ゆりかごのうた - 3/3

 あれから四年の年月が流れ、俺は世界と和解した。
 休日の昼。レジ袋にコンビニおにぎりを二つと即席味噌汁を弁当代わりに提げて、学園島の外れへ向かう。僅かに肌寒さは残るものの、春の風が穏やかな陽気を連れて俺の髪を遊んだ。散歩日和だなあと零しながら仰ぐ空は澄んでいて、まるで今日という日を祝福してくれているかのようだった。
 昔の俺は、こうして空の蒼さに浸る心など持ち合わせていなかった。こうして、周囲の景色に目を遣りその色鮮やかさを噛み締めることもしなかっただろう。無価値のものだと判じて切り棄ててきた世界のひとつひとつは、まるで磨かれる前の原石のようだった。どんな輝きを見せてくれるかわからない、無限の可能性に満ちている。それに気付かせてくれた友人知人達には、感謝してもしきれない。
 そして今から俺が逢おうとしている彼にも、無類の感謝をしなければならなかった。
 療養施設に入ると、勝手知ったる廊下を進む。ちょうど突き当たり付近にある扉をノックすると、俺が名乗る前に入室を促す声が返ってきた。
「入れ」
「ああ」
 その言葉に甘えて引き戸を開ける。真っ白な部屋の奥には、記憶より角の取れた面持ちの丸藤がベッドに身を預けていた。
「心臓の調子はどうだ? 丸藤」
「ああ、変わりない」
 僅かに儚さの滲む薄い笑み。入院着に身を包む丸藤の今の姿に、昔のような威容は見られない。
 顔を合わせる度、丸藤の首を囲む跡が目に留まる。俺が棄てた空白の歳月は、彼に成長や変化という傷を齎した。
 それが刻まれるには、どんな過酷に身を置いたのか。
 その表情が形作られるまで、どんな力で超克したのか。
 それらの話を聞きたくて、俺は何度もここへ足を運んでいる。
「また何も食べずに来たのか」
「まさか、朝食は摂ったよ。これはお昼」
 ベッド脇に備えてある丸椅子を引き寄せて腰掛けた。膝の上でビニール袋を広げ、ひとつひとつ中身を取り出してサイドチェストに置いていく。鮭と梅のおにぎりと、野菜の味噌汁。記憶をなぞるように、あの日と同じメニューを広げてみせた。
 それを見た丸藤は嘆息する。やれやれと肩を上下し「これではどちらが病人かわからないな」と苦笑した。
 俺は構わず席を立つ。部屋の主に小さく断りを入れてから、給湯スペースへ向かった。カップにお湯を注いで再び座る。サイドチェストをテーブル代わりにして、まずは梅のおにぎりから封を切った。先ほどの丸藤の呆れた表情を思い出しながら、正三角形の頂点から囓っていく。
「俺が体調崩した日のこと、覚えてたんだな」
「他人にしたのは、後にも先にもアレが最初だったからな」
「じゃあ、やっぱり翔くんにもしたことが?」
「随分昔の話だ」
 変わらない味。包みを破いてしまえばすぐに頬張れる、一一〇円分の簡素な味。なのに、中の梅干しは甘味ある米とよく馴染む。そこへ温かな味噌汁を口に含むと、酸味がまろやかになり、ほっと息が漏れた。
「おいしい」
 堪らずそう口にする。昔と同じ温もりが、胸いっぱいに広がるのを感じた。
 記憶をなぞりたいとはいうものの、実際の構図は真逆だった。病人は丸藤の方だし、俺は見舞客である。本当に追体験がしたいのなら、持ち込んだ弁当は丸藤に食べさせてやらなければならない。けれど入院生活をしている彼には病院食があった。昼の時間は過ぎているので、とっくに食べ終えただろう。
 梅おにぎりを食べ終えると、次は鮭おにぎりを手に取った。
 ゆっくりと咀嚼しながら、時折話題を振って空白の四年を埋めていく。
 俺が消えた後に失踪してしまった吹雪の話。ひとり取り残された丸藤の学生生活について。
 そして、学園に新しい風を吹かせた遊城十代を筆頭とする現三年生の成長譚。
 特に十代達の話には現実味がなく、まるで臨場感のあるファンタジー作品を聞かされているかのようで胸が躍った。その中で異世界に飛ばされた話は、丸藤の口から語られなければ信じなかっただろう。
 丸藤自身の話は、その合間合間にポツポツと挟んでくれた。少しだけ言いにくそうにしていたから、よほど俺が気になった話題だけに留めておき、あまり深く掘り下げようとはしなかった。それだけでも、彼ひとりに修羅の道を歩かせてしまったという事実が十分に理解できたから。
 本音を言えばもっと詳らかにしてほしい。そして全てを聞いた上で謝りたかった。丸藤は優しいから、俺の謝罪など望んでいないかも知れないけれど。
 そうこう過ごしている内に、俺は手持ちの食事を平らげた。包みやカップをビニール袋に纏めて口を縛る。
 ふう、と息を吐く。
 俺の食事を視界の端で眺めていた丸藤は、膝の上で分厚い本を広げていた。上を向くページには〝マーケティングについて〟と題されている。つまり経営学の専門書であった。丸藤はそれに視線を落としながらも、ずっと俺の話を聞いてくれていたのだ。
 俺は、四年も経てば小説から専門書に変わることを知った。今更あの物語の話題を持ちかけても、多分大して盛り上がらない。自分の棄てた時間とはそういうものなのだと、罪業の証を突きつけられたような気がした。
 そもそも退院したら本格的に事業を立ち上げなければならない丸藤にとって、俺と語らう時間など惜しいだろう。それなのに、彼は一言も文句を言わなかった。ありがたいことではあるのだが、散々迷惑をかけてしまった手前、やはり後ろめたくもある。
 サイドチェストに置かれた時計を見遣ると、時刻は三時を回っていた。何となくそろそろお開きにしなければならないような気がして、俺は椅子を引いて丸藤との距離を詰める。
「丸藤」
「なんだ」
「この後のことも、覚えてる?」
「ああ」
「なら、……厚かましい願いだろうけど」
「物好きな奴だな」
「すまない。でも俺の中では、あの日は特別だったんだ」
 正直に白状すると、丸藤は感心するように瞬きした。
「あの日、丸藤にもらったおにぎりの味は格別だったし、目が覚めるまで傍にいてくれたのも、ほんとうに……得難い経験だったんだよ」
「……そうか」
 丸藤は目を伏せる。髪と同じ冬色の睫が、逡巡するように揺れた。
 やがておもむろに反対のベッド脇からクッションを取り出して、俺に手渡す。
「眠くなったら無理はするな」
 照れくさそうな顔でそう付け加えて。
 俺は受け取ったクッションに頭を乗せた。深呼吸して全身の力を抜き、瞼を閉じる。すると、あの完璧であたたかな歌声が耳朶を撫でた。
 それは温もりそのもののような声だった。それは柔らかく背を撫でるような旋律だった。それは優しく手を引くような抑揚だった。
 出力を完璧に調整された蓄音機となった丸藤は、記憶よりも目立つようになった喉仏を震わせて歌ってくれた。窓から吹き込む風で揺れるカーテンの音が、彼の奏でる歌に色を添えてくれている。そうして、目まぐるしかった時間が緩やかになっていく。

 もうこの世にはいない母の姿を描き、抱擁される自分を夢想した。母と同じくいなくなってしまった父も描き、母をも巻き込んで抱きしめてもらう構図も付け加えた。夢の中の自分は、両目から堰を切ったように涙を零し、両親の名前を何度も口にしながら二人の背に手を回す。子供のように縋り付き、泣きじゃくった。ひとりは寂しい、自分を忘れないでと繰り返す。
 両親は俺を抱きしめるばかりで、一言も発しなかった。その代わりにとばかりに、彼らは自らの温度を俺に分け与えてくれた。三人分の体温が溶け合うと、多幸感が押し寄せてくる。溺れそうなほど息苦しく、けれど幸せな心地だった。
 やがて俺は、両親の腕に抱かれたまま、微睡むように瞼を閉じる。そして、夢の世界へ浮上するように目が覚めた。

「気分はどうだ」
 その声は父のものでも、ましてや母のものでもなかった。
 眩しい白の出迎えに目を細めながら、ゆっくりと重たい頭を持ち上げる。枕にしていたクッションには小さな染みがひとつ。確かめるように自分の頬へ手を這わすと、僅かな湿りがあった。あの涙は夢ではなかったのだと知り、思わず苦笑する。
「いい夢は見られたか」
 再び聞こえてきた声にようやく我に返った。顔を上げると、薄く笑みを湛えた丸藤の双眸と絡み合う。
 彼の膝には、あのサスペンス小説が乗っている。
 俺は、腫れぼったい目を細めて頷いた。

「ああ、とても幸せな夢だったよ」

 

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