モラル=ハザード - 1/3

 それは、四度目の結婚記念日のことだった。

 仕事の終わり、普段なら真っ直ぐ帰路に就くはずが、今日ばかりは横へ逸れた。帰宅ラッシュで賑わいを見せる駅中の百貨店へ、雑踏を縫うようにして入っていく。
 中は、真昼のような照明に照らされた雑貨や宝石が上品に並び、道行く客を手招いていた。近くでは店員に呼び止められた女達が、瞳をまん丸と輝かせて熱心に商品を眺めている。
 女の眼下には指輪があった。ベテランそうな店員はすぐに入店の目的を悟ったらしく、パートナーの年齢や趣味などを熱心に尋ねている。女は律儀にもそれに答えていくと、ならこれはどうでしょう、と云って幾つかの指輪を取り出して見せていた。
 冬の兆しを見せ始めた今の時期は、所謂クリスマス商戦の真っ只中である。駅構内の吹き抜けには巨大なモミの木が聳え立っており、色とりどりのオーナメントが、計算され尽くした配置でゴテゴテと飾り立てられていた。他国の宗教行事だというのに、毎年のことながら熱心なものである。
 重くなっていく足取りを叱咤して周囲を散策する。化粧っ気の強い女が行き交うこの場所で、自分のような黒のコートに身を包む男は非常に浮いているように思えた。不躾な視線こそないものの、やはり居心地はよくない。
 なんとなく、ここには目当てのものが無いように思えた。そして一階だと、人が多くて落ち着かない。さっさと上の階層へ行ってしまおうと、エレベーターの前に立ったそのとき。

「……丸藤?」

 少し高めの、控えめながら通る声だった。あまりにも覚えのあるそれに、俺は僅かに身を震わせる。


「なあ君、丸藤だろ」


 動き出そうとする身体を必死に硬直させて押し留める。しかし人違いであってくれと願う胸中を嘲笑うかのように、その声は確信に満ちていた。

 視界の端に、新緑の猫っ毛がぬっと入り込む。

「ああ、やっぱり丸藤だ」

「藤、原」
「ひさしぶり」

 彼は無視した俺を咎めることなく、人好きのする笑みを浮かべて「ここで会うなんて奇遇だね」と云った。そして断りもなく隣に立ち、共にエレベーターがやってくるのを待つ。


「仕事終わり?」

「ああ」
「へえ、早いんだね」
「今日だけだ」

 投げ込まれた問いに、最小限の言葉で機械的に処理していく。その間、俺は隣に視線を遣ることはなかったし、彼もまた俺に視線を向けることもなかった。再会を喜び合うことなく、ただ時間を持て余すかのように交わされる言葉。こんな俺達の様子を傍目ではどう映っているのか、ほんの僅かだけ気になった。

 ポーン、と音が鳴る。一拍置いてから口を開けた箱の中へ、二人で入っていく。目的の階層を押し、そして扉が閉まった。

「ここへは何しに?」

「毎年の恒例行事だ」
「誕生日? ……にしては、翔くんも吹雪もとっくに過ぎてるし……」
「妻だ」
「ああ! 奥さんへの誕生日プレゼント!」
「いや……結婚記念日だ」

「なるほど」と云う彼の声と、エレベーターが止まったのは同時だった。見上げれば、モニターには押した階層が表示されている。ドアが開き、外へ出る。その後ろに、どうしてか彼も続いていた。


「俺もここが目的なんだ」


 よほど不審げな顔をしていたのだろう。彼は言い訳がましく、そう笑った。

 階層が上がれば、人通りは少なくなる。特に三階や四階は所謂ハイブランドのエリアで、百貨店通いに多少慣れている程度の人間では、そこに踏み入ることは滅多にない。見知った名称のロゴが、厳重に区切られた壁に品良く入り付いている。誰もが知っているはずのそれらは、どんな安物ブランドよりも近寄りがたい。まるで要塞だ。そしてそんな威圧感たっぷりのこのフロアには、帰宅ラッシュの時間帯にも拘わらず、客は俺と藤原だけだった。
 ゆらゆらと、当てがあるような無いような、よくわからない速度で廊下を歩く。どうせここへ来てしまえば入店するブランドなどひとつだけなのに、足は一向にそこへ向いていかない。黙って俺の歩調に合わせてくれている彼も、時折不思議そうな視線を寄越してくる。歩くほどに下肢は鉛を含んだようになり、思考は散漫になっていく。早くこの場を切り抜けろと脳が騒いだ。わかっている、わかっているから少し黙っていてくれ。

「丸藤」

「……ッ」

 前方から彼の声がする。我に返り顔を上げると、確かに彼が前に立っていた。振り返ったような姿勢で、ことん、と首を傾げている。さっきまで隣を歩いていたのに。


「なあ丸藤、もう三周目になるんだけど」


 怪訝そうな顔に反して声音には心配の色が滲んでいる。


「なにかあった?」

「いや、」
「ずっと浮かない顔してる」

 図星を指摘されて思わず口を噤む。そんなにわかりやすい顔をしているだろうかと問いかけて、墓穴を掘りそうな気がして止めた。代わりに近付いてきた彼に手を引かれ「ちょっとさ、気分転換にカフェでも寄らない?」と誘われる。

 それは親切な旧友の何気ない誘いに過ぎないはずだった。しかし俺は、彼の言動に背徳めいた甘さを感じてしまい、そんな自分の浅ましい思考に吐き気を覚えた。顔を上げれば、アメジストの双眸が近い。
 断ろうと開きかけた唇は、言葉を紡げないまま無為な開閉を繰り返す。視線を逸らしても、身を捩っても、腕を捕まれては逃げることもできない。
 そもそも俺は、何から逃げようとしているのだろうか。それすらわからなくなってしまった俺は、何のために仕事を早く切り上げたのかも忘れて、首を縦に振ってしまった。
 コートのポケットからスマートフォンを取り出す。点灯させた画面に通知は来ていなかった。メッセージアプリを立ち上げ、妻のアカウントを呼び出す。すると、何度も繰り返された遣り取りの列が表示される。そこに帰りが遅くなる旨を簡潔に伝えると、数秒もしない内に承諾の返事が届いた。