売旬

 魔が、差したのだ。

   ◆

 あれは真夜中の歓楽街でのできごとだった。
 早く終わるはずだった仕事が長引き、その腹いせで行きつけのバーに入り何杯か引っかけた帰りのこと。店を出た私を待ち構えていたかのように少年がぽつんと立っていたのだ。

「こんな時間にこんな場所で危ないじゃないか。お家はどこだい? 送っていってあげよう」
 少年は不思議なナリをしていた。白い肌に白い髪。そして身に纏う衣類すら純白で、コラージュ映像のようにぼんやりと浮いて見える。薄汚れた私にはとても眩しく感じる姿だ。色らしい色が殆ど見当たらない中、唯一瞳だけは有彩色だった。血のような赤。カラーコンタクトをしていても、ここまで鮮やかにはならないだろう。
 ゾッと、背筋を冷たいものが滑り落ちる感覚がする。
 そんな浮き世離れした姿の少年が、無言で私を見詰めていた。質問には答えず、人形のような無表情で、瞬きもせず私を見ている。漠然とした不快感が、徐々に恐怖にすり替わってゆく。
「そ、それか、こんな見ず知らずのおじさんに家まで連れて行かれるのは厭だろう。お巡りさんを呼ぶから、ここで待ってなさい」
「それはいやだ」
 甘く幼い声が聞こえた。子供らしい舌っ足らずさはあるが言葉そのものははっきりしている。中学生位だろうか。どちらにせよ未成年には変わりないため、このままにしておく訳にはいかない。
「厭だったって、こんな時間に彷徨いていたら危ないだろう」
「こんな時間だからここにいるんだよ」
 少年の瞳に迷いがない。その言葉から、迷子ではないのだろう。私は両親が心配しているからと、帰宅を促す。
「おじさん」
「なんだい?」
 それは突然訪れた。
「おじさん、さっき出てきたお店って、あそこ?」
「えっ……」
 漸く視線が私から逸れたと思えば、ある方向を指さしてきた。
 そこは、先程退店した行きつけのゲイバーだった。
 そう。私はゲイなのである。
「ねえ、そうなの? おじさん、おとこの人もだいじょうぶなの?」
 胸を叩く鼓動が五月蠅い。上手く呼吸ができない。こめかみから、汗が一筋垂れて落ちた。
 この子は何を言っているのだろう。
「おじさん、おとこの人もだいじょうぶなら、ぼくはどう?」
「な、にが……」
「あのお店に入ったけど、あいてが見つからなくてでてきたんでしょ? じゃあ、ぼくはどう?」
 少年の瞳が再び私を射貫く。何もかも見透かす程に純度の高い赤。
 彼は、気付いている。こてん、と傾げる細い首から目が離せない。
「ねえ、どう?」
 気が付けば少年は私のすぐ真下まで来ていた。駄々を捏ねるように私のスーツを掴み、幼気に揺れた瞳で見上げてくる。自分を選べとせがんでくる変声期前の声を紡ぐ唇は、うっすらと薄桃色に塗れていた。

 私は、少年の手を取った。

 魔が差したのだと、言い訳しながら。

   ◆

「おかえり」
 月が沈み空が白みはじめてきた時刻になって漸く、サリエリは帰宅した。無言で靴を脱ぎ、足音を殆ど立てず廊下を歩く姿は、外出前と同じだ。アマデウスによる出迎えの挨拶に何の反応も示さず、静かにバスルームへ向かう。
 三十分程でサリエリは出てきた。濡れた髪をおざなりに拭い、まだ毛先から垂れているにも関わらずリビングへ入る。目的はアマデウスだった。
「…………これ」
 右手に握られた紙をずい、と差し出す。お札だ。サリエリは、深夜街中を徘徊して稼いだ金を全てアマデウスに差し出したのだ。酒瓶に口を付けながらタブレット端末を弄っていたアマデウスは、傍らに立つサリエリに笑いかけ頭を撫でた。
「ありがと」
 そしてその手を離して受け取る。しわくちゃになったそれを伸ばしながら金額を数える。今日のサリエリの稼ぎは三万だった。
「すまない……きょうはこれだけしか」
「いいよ。頑張ったんだろ? ならいいじゃないか」
 白いパジャマの裾を両手で握りしめて俯くサリエリに、アマデウスは「また次頑張ればいいよ」と言った。
「おいで、疲れただろ」
 手にしたままだったタブレット端末をコーヒーテーブルに置く。居住まいを正して膝を空けると、そこへサリエリを迎え入れた。サリエリは暫く考える素振りを見せたが、やがて観念したように膝の上に座る。
 サリエリはアマデウスの胸元に背を預けると、徐々に意識を混濁させていった。規則正しいリズムで撫でるアマデウスの手つきが一層の眠気を誘っている。
 こんなことをしている場合ではない。早く、早く溜まった家事を済ませなければ。
 頭の中ではそう己を叱咤していても、幼い身体に襲いかかる本能の威力は強烈だった。
「おやすみ、サリエリ……」
 アマデウスはなおもサリエリを撫で続けている。それはまるで、子供を寝かしつける親のようだ。
 ふたりはもちろん親子ではない。それでも孤児みなしごだったサリエリを引き取ってくれたアマデウスは、殆ど親も同義だった。
 真っ白な睫が震えて徐々に瞼が落ちてゆく。空虚になった赤い瞳は既に何も映しておらず、やがて身体はだらりと弛緩する。すうすう、という静かな寝息だけがリビングに細く響く。

 傍から見れば不道徳極まる、この関係に名前はない。ひとつだけ言えるのは、これはただの養父と養子の関係などでは言い表せないということ。

 そしてこの関係の異常性を指摘する者は、この家には誰ひとりとしていなかった。