塔の逝く先

 療養中の身に許された自由は限られている。
 病室のベッドで一日のほとんどを過ごす斎王琢磨は、唯一持ち込んだ私物であるタロットカードに触れるのが日課であった。使い込んで僅かに擦り切れたカードを混ぜて山を作り、深呼吸と共に占う対象を思い浮かべようとする。特殊な能力を持っていた当時は、瞼さえ閉じれば意識せずとも浮かび上がったものだが、今は意識しても、凪いだまま何も出てこない。
 そうして、ただの人間に成り下がった脳の虚無を知り、自分は如何にして受動的だったのか思い知る。斎王は、自ら外界を知ろうとする意志を失っていた。
 ベッドの傍らにはブラウン管のテレビが設置されており、その小さな躯体からなら、外の世界を垣間見ることができる。しかし斎王は、どうしてもリモコンに手を伸ばす気になれなかった。イデオロギーの誇張された映像を見ても疲れるだけ。それよりも自分に必要なのは、長らく遠ざかっていた平穏と静寂に身を横たえること。この無機質な白い部屋で、摩耗した心を少しでも元の形に戻すことであった。
 しかし人は退屈に耐えられない。食事やら検査やら、ルーチン化されたタスクをこなしながら、朝から晩まで天井の染みや模様を数える生活を送り続けていれば、やがて何かをせずにいられなくなる。
 斎王の場合は持ち込んだタロットに触れること。とっくに未来を視通す能力など失ったというのに、それしか斎王の心を慰撫する物がなかった。実に皮肉な話である。
 空っぽの指先で、一枚のカードを摘まむ。焦らすように山の傍らへずらしてからゆっくりと捲ると、雷に打たれて崩壊する塔の絵柄が表れた。
「これは……」
 瞬間、絵柄の上からある人物の姿が浮かび上がる。
 黒衣を纏った、白皙の男。碧色の長髪を風に遊ばせ、悠然と立つ姿は洗練されており、年齢らしからぬ威容を放つ。中でも、冷たく対者を捉える双眸に抜き身の剣を彷彿とさせ、斎王は思わず息を呑んだ。
 厄介な男の姿を視てしまった。こめかみから冷えた汗が伝い、不快感に頬がひくつく。実体を持たぬ幻と対峙する斎王の心地は、まるで蛇に睨まれた蛙のようだった。破滅の意志に囚われていた頃の自分とはまた違った悍ましさが、この男の眼差しにはあったのだ。
 幻に自我はない。にも拘わらず、目を逸らせばたちまち喉笛を掻き切られてしまうかも知れない。そんなありもしない予感を覚えるほどの恐怖だった。
「兄者」
 白い部屋に、雷の唸り声にも似た音が響き、斎王の意識は現実へと引き戻される。すると幻はたちまち輪郭を失い、溶けるように消失した。視線の自由を取り戻し、ほっと胸を撫で下ろす。顔を上げると、簡素な洋服を纏った妹が入室してくる姿が目に映る。音の正体は、美寿知が病室の引き戸を開けたからであった。
「兄者、また何か視えたのですか」
 平素なら猫のように音を潜ませてやってくる彼女だが、戸の開け方からして、兄のただならぬ気配を察知したらしい。慌ただしい足音を立てて駆け寄った妹を、手を挙げて制止させる。
「大丈夫だ。私にはもう、未来を視通す力はない。これはただ……そうだな。既視感のようなものだ」
「正位置の塔が、ですか?」
「そうだ」
 美寿知は、兄の視線を追うようにして卓上を見た。
 災難や不安などを意味するカードであるそれは、正位置であれば完全なる崩壊を示す。その人物が積み上げてきたものを、稲妻による打撃を受けて崩れ去ることを示唆して描かれたカードである。どう読み解いても、明るい展望など、あるはずもない。
「その既視感とは……我らのことですか?」
 それは、世界を転覆させかけた兄の罪を共に背負う美寿知にとって、自分たち以上に適当な人物はいないだろうと思っての質問だった。しかし、当の兄は緩くかぶりを振り、言外に美寿知の確信を否定する。
「では一体誰の……!」
 美寿知は詰め寄らずにいられなかった。静かにカードを見つめ続けたまま、二の句を紡ごうとしない兄の態度が、焦れったくて堪らなかった。殺風景な病室に僅かでも彩りを加えたくて持ち込んだ小さな花束を、きつく握る。包み紙がくしゃりと悲鳴を上げた。兄が誰を思い描いて捲ったのか、美寿知は知るよしもない。力を失っているのだから、眼前に示されたカードは、意味を持たされただけの、ただの絵柄に過ぎないのに。
「本当に何もないのだ。このカードに、ある人物を重ね見ていただけで」
 白い横顔に落とされていた影が晴れ、アメジストの双眸が美寿知を捉える。緩くほころぶ眦。そこに、かつてのような剣呑さは見受けられない。
「ヘルカイザー」
 目を見張る。まろやかな低音が投げた小さな小石は、美寿知の胸に波紋を生んだ。
 黒衣のはためきが脳裏をよぎると、冷え切った刃のような碧色に睨まれる錯覚に陥った。
 一度は運命に呑まれ、天上から墜とされた、哀れな皇帝。以降の経緯は人伝に聞いていたが、まるで人が変わったような彼の振る舞いには、畏怖めいたものを感じていた。
 どうしてその名前を、などと問いを返す前に、再び正位置の塔が視界に入る。兄はタロットが示した運命に彼の姿を重ねただけだった。
 傍らのブラウン管のような液晶を通してでしか見たことのない男が、もしも眼前に姿を現したなら、我ら兄妹はどれほど圧倒されるのだろうかと美寿知は思う。
「あの男は、破滅の運命を迎えてもなお、自らの足で立ち、闘い続けている。彼のどこにそんな力があるのかと……私はこのカードを眺めながら、考えていた」
 ヘルカイザーが破滅の道を踏み出す瞬間は、美寿知も見た。対者であったエドの握る戦車の運命に、轢かれ斃される瞬間を。千里の景色を友人と共に見た傲慢から、対者を人と思わず、暇つぶしの玩具同然に弄ぶエドの表情を思い出し、胸が悪くなった。破滅の意志に囚われた兄の傀儡だったとはいえ、とても褒められた行為ではなかったと、今更ながら後悔する。
 纏う衣を変える理由はいくつかある。ただの気紛れか、何らかの決心か諦めをつけたか。しかしヘルカイザーの場合は、どれでもないように思えた。まるで粉々に砕かれて空っぽになった器に、新たな人格を流し込まれたかのような強烈なる変貌。エドはイメージチェンジだと揶揄していたが、美寿知はパラダイムシフトに近い印象を受けた。見る者すべての網膜を焼く光芒を降らし、闇を、地獄を掌握せしめんと機光の竜を操る。同じ竜を操っていても、その威光は全く別の印象を抱かせた。
 破滅したその先を、斎王と美寿知は初めて見たのである。
 瓦解したものは二度と再生しない。破片は、元の形を取り戻してもすぐにまた崩れていく。しかし、没落したはずの彼はどうだ。眼差しは、氷すら凍り付かせてしまうほど冷め切っていた。真っ直ぐ伸びる背筋からは、何人たりとも寄せ付けない剣呑さを放っていた。そして、涼やかに整った相貌には、酷薄な笑みが貼り付くようになった。こんな変貌を、誰が予想できただろう。
 破滅した男の顛末は、底のない闘争心と飽くなき勝利への渇望だった。
「もしかしたらあの男は……生まれる時代を間違えたのやも知れません」
 これは同情などではない。ただ思ったままの事実を口にしただけだと、美寿知は自らに云い聞かせた。流れる沈黙に耐えかねて、背後の花瓶へ向き直る。養分の管を塞がれて草臥れかけた新品の花束を射し込んで軽く形を整えると、僅かに元気を取り戻したかのように、室内が鮮やかになっていく気がした。花を手折らずに済んだことに、安堵の息を落とす。
 振り向き様に「だがそれもまた運命だ」と、兄は云った。星の散りばめられた夜空のような双眸が、怪訝な顔をする美寿知を映す。斎王は眦を綻ばせたまま視線を滑らせ、テレビのリモコンを手に取った。小さな起動音と共に、液晶が発色を始め、無遠慮なフラッシュと共にインタビュアーの喧騒が飛び込んでくる。
 その渦中に立っていたのは、他ならぬヘルカイザー自身であった。ジャケットをカジュアルに着込み、血の通った人間らしい柔和な表情で、波のように押し寄せる質問に答えている。新しいプロリーグを立ち上げるという夢のために、自らが広告塔となってメディアに露出する姿は、かつて地下を統べていた頃とは似ても似つかない。あまりにも不躾な質問には無視を決め込む様子を見るに、彼なりの処世術を身につけたのだろう。
 そんな映像を眺めながら、斎王は小さく笑った。
「人は変わる。破滅を運命付けられたとして、内に秘める力が、超克を可能にするのだ。彼は自らの手で未来を切り開いた。私が視た塔の運命は過去のものであり、今は別の未来を歩いているだろう」
 ヘルカイザーの傍らで同じ表情を浮かべる小柄な男が、画面の端に映る。眼鏡から零れんばかりの大きな瞳が、ぐるりと周囲を見渡していた。数年前に対峙した頃は弱々しく揺れていたのが、随分と精悍な眼差しになったものだと美寿知は思った。
「私は、彼の持つ力が恐ろしかった。特別な力など何一つ持たぬ男のどこに、他者を畏怖させんほどの力を秘めることができるのか、理解できなかったのだ」
 兄の話す感覚は、美寿知にも覚えがあった。配下の四帝を通して見た、二人のデュエリスト。とても良好とは云えない彼らの連携が、窮地に立たされた瞬間、劇的に向上する様をこの目で見たのだ。
 当時は、四帝の力を与えただけの人間を過大評価していたのだと失望した。しかし、今は違うとわかる。見誤っていたのは美寿知の目だった。他ならぬ美寿知自身が、彼らの実力を遊城十代の腰巾着程度と過小評価していたのだ。そのデュエリストの片割れであった少年が今、画面越しに胸を張って立っているのが、答えの凡てである。
「未来を視通す力を以てしても、その者が持つ無限の可能性までは視通せない。それは、他者を信じなければ視えないものだからだ」
 この兄弟は、多難の満ちる前途に、今もなお揉まれているだろう。目指す夢がどれほど遠い場所に座しているものか、知らない訳でもないだろう。そして、途方もない道程から、彼らは、幾度も心を磨り減らさなければならなくなるだろう。
 それでも――
「彼らの逞しい歩みは、恐らく止まらぬだろう」
 液晶の向こうに立つ兄弟は、晴れやかな顔つきをしている。
「ええ……」
 斎王の手が映像を止めた。せせこましいインタビューの余韻を吸い込みながら、兄妹の視線が交わる。
「私たちも、ここで立ち止まっている場合ではないな」
「はい。あの兄弟のように、我らも前へ」
 二対の小夜色が絡む。卓上に広げられたカードに置かれた兄の手を、美寿知の手が包んだ。じわりと体温が移り、混ざり、そして溶けていく。孤独の傷を舐め合っていた頃とはまた違った感慨が胸に広がり、それに浸るように二人は瞼を閉じた。
 暖色の花たちが静かに揺れる。