灯台のようなお前は「明けない夜はない」と言った - 2/3

 日常が顔かたちを変えたことには、起床して間もなく気が付いた。
 普段より十五分ほど遅い時間に亮は目が覚めた。布団を捲る音と雀の鳴声がやけに強く聞こえて妙に落ち着かない。直感的に何かが足りない気がした。自分の体内時計に不信感を覚え、PDAのカレンダー機能で今日の日付を確認する。六月四日。よかった。まだ正常に稼働している。ほっと胸を撫で下ろす。
 ではこの焦燥感は何なのか。どれだけ思案を重ねても、ベッドの上で上体を起こしたままの恰好では大した手掛かりなど得られない。つまり、これまで通りルーティーンをこなし、一年最後の登校を済ませるしかなかった。

   ◆

「――以上ーデ、卒業式を終了するノーネ。本日より帰省する生徒諸君ーハ、十三時と十六時に出航する定期便ーヲ利用するノーネ。また、明日以降ーハ――」
「…………ぁ……」
 上の空だった意識が、教員の声が切り替わったことで現実に戻る。いつの間にか校長の訓示や卒業生の答辞が終わっていたらしい。
 教壇の大モニターは役目を終え、クロノス教諭の独特な節回しが教室一帯に響く。帰省やサマースクールについての説明も終わりを迎え、結びの句を合図に着席していた生徒達はこぞって教室を出て行った。帰省先では何がしたいのか、サマースクールでは何を学びたいのか、そしていつ島を出るのか。待ちに待った自由な生活を楽しみに胸を躍らせて、そこかしこで声が弾んでいる。
 この明るい喧噪の中でひとり、丸藤亮だけが取り残されていた。浮き足立つ周囲に倣う気分になれず、鈍な意識が憂鬱の沼に沈んでゆく。本来なら連中と同じ会話が自分にもできるはずだったのに、などという僻みにも似た寂寞感がその原因だった。
 腑抜けた思考だ。元々自分には、それほど親交の深い人物などいなかっただろう。要らないと判断した感情を胸の底から乱暴に抜き取り、自嘲めいた笑みと共に吐き捨てる。
 亮に帰省の予定はないはずだった。帰ったところで特段することもないし、何よりこの学校では学びたいことが山ほどある。全寮制という貴重な環境を利用して、とことんまでデュエルを、デッキを突き詰めたい。亮の中で郷愁よりも知識欲の方が遙かに強かった。
 つまりバカンス計画や休暇中のあれこれは、亮にとって不要な話題であった。くだらないとばかりに目を伏せ、やっとの思いで腰を浮かせる。
 が、不意に耳に飛び込んできた生徒の遣り取りに、中腰のまま固まってしまった。

「鈴木、昼メシ用意したら十三時の便に乗るからな!」

『それじゃあ亮、当日は昼過ぎの便に乗るから、一緒にお昼買いに行こう!』

「ッ…………」
 記憶にノイズが走る。脳裏に響く甘い低音。擦り切れたフィルムのように不鮮明な映像が、見知った景色とノイズの走る男を映し出した。
 そうだ。自分は昨晩纏めた荷物を持って、待ち合わせの購買へ行かなければならないのではないか。忘れようのないスケジュールを思い出したことに亮は驚く。
 ――はて、待ち合わせの相手は誰だったろう。
 つい一週間前の遣り取りだったはずだ。徐々に当時の記憶が蘇る。夏休みの過ごし方について話していたとき、は突然「ボクの実家に泊まらないか」と言い出したのだ。
 突飛な提案だと驚愕したのを思い出す。あまり長居するつもりはないと言えば「なら一週間……いや、二週間でどうだい?」と食い下がられて、渋々了承したのだ。
 その後はまるで事前に用意していたかのようにすんなりと出立日やら待ち合わせ場所やらを決められて――
「くっ……!」
 これほど鮮明に状況は思い出せるのに、その相手だけ忘れるということは有り得るのだろうか。

 背筋が震えた。
 席を立ち、急いで教室を後にする。楽しげに流れる人波を押し退け、一目散に寮へ向かった。大して速くもない足を必死に動かし、肺に貯め込まれた酸素を使い果たしても尚走り続けた。
 急がなければならない気がした。もしかしたら後の祭りかも知れない。それでも逸る鼓動が急げとせっつく。オベリスク・ブルー寮の前を通り抜け、海岸を過ぎ、茂る森を掻き分け、数日前の雨で泥濘んだ地面に何度か足を取られ、やっとの思いで辿り着く。
 大きくはないが、豪奢な佇まいが亮の帰寮を出迎えた。

 校舎から最も遠い場所に位置するここは、成績優秀者を意味するオベリスク・ブルー生の中でも選ばれた者だけしか住まえない〝特待生寮〟だ。その外観は中世の洋館を思わせ、絢爛な城を連想させるブルー寮よりも幾分こぢんまりしている。それは、ただ成績がいいだけでは入寮できない門の狭さにあった。事実この寮には、数える人しか在籍していない。その中に亮はいた。

 亮は昼夜問わず人気が少ないのをいいことに、乱暴な手つきで観音扉を開ける。エントランスを縦断し、一段飛ばしで階段を駆け上がり、寮の中心である食堂を右に折れ、談話エリアへ出る。壁沿いに張り出す廊下を南に辿って目的の部屋へ到着するまで誰ともすれ違わなかった。それに違和感を覚えるだけの余裕は、ない。
 毎日通る廊下。自分の部屋を通り過ぎると、すぐ隣に目的の部屋はある。何故そこを目的地に定めたのかまるで解らないが、先ほどから海馬が誤作動を起こしている今はどうでもよかった。
 名前すら判らない今、どう声をかけたらいいか判らない。ノックすら煩わしく、早々にドアノブに手をかける。
 蝶番を軋ませる勢いで粗雑に扉を開けると――
「……はぁっ、はぁ…………」
 やはり、もぬけの殻だった。妙に生活感が残る有様に気持ち悪さを覚える。ノブを握ったまま、ずるずると身体が沈んでゆく。

 顔かたちを変えた日常は、亮の想像を超える変貌を遂げていた。

 失った酸素を取り戻そうと、肩が必死に上下する。亮の眼前に広がる光景は、間違いなく誰かが住んでいたことを示していた。
 皺の寄るベッド、カードが散乱するデスク、壁に引っかけられた制服とアロハシャツ。それらが突如出現したとは考えにくい。
 きっとこの生徒は今日の卒業式には現れなかった。最初に過ったのはサボりの可能性だが、特待生ともあろう生徒が取る行動として現実的だろうか。
 亮は、未だ整わない呼吸を宥めながら辺りを見渡す。サボり以外の可能性、その手がかりとなりそうなものがないか探す。
 そもそもこんなに物が残った状態で出て行けば、寮長辺りに怒られないだろうか。例えば亮なら、綺麗に処分を終わらせた上で出て行くだろう。立つ鳥跡を濁さず。来たときよりも美しく。それが亮のポリシーであり、常識だった。

 ――失踪。

 その単語が胸の底から黒く湧き上がる。やっと呼吸が整った矢先に、またしても息苦しさを覚える。酸素が喉につっかえて声すら出せない。
 不安か恐怖か、そんな薄ら寒い感情が全身を這い回り、末端から温度を奪ってゆく。何の確証もないが、この単語は事実だと確信していた。
 このことを早く報告しなければ。亮は再度、校舎へ赴く決意をする。
 そして寮を出る頃には、既に予定の船は出航していた。

   ◆

 力の入らない足は何度も木の根や小石に躓いた。幸い派手に転ぶことはなかったが、その不安定な足取りは千鳥足といっても遜色ないだろう。走るというには余りにもお粗末な速度で何とか辿り着いた部屋は、校舎の最上階に位置する校長室だった。
「失礼します……!」
 喘鳴の混じった声で入室を宣言する。そうすれば返事を待たずとも入室が許されることを知っている亮は、すかさず開いた自動ドアの向こうへ倒れ込むように進む。
 教え子兼愛弟子のただならぬ様子に、校長の鮫島は弾かれるように起立する。今にも崩れ落ちそうな亮の元へ駆け寄り、間一髪で受け止めた。
「亮! 何があった!」
「いえ、大丈夫です。走っただけですので……」
「とにかく、そっちに座りなさい」
 くの字に折れた上半身を支えられた亮は、応接用のソファーに腰掛ける。鮫島は来客用の煎茶をひとり分用意してから、亮が座るソファーとコーヒーテーブルの間にしゃがんだ。
 回復しきっていない体力を酷使して走った亮の身体は限界だった。吸って吐いてを繰り返す肩だが碌に酸素が取り込まれる様子はなく、時折喉に引っかかって咳き込む始末である。早く隣室の同輩の失踪を伝えなければならないのに。逸る気持ちが、言葉の代わりに呼吸を浅くした。
 胸を押さえて俯く亮を、鮫島は不安の籠もった眼差しで見詰める。彼が切り出すまで待っているつもりだったが、徐々にその選択が不味いでのはないかと思い始める。
 鮫島は僅かに腰を浮かせて身を乗り出し、亮の肩に手を置く。責める口調とならぬよう角を丸めた声で「何があった?」と問う。
 その質問に、亮は答えられないでいた。難しく考える必要はない。あの寮で見た光景をそのまま伝えればいいはずだった。
 だが、答えられない。不可解過ぎる事象に遭遇したせいなのか、上手く言葉が纏まらなかった。そのまま正直に伝えるなら名前も姿も覚えていない・・・・・・・・・・・恐らく友人と思しき生徒が失踪した・・・・・・・・・・・・・・・・と言うしかないのだが、それでは余りにもお粗末だ。
 亮が思考を迷走させることは滅多にない。確たる信念と軸を持ち、誰も寄せ付けず、余計な思考を削ぎ落としてきたからだ。
 結果、眼前に立ちはだかる問題は朴念仁である亮にとって難題極まりないものだった。連続するイレギュラーに取り敢えず口に出す・・・・・・・・・という初歩的な解決策すら導き出せないでいる。考えれば考えるほど脳が雁字搦めになってゆく感覚に、亮は口惜しさを覚えた。
 出したお茶に手を付けず、ひたすらに自身の左腕をきつく握る亮の丸まった背中を眺めていた鮫島だったが、いよいよその異変に不安が本格的に首をもたげるのを感じた。とっくに呼吸は安定しているのに、強張ったままの肩は僅かに震えている。
 表情が見えない今、その痙攣が示す感情が何か量りかねていた。
 白く細い愛弟子の右手。鮫島はその上に柔らかく自身の手を重ねた。
 ハッと息を飲む音を聞く。前髪によって隠れていた暗がりから現れた碧色の瞳は幼い驚愕に満ちていた。
「亮……そもそも君は、天上院君と昼にここを発つはずではなかったかね?」
 そうして鮫島は、かねてより感じていた疑問を口にする。時間に正確な彼のことだ。きっと何かあったのだろうと推測しながら。
 亮の反応は鮫島の予想を裏切った。弾かれたように顔を上げ、見開いた目を更に大きくして、何かを伝えたげに唇を開閉する。

「……校長……今、なんて……?」

 声が震えている。
 何か、重大な欠落に気付いたかのような。

「だから、天上院君と一緒に島を出る予定ではなかったのかね? 彼はどうした?」

 対する亮は冷えた汗が背筋とこめかみを伝うのを感じた。
 知らない名前。きっとそれが――

「テン、ジョウイン……。あの、下の名前は?」

 鮫島の眉間に緊張が走る。
 この子は何を聞いているのだろうと言わんばかりに。

「吹雪君だ」
「テンジョウイン……フブキ……」

 てんじょういん、ふぶき。
 天上院吹雪。
 吹雪。

 ああ――

 胸のしこりが剥がれ落ちてゆく。現出した名前を確かめるように復唱すれば、それは舌によく馴染んだ。亮の記憶に引っかかり続けていたあの甘い声の主は、間違いなく天上院吹雪のものだった。
 姿を消した人物が、亮の中で得体の知れない生徒・・・・・・・・・から無二の親友・・・・・に変貌を遂げる。取り戻した記憶の代償は凄まじく、しこりのあった場所から新たに生まれたのは、息が詰まるほどの胸の痛みだった。
 唇がわななく。鼻の奥がツンと痛む。涙腺が痙攣する。それらを全て封じ込めて、ようやく言葉にできた事象を伝えなければならなかった。
 亮の体感で三十分。実際はもっと短いだろうが、それほどの沈黙を破ってやっと、ここへ駆け込んだ目的を果たす。
 顔を上げ、意を決して口にする。

「校長、吹雪が……天上院吹雪が失踪しました」