さよなら、オペラ・セーリア - 1/3

 舞台は人知れず用意される。
 たった一人の客のために――役者は踊り、歌った。

 開幕。

    ◆

 今朝方に確認した天気予報では一日晴天とのことだったが、どうやら外れたらしい。昼も近くなり、今日の最高気温にいよいよ到達しようかというときに、厚い雲が広がり始めたのである。どす黒い雷雲のような荒天の予兆。春も近いというのに、外すなど珍しい。
 今日は弟と昼食を摂る約束をしていた。午後は休講とのことで、経営と資金繰りについて共に学ぶ予定になっている。だが、この様子では取りやめた方がよさそうだ。わざわざずぶ濡れになってまで、ここへ来る必要などない。心配性の彼がやってくる前に、一言メールを入れておくことにした。サイドテーブルに横たわる携帯電話を手に取り、アドレス帳から弟の連絡先を探す。そこでふと、指が止まる。
「連絡先が……ない?」
 そこには、目当ての名前がなかった。あ行、か行、さ行――下向きの矢印ボタンを押してどれだけ画面を動かしても、弟を示す項目は見当たらない。ら行、わ行、アルファベット――ここまで来たら通り越しているのがわかる。うっかり消してしまったのだろうか、と通話履歴から該当する番号を探してもみるが、そもそも通話した形跡すらなかった。データの保持期間が過ぎたのか、削除した覚えがないにも拘わらず〝着信履歴がありません〟と表示されている。
 電源ボタンを押して待ち受け画面に戻り、折りたたむ。妙な疲労感が押し寄せてきて、ふう、と溜め息が零れた。
 サラサラと波打つレースカーテンが目についた。視線を遣ると、いつの間にか開いていた窓の隙間から冷えた風が微かに吹き込んでいる。カーテンの布は、空の灰色を吸い込んで変色していた。今の俺に唯一残された外の世界。そこは、かつてないほどに彩度を落としている。
 異様な景色だった。今にも泣き出しそうに見える空だが、一向に降り出す気配がない。始めこそ相当な小雨を疑って目を凝らしてみるも、俺の瞳は雨粒の軌跡どころか、外が濡れる様子も映らなかった。
 葉擦れの音だけが入り込む静けさに、胸騒ぎを覚える。少しずつ忍び寄るように、闇が外の世界を侵蝕している。まるで一枚の絵画のように、明と暗とが際立っていく。俺がいるこの病室だけが明るいままで、それが却って薄気味悪い。今はまだそのときではないだけで、いずれここも灰色に喰われるのだろうと思った。約束の時間になっても弟はまだ来ない。願わくばそのまま来ないでほしいところだが、そもそも無事かどうかすら怪しい。何もできない俺は、ただ静かに待つのみである。
 幸い、ひとりになることには慣れてる。そして、ひとりで近しい者の帰還を待つことも。約二年も失踪していた吹雪でさえ、必ず帰って来ると確信していたから、どれだけでも待っていられた。
 弟も同じ話だ。兄弟である以上、彼の帰る場所はここであり、俺の帰る場所もまた、弟の傍である。声も、姿も、名前すら忘れてしまっても、俺に弟が存在するという事実が消えてなくなることはない。

「……なら、その存在すら忘れてしまえば、お前の言う事実は消えてなくなる」
「いや、忘却は喪失ではない。誰も覚えていなくとも、必ず証左となり得る痕跡は残る。それこそが事実だ」

 不意に飛び込んできた声には、どうしてか特に驚きはしなかった。すんなりと耳に馴染む男の科白を受けて、まるで始めから用意していたかのように淀みなく、持論を舌に乗せて放つ。
 窓から視線を外せば、侵入者は病室の扉側に立っていた。闇色のコートを纏った仮面の男の顔が、静かに俺へと向いている。その仮面は、かつて吹雪が身に付けていたものによく似ていた。つまり、男はダークネスの関係者だということになる。
「生憎だが……今の俺はデュエルなどできんぞ。獲物を探しているのなら、他をあたるんだな」
 俺の科白に、男は大仰に落胆するような素振りを見せた。だが恐らく、厚い仮面に覆われている素顔には別の表情を浮かべている。
「おいおい、これが獲物を捕らえようとする奴の態度に見えるのか?」
 声の抑揚が大きい。相手を茶化しているようにも聞こえるその声に、俺は目を細める。
「違うのか。……ならば尚更、俺に何の用がある?」
「決まっている。お前を迎えに来たんだよ」
 ――丸藤。
 男は、芝居がかった動きで諸手を広げた。まるでここが己の舞台だと、己のための花道だと言わんばかりにゆったりと歩く。爪先は真っ直ぐ俺のベッドに向かい、わざわざ接近を知らせるかのようにカツンと鳴らす。硬質な革靴の音は、時計の秒針さながらに規則正しい。
 俺は、この音の主を知っている。
 久しく忘れていた違和感が蘇る。
「デュエルなど出来なくたっていいじゃないか」
 甘い声。
「そもそもデュエルがあるから、人は苦悩する」
 虚ろな声。
「勝利を渇望し過ぎるあまり、自身を滅ぼす必要もなければ――」
 苦しい声。
「敗北の恐怖に身を震わせながら、虚勢を張り続ける必要もない」
 激しい声。
「命すら削ってまで追い求めたお前のデュエルを、誰が肯定してくれた?」
 寂しい声。
 嗚呼どれも、記憶の奥底で眠り続けていたものだ。
 俺は、彼の声を知っている。
「そうだな……褒められた行為ではなかっただろう」
 仮面の下でニヤリと笑みを浮かべたような気がした。
 彼は、投げた質問が予想通りの軌道で返球されると顔に出る癖があるのだ。そして声にも。
 彼の声音が一段と高くなる。
「そうだろう。肉親にすら非難された生き様を貫くのは、とても辛いことだ。現にお前は、こうしてデュエリストとして死にながら、ただ無為に命を垂れ流している」
 狭いスタジオで、壮大なオペラのワンフレーズを口にするかのような不均衡的な絵面。厳かな歌をうたうには、この無機質な部屋は似合わない。それでも構わず、劇場と錯覚させるような彼の立ち居振る舞いに、吹雪の姿を想起した。
 靴音が止まる。ベッドの傍らに彼が立った。彼の細く整った指が伸び、俺の顎を捉える。たったひとつしかない視線を独り占めでもしたいのか、僅かに上向かされた。少しだけ強引な力加減が妙に拙く感じる。そこまで取り繕わなくてもいいのに、と胸中の俺が苦笑した。
 彼は構わず、得意げに鼻を鳴らす。
「ここでは誰も、お前を認めはしない」
 俺の心を見透かすかのように列挙された事実の終着点は、という個の否定だった。なんとも呆気なく、そして味気ないものか。時間をかけて咀嚼し、飲み下し、腹の底で吸収されるまで待ってみても、並べられた言葉以上の意味は何一つとしてわからない。俺はただ一言「そうか」と返すしかなかった。
「言いたいことはそれだけか?」
 ピクリと彼の指先に力が籠もる。
「相変わらず気に入らないね」
 お前のその態度が、昔から大嫌いだったんだ。彼はそう続けた。やはりそうか。少しずつ、なくしたピースを拾い集めるように、記憶が鮮明になっていく。
「そうやってずっと他人事を決め込んでいたんだろう」
 人に興味を示さない冷血漢め。お前はいつもそうだ。お前は、自分さえよければ、他がどうなろうと構いやしないのさ。俺への非難を加速させていく毎に、顎を捉えた彼の指先に力が籠もっていく。ギリギリと骨が軋む感覚に思わず眉を顰めたが、それを咎める気にはならなかった。
 顔も名前も思い出せない虫食いのビジョン。繰り返し再生される映像の数々は皆、真昼のように明るく、そして晴れやかな顔をしていることが多かった。俺や彼の手を引いて歩く吹雪の姿。寮の寝室で構築理論について語る彼の姿。どれも鮮明かつ鮮やかだった。その中には、彼と二人で語らった記憶もある。否、思い出した。
 俺も彼も、口数はさほど多くない。吹雪がいなければ、凪いだ湖面のように静かだろう。喧噪の中心に自ら飛び込む吹雪に対し、俺と彼は汐風を頬に受けながら水平線を眺めている方が好きだった。そんな風に二人で灯台に立っていたとき、彼に言われたのだ。「丸藤が隣にいると落ち着く」と。以降の顛末は残念ながら抜け落ちてしまっているが、きっと味気ない科白で返事をしただろう。気の利いた言葉など何一つ持ち合わせていないから、却って彼の告白を無下にしてしまったかも知れない。
「俺のことなど、何も知らないくせに」
 だから、今になって彼からどれだけ悪し様に言われても、俺に反論する権利などありはしなかった。行方知れずになる前からずっと感じていた心の隔たりがようやく理解できたことに、少なからず歓喜している。
「俺が誰だかなんて、何にも知らないくせに」
「……そうだな、お前の言う通りだ」
 ■■■■。続けたかった彼の名前には、未だノイズが走っている。という個を示す大切な音が、どうしても思い出せない。それは、何年も前から喉奥で小骨が引っかかっているような不快感だ。
 彼との記憶は吹雪が失踪する数日前で途切れていた。つまりその日から今まで、ずっと失踪していたということになる。忘れていた。忘れていたことを忘れていた。口では友だの無二だのとのたまっておきながら、結局は彼の存在が消失すれば始めからいないも同然だったのだ。万人に等しく朝日は昇り、正常の皮を被った日常は何事もなく回る。そのサイクルに組み込まれている俺達は、誰一人として彼の喪失に気付かなかった。
 彼の指が離れる。腰に手を当て、大袈裟に肩を上下させた。
「別に、丸藤が気に病む必要はないさ。俺はこの世界から消失した存在だ。忘れて当たり前だろう? そうやって個に執着するから、人は感情に振り回される。怒りも、悲しみも、苦しみも……全部ひとつになってしまえば、苦痛はなくなる。お前の心臓を蝕む痛みも、弟に抱く罪悪感も……何ならお前の存在すら消したって構わない」
「……なるほど、それは魅力的だな」
 少しずつ、彼がここに来た目的が見えてくる。俺の周囲を取り囲む静寂の原因も、俺の記憶から弟を消し去った犯人も、全ての糸は彼に集約されているように映った。きっともう、ほとんどの生徒が姿を消してしまっているのだろう。忍び寄っていた脅威は、俺の与り知らぬところで大きく成長を遂げていたらしい。
「お前は……何故、この世界を手にかける?」
 彼はいずれ、全ての人間を消失させるだろう。だが、目的に裏付けされた情意が読めない。
「へえ、面白いことを言うんだな」
 彼は喉奥で嗤う。
「手にかけるだなんてとんでもない。俺は救済に来たんだよ。懊悩と悩乱に満ちたこの世界に苦しむ全ての人間に、等しく安寧を与えるためにね」
 お前にもその権利はあるんだよ、丸藤。彼の手がダンスを所望するように伸びる。無骨な仮面が俺を射貫く。どこかの教祖染みた力説の終着点は、同じ宗教への勧誘だった。隣の芝生は青いと言うが、確かに、彼が身を置く世界はどうも魅力的に見える。
「まるで見てきたように言うんだな。ならば、地獄の方が俺に似合いだろう?」
「いいや? お前のような者にこそ、ダークネスの世界は必要さ」
 甘い囁き。そのダークネスの世界とやらも、彼の声音と同じくらい甘美な景色が広がっているのだろうか。だが生憎と、俺は甘いものは好まない。
「その手を取らなかったら?」
「取るさ。お前なら」
 片方の可能性が潰える。
「外堀はとうに埋められた、か……」
 いつの間にか、俺は追い詰められていたらしい。
 宗教の勧誘とは、周到に絶望を突きつけて逃げ道を塞ぐことだ。無限の可能性に満ちているはずだったレールの全てが、実は地獄への片道切符であると錯覚させる。そして八方塞がりだと思わせたところで新たなレールを敷く。これならば希望へ行くことができる、この道こそが救済だと甘い言葉を並べて、彼らが信じる神の許へ誘導するのだ。
 俺はとうに、彼から新たなレールの提示を受けていたらしい。やられたな、と思わず笑みが零れる。足を取られていたことに気付かなかったのは迂闊だった。恐らく弟の記憶にノイズが走り出す頃には、もう手遅れだったのだろう。俺に状況を打開する術はない。剣を持てなくなった俺に、その資格もない。
 だが、吹雪ともう一人――この異変に立ち向かえる者の名前はまだ思い出せる。つまり、アイツはまだここに存在しているということだ。何もできない俺にできることは、ただ現状を受け入れて待つだけ。それが、アイツにどれほどの益となるかは知る由もないが。
「ひとつ、いいか?」
「なんだ」
「お前の、その仮面を外してくれないか」
「なんだと?」
 待つだけならこの後でもできる。これまでの彼の口振りから察するに、死ぬ訳ではないのだろう。だが〝感情をひとつにする〟と説明を受けた際に浮かんだビジョンは〝個の消失〟だった。丸藤亮という個体を示すものはことごとく分解され、液状に変わって攪拌されるのだろう。広大な汚泥のひとつに加わった俺は、肉親の記憶も、親友の記憶も、ましてやデュエルの記憶すらもその一部となって溶けていく。俺が覚えている必要はない。記憶を保持することそのものが、彼の世界にとって非合理的だからだ。
 彼は「どうせすぐに忘れるのにか?」と肩を揺らした。俺が口にした要望が、酷く滑稽に聞こえたらしい。嗚呼そうだ。お前の素顔を見る行為に意味はない。だがそれでも、この過程を経て僅かにも残るであろう痕跡が、俺には必要だった。
「お前との再会を果たした、という事実を刻んでおきたい」
 忘れることと無くすことは同義ではない。何年もの間、お前の喪失に違和感を覚えていたことがその証左だ。
「……いいだろう。どうせそんな無意味な願望すら、抱くこともなくなるからな」
 彼の両手が自身の顔にかかる。覆うように仮面を持ち、ゆっくりと外していく。
 若草色の猫っ毛に覆われた相貌が顕わになる。白い額、細い眉。そして、長い睫に覆われた藤紫色の瞳。照明を失った宝石のようなそれが、仄暗く俺をみつめている。

 ずっと引っかかっていた小骨が、するりと落ちていく。やっと――

「ようやく、思い出せた……」
 ふじわら。

 カーテンの布が大きく膨らんだ。

 終幕。