ゆりかごのうた - 2/3

 これは俺が学園から姿を消す前の話である。
 実技よりも研究の方に興味があった俺は、放課後になると同輩と談笑する間もなく帰寮して自室に籠もる生活を送っていた。孤児院から持ち込んだ参考書を机いっぱいに広げ、文字通り寝食も忘れて没頭する。三年も経てばどうせ散り散りになるような脆い社会に馴染もうとするよりも、自分のために時間を使う方がずっと有意義だと考えていたからだ。
 なら友達は要らないのか?
 悔しいがハッキリ否とは言えない。何故なら研究を続ける理由は、物心ついたときから俺を苛み続ける孤独から逃れるためだったから。出会いがあれば別離は避けられない。何かひとつを記憶に刻めば、別の何かが削げ落ちていく。単純な足し引きで回るこの世界が恐ろしくて、いずれやってくる忘却に怯えるこの感情を棄て去りたいと思ったのだ。
 とはいえそんな独善的な行動というものは、おしなべて上手くいかないものである。早い話が目を付けられたのだ。天上院吹雪と丸藤亮に。
 初めは吹雪だった。休日に立ち寄った図書室でレポートの資料を読んでいると、同じ本を探していた吹雪が現れたのだ。
 当時の俺は、弾けるように眩しい笑顔を振り撒く吹雪のことが苦手だった。社交性の塊で賑やかな男との印象が強く、俺に近付いた理由も、どうせ「一緒に勉強しない?」などと言うためだろうと考えていた。応じればきっと一文字も捗らなくなる。崩されたスケジュールは、取り戻すまでに相当な苦労を強いられる。ならばいっそのこと、手元の本を渡して退散してしまった方が楽だ。
 断ろうと開きかけた口は、けれど彼の甘い低音が柔く遮った。
「その本、探してたんだ。よければ僕も一緒にいいかな?」
 予想よりもずっと俺に気を遣った科白。しかしおおよその意味はその通り。彼は正面の席に座って俺を見つめた。
 緩く綻ぶ眦が俺を捉えている。真っ向から人の顔を見ることなどほとんどない俺にとって、彼の立ち位置は絶妙だった。
 逃げられないのだ。どんなに思考を巡らせても。中途半端な状況のレポートは曝け出してしまっているので「もう終わるから」と本を置き去ることができない。かといって無言で立ち去れば不審がられるだろう。後で追求されると面倒だ。
 見本のような八方塞がり。諦めた俺は、努めてにこやかに承諾したが、繕った表情を見抜かれなかったか内心穏やかではなかった。
 結果的に俺の不安は杞憂だった。仮にバレたとして、必要以上の詮索をせず淡々と課題に取り組んでくれたのは、意外ながらも幸いだった。
 それからその数日後に来た丸藤。休日に図書室で本を探していると出くわしたのだ。
 同じ一年生とは思えない精悍な出で立ちは、遠巻きに見てもよく目立つ。背筋が良く、つかつかと俺の許へやって来る足取りは品良く洗練されている。真っ直ぐ前を見据える彼の眼差しは鷹のように鋭くて、威圧感すら覚えた。初対面なはずなのに「何かしてしまったのだろうか」と胸がざわつく。おろおろと視線を彷徨わせていると、すぐ目の前まで来てしまった丸藤がスッと手を差し出してきた。
「あ……」
 探していた本である。どうりで見当たらないと思った。
「いつも、休日になると借りていただろう」
 突然の出来事で目を白黒させている俺を見かねたのか、丸藤はヒントを出すようにそう補足した。どうしてそのことを知っているのかと新たな疑問が湧いたが、そもそもここは全寮制の箱庭である。更に学園内でも珍しい白の制服を纏う生徒ともなれば、意識せずとも目立ってしまう。多分丸藤は見ていたのだ。休日にこのシリーズの本を順番に借りる俺の姿を。
「俺はもう読み終わったから」
 そう言って、丸藤は能面のような表情でなおも本を突き出す。まるで見透かされているかのような眼差しに、気恥ずかしさが首をもたげる。それでも彼の手にある本を探していることには違いないので、どうにか理性を引き留めて受け取ることにした。
「あ、ありがとう……」
 消え入りそうになってしまった俺の声は、きちんと届いただろうか。それを確かめる間もなく、丸藤はくるりと踵を返す。肩越しに「また明日――」と言い残して、スタスタと去って行ってしまった。
 他人に興味などなさそうな男は、存外に社交的だった。何故なら別れ際に、ちゃんと俺の名前が入っていたから。
 二人との出会いから仲を深めるまで、さほど時間はかからなかった。彼らは他人のパーソナルスペースをよく弁えており、それ以上深く入り込むことをしなかったからだ。つかず離れず、けれど寂しさを覚えないギリギリの、僅かに温もりを感じられる距離に立つのが非常に上手かった。まあ丸藤の場合は、近くにいてもただ立っているだけのことが多かったけれど。
 そうして友人関係を結んでしばらくが経ち、俺は体調を崩した。
 原因は単純だ。季節の変わり目に身体がついていけなかっただけである。毎年この時期になると決まって体調を崩す俺は、ベッドに縫い止められた身体を持て余しながら「ああもうそんな時期か」と独りごちた。
 視線をずらす。灰色に曇る窓には、水滴がバタバタと滑り落ちる様子が繰り返し流れている。酷い湿気、抗し難い低気圧。倦怠感に連れられた頭痛が、枕元で騒ぎ立てているような不快感。鬱陶しくて堪らない。早くどこかへ行ってくれ。夢の中へ逃げ込むことさえできずに、手元の布団を引き寄せて頭から被る。無意味な足掻きでしかないけれど。
 やがて、部屋にノック音が響いていることに気が付く。控えめなそれは、間違いなく俺の部屋を訪ねる音だった。
 暗闇の中に身を潜めてから、どれくらいの時間が経ったのか。別に眠っていた訳ではないから、せいぜい五分とか十分とか、そんな程度だろう。どちらにせよ、最悪なタイミングには変わりない。更に深く布団を被り、どうにかやり過ごそうとする。
 しかし扉の向こうが諦める様子はなかった。やがて痺れを切らしたのか、ノックの代わりに低く硬質な声が飛んでくる。
「藤原、俺だ」
「まるふじッ!?」
 オレオレ詐欺かよ。などと突っ込む前に飛び起きてしまった。まさかその迷惑な客が丸藤だなんて思いもしなかったからだ。
「休日だからそっとしておこうとも思ったんだが、今朝から姿を見ていないのが気になってな」
 そう話す丸藤の声は心なしか沈んでいるようにも聞こえる。まさか心配して見舞いにでも来てくれたのだろうか、なんて淡い期待が胸を過った。だがそれは、不調で弱った思考が生み出す甘いマボロシだ。そう、言い聞かせていたのに。
「体調は大丈夫か?」
 彼が次に寄越した科白は、明確な形を持った心配だった。
 心臓が速く、大きく胸を打つ。ヒュッと、喉が引き攣る。
「だ、大丈夫だよ」
「なら入ってもいいか? お前に用がある」
 意外にしつこい。
「ここじゃダメ……かな」
「何か不都合でもあるのか」
 丸藤の態度は珍しく強引なものだった。それは押し通るというより、俺が招き入れるまで居座るという表現の方が近いだろう。どちらにせよ、非常に質が悪いと思った。
「そういう訳じゃないけど」
「なら、」
「ああもう、わかったよ! 入って来ればいいだろ!」
 結局、上手く追い返せなかった俺は、ほとんど逆ギレにも近い開き直りで、招かれざる訪客の入室を許してしまった。
 ドアノブが回る。蝶番が小さく軋んで扉が開き、そこから見知った男が姿を現す。
 普段と変わらない能面のような表情の丸藤を見て、俺は肩を落とした。さっきまで心配そうな声だと思っていたのは、実は都合のいい幻聴だったのではないか。やはりもっと頑なに入室を拒めばよかった。そんな後悔が胸を焼き始めて、ふと丸藤の右手に提げられたビニール袋に目が留まる。
 丸藤は真っ直ぐベッドサイドへやってくると、おもむろに手をビニール袋に突っ込んだ。ガサガサと耳障りな音を立てて、コンビニおにぎりを二つと即席味噌汁のカップを取り出す。
「食べないか?」
「え」
「今朝から何も口にしていないだろう」
 そう言って丸藤は「鮭と梅は食べられるか」と尋ねながら、俺におにぎりを手渡す。ようやく、俺への用とやらが何なのか理解した。なんで、どうしてそんな。丸藤を仰視し、瞬きを繰り返す。
「なんで、か」
 今度は丸藤が困惑で目を見開く。
「体調が悪いなら、少しでも何か入れた方がいい」
 それは至極真っ当な返答だった。まるで太陽は東から昇って西へ沈むのだと説明するかのように、彼の中では常識ということらしい。俺としては、さして仲良くもない相手にそこまでするものかと思ったが、その疑問を口にすることは憚られた。代わりに俺は「そういうものなんだな」と力なく笑う。それを受諾と受け取ったらしい丸藤は、味噌汁のカップを包むビニールを取り去って踵を返す。
「給湯室を借りる」
「ああ」
 おにぎりはひとまず脇に置いておくことにした。
 しばらく待つと、丸藤はほかほかと湯気を立てるカップを手に戻ってきた。俺はそれとスプーンを受け取って中を覗き込む。
 味噌汁には、人参や小松菜といった色とりどりの野菜が浮いていた。そこへ唇を寄せて冷ましていると、呼気に煽がれて味噌の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。途端に胃がぐう、と収縮して、ようやく空腹を覚えることができた。
 湯気は途切れていないが、俺は堪らず味噌汁を啜る。口内を火傷しないように注意を払い、少しずつ口に含んでいく。舌で転がしてから嚥下すると、食道を滑り降りていく温かな感覚にほっと息が漏れた。
「……おいしい」
 思わずそう口にする。
 丸藤は、いつの間にかデスクの椅子をベッド脇まで寄せて座り、本を広げていた。俺が愛読しているシリーズの最新刊。もうそこまで読んでいるのかと小さく唸る。
 それはサスペンス小説で、人間分析が趣味の主人公が犯罪者プロファイリングを行って犯人を探すという話だ。一昔前に書かれた作品であるため些か難しい文体ではあるが、その場にいると錯覚させる場景描写と、やけに生々しい人物描写がお気に入りだ。その生々しさは、デュエルで対者の手を読むための参考にもなる。
 丸藤は、あの小説のどこが好きなのだろう。
 この場合、普通の学生は共通の趣味を見つけたらそれを利用して親睦を深めるものだろう。しかし好む動機が歪な俺は、ただ眺めるだけに留めておいた。彼に引かれてしまうのは、少し怖い。
 飲みかけの味噌汁をサイドチェストに置き、脇に寄せておいたおにぎりを取って封を千切る。切り過ぎたビニールに巻き込まれて僅かに海苔が散るのも構わず頬張ると、米の甘味とよく馴染んだ梅干しが口いっぱいに広がっていく。
 おいしい。どれもこれも購買部へ行けば誰でも食べることができるものなのに、俺の味蕾は至上のご馳走のように歓喜した。ただ腹が減っていただけだからかも知れない。俺ではない他人の財布を傷めて齎された食事だからなのかも知れない。あるいは、友人と呼べる者から受けた施しだからかも知れない。
 どれでもよかった。体調を崩して布団の住人になっている俺のために、丸藤が食事を持ってきてくれた。ただその事実だけで十分だった。
 もらったおにぎり達は残さず平らげた。すると、見計らったように立ち上がった丸藤が無言でその残骸をビニール袋に詰めていく。俺はもう一度礼を言って――やがて強烈な睡魔が襲ってきたのを自覚する。そんな俺の様子を、片付け終えた丸藤が目聡く気付く。
「少し眠れ」
 彼の科白に、柔く包まれるような心地を覚えた。そんな声もできるんだな、という感想が湧いたのと同時に、このまま丸藤に身を委ねてしまいたい欲求にも駆られる。まるで母親に寝かしつけられているかのような心地で、徐々に瞼が重くなっていく。同時に、この睡魔に抗いたくなるような不安が首をもたげた。
 今でこそ隣にいる丸藤だが、俺が意識を落とせば役目を終えたとばかりに退室するだろう。夢から目覚めたら、自室には俺以外の誰もいなくなってしまうような気がして、堪らず手を伸ばした。気恥ずかしさと寂しさとが綯い交ぜになった指が、丸藤の制服の袖を摘まむ。
 すると丸藤は少しだけ驚いたように目を見開いて、けれどすぐに元の無表情に戻り、小さく唇を綻ばせた。
 もう一度、静かに着席する。そして俺の手に触れて――
「お前が目覚めるまでここにいよう」
 そう言った。
 まさか丸藤にそんなことを言われるだなんて思いもしなくて、今度は俺が目を見開いた。関係を始めてまだ日は浅いけれど、どこかこういう役回りをするのは吹雪の方だと考えていたのだ。お前が妙なことを言うから眠気が吹き飛んでしまったと言う前に、あれよあれよという間に布団の中へ押し戻されてしまう。文字通り丸藤に寝かしつけられた恰好だ。大の高校生が情けない。
 一連の丸藤の行動に迷いはなかった。神経が図太いのか、あるいは何も考えていないのか、判断がつかない。彼自身は素なのだろうが、たまに世話焼きのような一面を見せることがあった。布団越しから俺の胸を柔く叩く丸藤の手つきに辿々しさはない。きっと彼の弟にも同じことした経験があるからだろう。
 それからしばらくして、逃げていた睡魔がじわじわと戻ってきた。睡魔は自分の役目を慌てて思い出したかのように、俺の意識を急速に奪っていく。そのときだった。

 ――やわらかな旋律がきこえる。

 それが丸藤の声だと気付いたのは、夢の世界へ身を浸してからだった。胸に響く低音は、まるで幼い子供をあやすかのよう。消え入りそうな声量は、まるでぐずる子供に読み聞かせをするかのよう。ただただ優しくて温かいばかりの旋律にほとんど狂いはなく、そこに丸藤らしさを感じた。
 知らない曲。彼に音楽の造詣が深いとの話は聞いたことがないから、記憶から引き出した何らかの既存曲だろう。
 構わなかった。何故なら今、丸藤の唇から俺の耳に届く音階は外ならぬ彼によるものだから。完璧で、あたたかい。丸藤の人となりを表わす歌だった。
 きれいな声だった。うつくしい旋律だった。やわらかな抑揚だった。
 俺は、いるはずのない母の姿を幻視した。共通点など何一つないのに、朦朧と霞む俺の視界は丸藤を母に変えた。
 心を苛んでいた無数の棘が、解けていくような心地だった。揺り籠の歌に抱かれて穏やかに意識を手放し、俺は天涯孤独の身になって初めて、悪夢ではない夢を見た。内容は覚醒と同時に忘れてしまったが、とても幸せな夢を見ていた気がする。

 それ以来、丸藤の歌を聴くことは二度となかった。
 俺が世界を手放してしまったからである。