。母が如何な境遇にあろうと、胎児は等しく成長するものだから。それは、母であることを強要された俺とて例外ではない。産むか、堕ろすか。究極の二択を迫られていた。
にも拘わらず、この単純かつ究極の分岐から最善の道を選び取ることは、できなかった。