皿 ※R18 - 2/3

 梟が鳴いている。この日は新月だった。
 噂の教会はここか、と零しながらサリエリは廃墟に足を踏み入れる。閉鎖されてさほど年月が経っていないせいか、建物自体は割と綺麗に残っていた。窓に罅が入っていたり、壁面が大きく崩れ落ちていたりするような箇所は見当たらない。その代わり長椅子に堆積した砂埃が、立て付けの悪い扉からの隙間風によって舞い上がり、空気を澱ませている。喉が乾燥し張り付くのを感じて、サリエリは思わず咳払いした。
「そろそろか……」
 甘く、落ち着いたテノールが礼拝堂に広く反響する。多方向に跳ね返る声が幾重にも折り重なり、多重音声のように増幅されてサリエリの鼓膜に戻る。礼拝堂が綺麗なときにここで歌えばさぞ気持ちよかったことだろう。しかし今回はそれが仇となっている。サリエリは苦々しげに表情を歪ませた。
 ポケットに仕舞っていた懐中時計を取り出す。蓋を開けて文字盤を確認すると、じきに日付が変わる時刻を示していた。零時まで残り一分弱。息を潜めてそのときを待つ。
 残り三十秒、二十秒、十秒――
 三、二、一――

「……っ!」
 風が冷気を纏い始めたのを感じて顔を上げる。砂埃がぶわりと舞い上がり、キラキラと反射させながら集まってゆく。まるで人型のようなシルエットが礼拝堂のそこかしこで星屑のように光を散らしている。やがて徐々に輪郭を形成し、現れたのは噂に違わぬ姿の異形達だった。
「なるほど、これが……」
 布を被った〝人〟のようなものが祈るように礼拝堂の長椅子に座っている。ある者の布が風ではためくと、中身は空洞だった。
 サリエリは納得する。住人が〝幽霊〟と称したのはあながち間違いでもなかったらしい。厳密には違うのだが、まあ似たようなものだろう。
 この者達は〝亡者〟と呼ばれる存在だ。死した者の未練を地上に置き去ってしまい、具現化したもの。幽霊はあてもなく彷徨える魂を指すが、亡者はその地に留まり続ける魂を指す。恐らく、この地で信心深かった者達が寄り集まってできたのだろう。
 さあ、どうするか。
『ねえサリエリ、もうお腹空き過ぎて暴れたい気分なんだけど』
「やめてくれ。……それよりどうする? 悪魔ではなさそうだが」
『亡者ったって思念だけの抜け殻みたいなもんだろ? 淡泊だからあんまり好きじゃないけど、まぁそろそろ限界だししょうがないかぁ』
 サリエリが何やら会話のような独り言を始める。視線は相変わらず亡者達に向いているが、サリエリが話している相手は自身の体内に宿ったもうひとつの異形だ。それの声はどうやらサリエリ以外には聞こえないようになっているらしく、礼拝堂に響かない。
 幾つかの遣り取りを終える。その瞬間、ずるりという湿った蠕動音が響き、サリエリのキャソックが揺らめいた。長い裾から幾本もの触手が現れ、サリエリの周囲を取り囲むように伸びる。
 背後の異様な気配に、亡者達は一斉に振り向いた。ひとりの神父から得体の知れない者の存在を感じる。悪魔だ。神聖な教会の中でどうして。亡者達は戦いた。
 恐怖が礼拝堂を支配する。唯一の逃げ道である扉は、悪魔を纏った神父によって阻まれてしまっている。逃れられない。その事実が亡者達を更なる恐怖へ陥れた。
 暫く様子を窺っていた触手が一斉に動き出す。子供位の小さな獲物に向かって勢いよく伸び、布ごと絡め取る。捕らわれた哀れな羊は、悪魔の触手によって雁字搦めにされ、やがて神父のキャソックの中へ引きずり込まれていった。
「……ッ、んっ!」
 ひとりの亡者が神父に取り込まれる。すると受け入れたサリエリがびくりと息を詰まらせた。
『そういえばコイツら全部まとめて食べた方がいい? それともひとつずつ?』
「こんな数を一気にやるのは無理だ」
『ふぅーん……』
 捕食者同士の気の抜けた会話を終え、悪魔は再び活動を始めた。飼い主たるサリエリの要求通り、丁寧に一体ずつ取り押さえ、次々とキャソックの中へ取り込んでゆく。質量保存の法則を完全に無視した光景。それはさながら、ブラックホールのようでもあった。
「んんっ、う……あァ……」
 悪魔が獲物を取り込む度、サリエリは息を詰まらせて悶えた。今にも上がりそうなあられもない悲鳴を必死に抑えている。サリエリは、体内に作られた悪魔の住み処へ獲物を納めてゆく一連の衝撃を甘んじて受けているのだ。尻のあわいから侵入し、緩んだ肉筒を通り、結腸の入り口から新たに生み出された悪魔の部屋に運び込まれる。体内の異物感はもちろんのこと、背筋に走る甘い痺れのような快感こそが、専らサリエリを苛む感覚であった。
 しかもここは非常によく反響する礼拝堂の中。そんな場所で情欲に濡れた声を上げれば、偶然近くを通りかかった者に聞かれかねない。悪魔の存在が世に知られれば、間違いなく面倒毎に変わる。
「いっ! ……んっんぅ……ふ……ぅんん」
 そしてなにより、はしたない声が方々へ反響した暁には恥ずかしさで自刃してしまいそうだ。
 だからこそ、声を上げるわけにはい。が、立て続けに体内を異物が這い回る感覚にサリエリの理性は焼き切れそうだった。前立腺を掠めては下腹が切なく痙攣し、射精に向かって熱が蓄積してゆく。上手く身体に力が入らず、今にも頽れそうな程に膝が笑っている。
「ひぁっ……あッーー! ……ッ!」
 幾つ目かの異形を体内に納めた瞬間、一際強い快感がサリエリを襲った。稲妻が駆け巡るように背筋が仰け反り、びくびくと痙攣する。思わず上がりそうになった悲鳴を、両手できつく口を押さえることで阻止する。間一髪だった。
 頭が真っ白になる。チカチカと明滅する視界が眩しくて瞼を閉じた。すると五感の一部を遮断したことで、性感はより鋭くサリエリの身体を責め立ててきた。昇り詰めているはずなのにちっとも開放感が得られず、徐々に涙が滲んでゆく。
『はい最後だよ~』
「んんんー! んふ、う、う、うんんんッ!」
 一際大きな亡者が体内に入ってきた。非常に強い圧迫感に、サリエリの身体が強張ってゆく。それを何とか弛緩させ腹にだけ力が入るよう、息むように呼吸する。
 そして漸く、全ての亡者がサリエリの体内なかへ収まった。
「っはぁ……はぁ……」
『おつかれさま~。で、ここで食べていい?』
「はぁ……だめだ……もうすこし、待て……くっ」
『えー』
 礼拝堂で群れを成していた亡者の姿は跡形もなく消え去っている。上がる呼吸を整えながらそのことを確認すると、腰が砕けたように床へへたり込んだ。
 膝立ちのまま暫く項垂れる。その視線の先には薄っぺらい腹が――あるはずだった。
「う……く……」
 そこは子を孕んだように大きく張り出していた。いくら悪魔の力で亡者達を圧縮させたとはいえ、十を優に超える数を取り込んだことで臨月の妊婦よりも大きい。呼吸もままならない程の圧迫感がサリエリを襲う。仮に立ち上がれたとして、一歩踏み出せばたちまち腹が割けてしまうかも知れない。そんな懸念がサリエリの動きを止める。
『なぁに? もう根を上げてるの?』
 情けないなぁと、腹の中の悪魔が嗤う。貴様のせいだろうと怒鳴る気力などなかった。本当なら誰もいない森の中で食事させるつもりだったが、最早それどころではない。
「あ、アムドゥシアス……少しだけ、食べてくれ……」
 一体だけだ。念押しを忘れずにサリエリは告げる。アムドゥシアスと呼ばれた悪魔は暫し考えた末、しょうがないなぁと零しながら言われた通り食事を始めた。
「うぐ……! う、うぅ……んん」
 腹の中で異物が蠢くのをはっきりと感知し、背筋を甘い痺れが走る。丸々と膨れた腹が胎動のように膨張と収縮を繰り返す。奥歯を噛んで必死に声を抑えるも、両腕が腹に回っているため防ぎきれない。
『ちょっと! そんなにお腹押さえられると苦しいんだけど。……はい、食べ終わったよ』
 早く終われと念じながら性感と圧迫感に耐える。やがて一先ずの食事が終われば、先程より多少は動きやすくなっていた。
 よろよろと立ち上がる。一体だけの食事では腹のサイズは変わらない。が、一刻も早くここから抜け出したかった。踵を返し、覚束ない足取りで礼拝堂を後にする。
 誰もいない教会に隙間風がひゅうひゅうと虚しく鳴いていた。

   ◆

 住人を悩ませていた教会の怪異を解決した神父の歩む先は、町とは反対の方向を向いていた。
 鬱蒼と茂る森の中をひたすら奥へ進む。右手は進行を阻む枝を除け、左手は悍ましく膨らむ腹を抱えている。のろのろと頼りない歩みを進めると、やがて少し開けた場所に出た。
「く、うぅ……」
 サリエリは広場の中央にぽつんと立つ大きな切り株へ倒れ込んだ。跪き、縋るようにその縁へ両手を付くと、すぐに身体を反転してもたれかかる。ずるずると上体が沈み、切り株の角が肩甲骨に触れたところで止まった。臨月を超えたサイズの腹を抱えているせいか、両脚が閉じられないらしい。膝を立てて開脚する姿は、さながら分娩台の上の妊婦のようだ。
『ねえもういい?』
 不貞腐れたような声でアムドゥシアスが問う。
 既に限界だったサリエリははくはくと息を切らしながら早口でもういい、と言った。
「……ああ、あああぁあぁぁぁァァ」
 その絶叫に、枝葉にとまっていた鳥たちが一斉に飛び去っていった。礼拝堂のときとは比べものにならない程、腹が激しく蠢く。一気に強まる圧迫感に呼吸が何度も止まった。
 サリエリが感じているのはそれだけではない。亡者を取り込みだしてからずっと燻っていた熱が一気に昂ぶったのだ。まるでオーガズムを迎えるような衝撃に、サリエリは身を捩りながら泣き叫ぶ。腹の中で動き回る悪魔は構わず食事を続けている。その度に体内が疼いて何も入っていない肉筒が蠢く。まるで見えない男根を食い締めるかのようにヒクついて、いっとうきつく腹を抱き締めた。
「ぁひ、あ、あっあぁ、やめ、もう……もう……!」
 人間同士ではまず味わえない快楽がひっきりなしにサリエリを襲う。昇り詰めるだけ昇り詰めた身体は、しかし天井を迎えられぬまま、いっそ苦痛とすら思える程の仕打ちに制止を求めた。青白かった相貌は淫靡に色付き、精悍だった眉は切なげに顰められ、怖じ気を齎していた瞳は甘美に蕩けている。パンパンに膨れ上がっていた腹は徐々に萎んでいっているが、まだ元のサイズには程遠い。形振り構わず首を振る。もうやめてくれと懇願する。眦から一筋、涙が零れ落ちた。
『あーいい声。ほんっと最高のBGMだよねー君』
 悪魔は暢気に笑いながら食事を続けた。やめてやる気はないらしい。当たり前だ。いくら人間に危害を加えない亡者とはいえ、人間が取り込めるはずのない異物が体内にあれば、身体に深刻な不調をきたす恐れがあるからである。とはいえ、サリエリと契約を交わしているアムドゥシアスは別だ。
「いやだ……いやだぁ……はぁ、あぅ、あぁぁ」
 そのことはもちろんサリエリも理解している。それなのに、身体を苛む苦痛が途方もなくて思わず口走ってしまうのだろう。悪魔にはこの痛みを理解することができない。それでも、普段なら己の言動を決して曲げないはずのサリエリが、ここまで呆気なく前言撤回する程には辛いのだろうということだけは解る。解ったところで何かできる訳でもないのだが。
「あっ、あっ……はぅ、あ……ぁぁ」
 獲物達をひとつずつ悪魔の胃に収めてゆけば、サリエリの孕み腹は徐々に形を失ってゆく。圧迫感がおとなしくなってゆき、残ったのは体内を愛撫されるような心地よさだった。悲鳴のようだった声が、やがて鼻から抜けるような嬌声に変わる。
 甘い痺れが身体の芯を溶かしてゆく。そう錯覚するような心地に身体が縮こまる。いつの間にか切り株からずり落ちていたサリエリは、根元で胎児のような体勢で寝転がっていた。過ぎる程に受けた快感のせいで前が苦しくて堪らない。何度も絶頂を迎えているはずなのに、サリエリの性器は一度も射精していなかった。はち切れそうな程の熱は、ここが外だという認識を麻痺させる。サリエリは堪らずキャソックの裾を捲ろうと手をかけた。
『はいはい、しょうがないなぁ』
 それを、悪魔の触手が制した。肛門から伸びたそれがサリエリのペニスを絡め取る。決定的な刺激に、サリエリの腰が震えた。
「ああっ、ああぁ!」
 びくりと仰け反る。まるで搾り取るように扱かれて、サリエリは快感に悶えた。袋を揉みしだかれ、竿をなぞられ、そして亀頭を扱かれた末に悲鳴が大きくなると、とどめだと言わんばかりに鈴口を引っかかれる。
「ヒッ! あああぁあぁァァーーーッ!」
 瞬間、白濁の飛沫が迸ると、サリエリの身体はガクガクと痙攣した。
 溜まっていたものを全て吐き出せば、後に残るは微睡むような倦怠感。葉擦れの音が支配する森の中で力なく横たわる神父は、聖職者にあるまじき淫蕩な姿を晒していた。誰かに見られている訳ではないが、余りにも無様な自分にサリエリは自殺願望のような気分になる。
 視界が未だぼやけている。そう思ったら眼鏡が外れていることに気が付いた。気怠い身体を何とか起こし、手探りで見付け出してかけ直す。すると足許に散る白濁が目について、思わず顔を顰める。証拠隠滅でもするかのように、土を上から被せて消してやった。
「……帰るぞ」
『おっけ~』
 立ち上がる。キャソックに付着した汚れを軽く落とし、乱れた髪を粗雑に整える。そして切り株に背を向けて何事もなかったかのようにこの場を後にした。
 明朝、町長にはどう報告しようかなどと思考を巡らせながら。

 そして、長年町を悩ませてきた怪異は瞬く間に解決したのである。