灯台のようなお前は「明けない夜はない」と言った - 3/3

 変貌した日常とは、日常になりすますために入れ替わった非日常だった。

 亮と吹雪がふたりきりになれる場所は限られている。この島に来る前から、ふたりの顔と名前は一部の生徒には知られていたからだ。
 デュエル・アカデミアには初等部から高等部まであり、高等部であるこの島に在籍している生徒の中には初等部から、あるいは中等部からずっと学んできた者も多い。吹雪は初等部から、亮は中等部からの生徒で、お互いに、デュエル技能が抜きん出ていたことから同輩以外からも顔が割れていた。
 やがて高等部へ進学し、噂を聞きつけた先輩や高等部から新しく入学した新顔などがふたりの周囲に集まるのは当然の帰結だった。
 この状況に対し、吹雪は持ち前の社交性で難なくいなしていたが、亮はそうではなかった。我が道を行き、周囲と深く関わろうとしない性質から人波の捌き方を知らず、囲まれたまま身動きが取れなくなることがしばしばあった。
 やがて人疲れを覚えるようになった亮は、エリート主義的な校風故に誰も寄りつかないオシリス・レッド寮付近のエリアに逃げ込むようになる。
 それが、港の外れに立つ灯台だった。
 そんな亮の傍らにはいつも吹雪がいた。連れ戻すような真似はせず、普段の姦しさを引っ込めて、ただ静かに亮の気が済むまで寄り添う。長年の付き合いから、へつらうような人付き合いが苦手だと知っているからだ。
 風に吹かれながら、一切の邪魔を気にすることなく、ふたりで過ごせる場所。水平線の揺らぎを眺め、沈む太陽に目を細め、上空を揺蕩うカモメの数を数える。言葉少なに過ごすこの無為な時間は、島に上陸してからまだ八ヶ月しか経っていないが、亮にとって最も尊いものだった。
 そしてそれは、残りの二年も同じように続くものだと思っていた。

   ◆

 雀が鳴いている。遮光カーテンから漏れる朝日を瞼で感じ、目が覚めた。サイドテーブルに置いた目覚まし時計へもそもそと手を伸ばすと、デジタルモニターは七時を示していた。いつもより一時間以上遅い。朝食の時間はとうに始まっていた。
 珍しい朝寝坊に、普通なら飛び起きるところだが、身体はしつこく起床を拒否していた。いつまで惰眠を貪るつもりだ、と自らを叱責して何とかベッドから脱出する。
 のろのろと、普段の倍時間をかけて身支度を進めてゆく。カーテンを開け、白い制服に着替え、跳ねた髪を撫で付ける。食事はまだ残っているだろうかとぼんやり考える亮の背中を、妙に鈍い焦燥が押す。時計が七時二十分を示す頃になり、ようやく部屋を出た。

 食堂へ降りる。酷く閑散とした景色に、思わず足が止まった。始業は八時だが、まだ幾分はやい時間にも関わらずひとりも生徒の姿がない。あり得ない話ではないが、不自然な光景だと思った。とにかく、ギリギリ間に合った朝食を受け取り、適当な端の席につく。何故か味が判らず、殆ど食が進まなかった。

 七時五十分。ようやく教室に辿り着く。
 しかし、誰もいない。時間を間違えたのか、あるいは入る教室を間違えたのか。様々な可能性に亮は頭を悩ませる。しかしPDAの時刻も正しければ、教室内の掲示物も馴染みがあるため、その可能性は早々に捨てた。
 自分の席へ向かい、座る。暫くぼんやりするも、刻限になっても始業する気配がない。仕方なく持ち込んだ文庫本を取り出して時間を潰す。他の生徒が自習する音や、控えめな談笑の声をBGMに、亮の意識は早々に活字の世界へ吸い込まれていった。

 何度目かのチャイムを聞き、我に返る。教室の壁にかかった時計を見遣ると、時刻は昼が近いことを示していた。これまで何もなかったことに驚く。
 あと一時間もすれば購買で吹雪が待っている。隣の席へ視線を落とせば親友の姿はなかった。亮を置いて行ったのか、あるいは最初から来ていないのか、判断がつかない。周囲を見渡しても、人の賑わいから程遠い景色が広がっている。やはり置いて行かれてしまったのか。
 ――ちがう。
 不意に慟哭染みた声が脳裏を過り、消えた。はて、何が違うんだったか。早々に蓋をして席を立つ。
 荷物を取りに一旦帰寮する。

 やけに軽いボストンバッグを手に、待ち合わせの購買へ向かった。
 この時間帯はドローパン目当ての人だかりができていたり、テーブルに並んだ売れ筋パックを手に取る人がいたりして賑わっている頃だ。イートインスペースではカードを広げて新作コンボを考えたり、買った飲み物を手に談笑に興じていたりして活気に溢れている。今日は卒業式だから、そんな喧噪の中心で自分を待っているだろう親友の姿を夢想して、足早に自動ドアを潜る。
 だが――
「…………?」
 疎ら。忽然と消失でもしたかのように。
 やけに見晴らしのよくなった店内に、目当ての人物の姿はどこにもなかった。
「ッ……」
 ちくりと胸が痛む。
 ――当たり前だろう。
 またしても過った声。今度は非難に近く攻撃的で、胸痛が呼吸を阻害する。肺を膨らませようと口を開けてみたが、上手くいかない。
 やがて出入り口付近で突っ立っている亮を不審に思った購買の職員が、不審げに一瞥しながら脇を通り過ぎて行く。
 それっきり購買には、レジ担当の店員を残して誰もいなくなった。

   ◆

 潮気を含んだ風が髪を攫っていこうとする。それは港の奥、灯台の先端へ進むにつれて強くなっていく。
 風は手招きしていた。穏やかに揺蕩う海の底へ、あるいはどこまでも広がる水平線の向こう側へ。じっとりと生温い甘言を囁きながら、手を引くように髪を弄んだ。
 何もかも勘違いしたまま半日を過ごした亮を哀れむかのように。

 定期便のダイヤは昨日と違っていた。十三時出航から逆算して三十分ほど早めに到着しても、出航五分前になっても、出航時刻を過ぎても、船は現れなかった。
 当たり前だ。どれだけ昨日のスケジュールを忠実に再現したところで、今日は昨日にならない。世界は今日の歯車で回っているのだから、噛み合うはずがないのだ。
 ――ようやく気が付いたのか。
 頭の中で亮と同じ声が嗤う。余りにも愚かな半日だと、海面に浮かび上がる水鏡がくつくつと薄笑いを浮かべているように見えた。

 足下に鞄を置き、何の目的もなく水平線を眺める。染みる陽光も、寄せては返す音も、揺れる海原も、何一つ変わらない。感傷に浸るほど時が経っている訳でもないのに、この景色はやけに色褪せて見えた。いつも隣に立っていた存在を失った程度で、心とはかくも脆弱なものだろうか。
 コンクリートの塔に背中を預ける。限界を訴えていた両足に鞭打って、気合いで立ち続けた。立っていなければ、眼前の青へ身を投げて沈みたい衝動に駆られそうになる。痛みの引かぬ心臓。外傷ではないから、具体的な患部を見付けることができない。
 故に、これの対処のし方が亮には判らなかった。
 セピアを戴く彼ならば、きっとすぐに答えを導き出して指し示してくれただろう。いなくなって初めて、どれだけ依存していたのかを理解した。

「……亮?」

「……ッ……!?」
 途方に暮れる亮の背筋に骨を差し込むような、そんな凜然とした声が鼓膜を叩いた。本来であればここにいるはずのない、しかしつい数ヶ月前までよく聞いていた馴染みある少女の声。
「……あ、すか……」
「ああ、よかった。人違いだったらどうしようかと思っていたわ」
 何故ここにいるんだ、とは聞けなかった。明日香は面食らう亮に少しだけ表情を曇らせつつも、安堵の溜め息を吐きながら近付いてきた。亮の隣に立ち、何も言わず同じ方向を眺める。
 びゅう、と汐風が鳴いた。視界の端では鈍く艶めいた金糸が揺れる。長い髪。髪質はとてもよく似ているが、焦がれているものとは違う。親友の面影を残した彼女の存在は亮の心の間隙を埋めるには至らない。誰も代わりなど務まらないことなど、解りきっていた。
 人の温もりは感じるのに、虚しさが募る。
 亮は「自分のことは放っておいてくれ」とは言えなかった。
「昨日の夕方にね、鮫島校長から連絡があったの」
 虹彩の異なる二対の瞳には、同じ水平線が揺らいでいる。それをぼんやりと眺めながら、明日香は少しだけ緊張した声音でぽつりと零した。もう少しだけ具体的に話を聞き出そうと亮が視線を動かしたところで――やっと気が付く。
「吹雪兄さんが、行方不明だって……」
  明日香の目はうっすらと赤く充血していた。
「だから、詳しい説明を受けるために母とここへ来たの。私の実家は童実野町と近いから、ダイヤさえ合えば割とすぐに来られるのよ」
 母さんは今頃校長室ね、とぎこちない笑顔。気丈さを保とうとする声。それらはすぐに逸らされ、再び水平線に向かう。何も言葉を発しない亮の態度を察した明日香が、目を細めて「知っていたのね」と言った。
「……本当なら、アナタは兄さんと一緒に家に来て、観光でもしているはずだった……」
 そうだな。具体的なプランは聞かされていなかったが、アイツのことだ。きっと計画していただろう。
 亮の頭に浮かんだ科白は、何一つとして舌に乗ることはなかった。
「どうして……兄さんが……」
 涙声。震えるその肩にすら、触れられない。
「すまない、オレは……アイツに何もしてやれなかった」
 嗚呼なんて、無力なのだろう。
「そんなことないわ。亮にはいつも助けられてるって、兄さんも言ってた……」
「吹雪が? まさか、そんな……」
「ふふっ、本当よ。兄さんったら、連絡をくれる度にアナタの話をするの。それも毎回。……口癖のようだったわ」
 焼け付くような日差しが徐々に傾きだした。太陽がふたりの眼前に向かって落ちてゆく。西日、というには早い時刻だが、亮は既に眩さを覚えていた。
 網膜を焦がすほどの、光。
 ひかり――
「……二日前、ここで吹雪に言われたことがあった」
 さっきまでは何をしても口を突くことはなかったのに、この科白だけはすんなりと出てきた。驚いて一旦口を噤んだ亮の視界の端には、同じく驚きで目を見開く明日香の姿があった。亮は小さく深呼吸をして言葉を続ける。
「曰くオレは、そこの灯台に似ているらしい」
 記憶の糸を辿るように紡ぐ。
「何を思ってそう感じたのかは知らないが、模範的らしいオレの風采が灯台を連想させたそうだ。オレからすれば、周囲に人が絶えない吹雪の方こそ、灯台に相応しいというのにな」
「それはきっと、人の数は重要じゃないからよ」
 そんな訳はない、と反論したい気持ちを押し殺して、亮は明日香の補足に形ばかりの肯定をした。哲学に明るくない自分がいくら粗を指摘したところで、幼子の疑問と同義だと諦めているからだ。まして、吹雪の肉親である彼女が否と答えれば、それは否に限りなく近くなる。無駄なのだ。
 しかし結局亮の口から零れたのは、自虐にもにた理論の否定だった。
「だが過ぎた評価だ。灯台は、人がそこを道標としたいから立っている。つまり周囲に人の絶えない吹雪を必要とする者はいても、オレを必要とする人間は……それこそ、吹雪くらいなものだろう」
 亮からすれば、自分が必要だという人間はこの学園にいないと考えていた。そもそもそういった関係性を必要としていないからだ。
 自分はただ、己のデュエル技術を磨きたくてこの学園に来ただけ。誰かの前に立ち、誰かの標となるなど――
「亮にしては珍しく、悲観的なことを言うのね」
 沈んでしまいたかった思考の海から引き上げられた。
「そうか……?」
「鈍いから気が付いていないだけよ。今のアナタ、とても暗い顔をしてる」
 やけにピタリと嵌まった感情のピースにハッとなり、思わず顔を向ける。ぎこちなさは相変わらずだが、亮の胸に燻るそれを言い当てた明日香の表情には笑みがあった。
 そこでふと疑問が湧く。
 何故、彼女は笑っていられるのだろう。
 明日香は小さな深呼吸をしてから「そうね」と零した。
「確かに、アナタの理屈で考えれば兄さんの方が適任だわ。でも兄さんは……天上院吹雪は、ひたむきにデュエルと向き合う亮の姿に、灯台のような光を見出したんじゃないかしら?」
 風が明日香の髪を攫おうと吹いた。それを留めるように、自身の耳許に手を伸ばす。
「そんなアナタの姿は、きっと多くの生徒にとって羨望の的よ。私も例外じゃない。眩しいくらいの憧れがアナタに向いているの。知ってる? アナタが中等部でなんて呼ばれていたか」
 帝王――〝カイザー〟なんて渾名がついてたのよ。
 そう口にする明日香は、さも可笑しいとばかりに肩を震わせた。
「大層な名前だと思わない? でもそれが事実なのよ。アナタは不必要とされてるんじゃない。憧れの的なのよ」
「何かの間違いじゃないのか?」
「あら、どうしてそう思うの?」
「オレは、デュエルしかしていない。意識して誰かにそういった姿を見せた覚えは……」
「それでいいのよ。亮は亮のままで」
「……ッ!?」
 二日前の遣り取りがフラッシュバックする。同じ場所で同じ海を眺めていたとき、吹雪が亮に言った科白だった。
 亮は亮のままで。
 そうすれば、キミは周囲の模範となるからと。
「アナタがアナタらしくあるだけで、周囲はその背中を道標に歩くの。気負う必要なんてないわ」
 明日香の言葉が吹雪の声と重なって聞こえる。しかし亮は今、あんかいの海を彷徨う船乗りのように標を失い、どこにいるのか、どこへ行けばいいのか、迷っていた。とても誰かの前を歩けるような状態ではない。
 亮は、いつも自分の手を引いてくれる存在を思い返した。太陽のような笑顔。断らないのを知っている彼は半ば強引に亮の手を取り、共に歩いてくれた。別にひとりでもよかったのに、気付けば隣には吹雪がいて、いつしかそれが当たり前になっていた。ひとりのときは、無意識に探している自分がいた。
 それが亮にとっての灯台――天上院吹雪であった。
「……寂しいわね」
 胸に空いた穴に名前が付いた。それにより、ずっと無視し続けていた痛みが、じわりと亮の神経を蝕んでゆく。
「それに、兄さんったら本当に酷い人ね。亮を置いてどこかへ行ってしまうなんて。戻ってきたら叱ってやるんだから。私や亮を置き去りに、どこへ行ってたのよ、って」
「…………」
「兄さんとの約束を果たそうとしたアナタを迷わせたんだから、それくらいの罰は受けてもらうわ。亮も、兄さんが戻ってきたらうんと叱ってやってちょうだい」
「だがもしかしたら、何者かに誘拐されているかも知れない」
 亮は、明日香が何故こんなにもしっかりと立っていられるのか解らなかった。
「ふふっ。こんな外と隔絶されている島で、どうやって人攫いができるのよ。兄さんを甘やかさないで」
 気丈な態度。曇ることのない声。
 彼女の胸には亮以上に大きな風穴を空けられているはずだというのに、そんな素振りは微塵も見せない。
 だが不意に、薄らと赤らんだ瞼が視界に映る。そうだ。そんな訳がない。赤の他人である自分がこれだけの喪失感を味わってるのだから、明日香はそれ以上なはずなのだ。
「……っ!」
 そして、目が合う。吹雪よりも薄い虹彩。だが星の煌めきのような眼光はとてもよく似ていると思った。
 射止められている。射貫かれている。まるで、咎められているかのような居たたまれなさを覚える。
 亮は思わず「オレはどうしたらいい?」と問うてしまった。その突飛な科白に、明日香も面食らう。
 明日香は一度目を伏せ、静かに一言「明けない夜はない」と口にした。
「兄さんの口癖だったわ。どんなに絶望的でも、どんなに悲しみが深くても、時が経てば必ず晴れる。迷っていても、光を示してくれる存在には必ず出会える。だから今、自分に降りかかっている苦境は幸せの予兆なんだ、って」
 閉ざされていた瞼が今一度開かれる。意思の強さは変わらない。だが胸に深い哀切を湛えた、そんな複雑な微笑だった。
「今の状況を楽観視できるほど、私は強くないわ。でも、兄さんの言葉を胸に前を向くことはできる。この言葉のお陰で、私は投げやりにならずに立ち続けることができるの。大丈夫。兄さんはきっとこの島にいる。必ず見付けてみせるわ。今はまだ島の外だからできることは少ないけれど、私も協力するから……一緒に、吹雪兄さんを探しましょう」
 決意を込めて明日香は亮に言った。儚げな微笑も、悲嘆に暮れる涙声も何もかも捨てて、確たる眼差しで亮を射止めた。
「ああ……そうだな」
 肉親であるお前がこれだけ決意しているというのに、自分は何をしていたのだろう。
 元々は他人であったオレは、吹雪のお陰で親友の座に座らせて貰ってる。ならば、オレが取るべき行動はひとつではないか。
 亮の面差しに僅かな光が戻る。
「オレの方こそお前に協力させてくれ。届くかは判らないが、吹雪が見付かるまで、吹雪がオレを見付けるまで……オレは闇に光を当て続けよう」

 傾いた陽は徐々に水平線の下へ潜ってゆく。この日最後の灯火と言わんばかりに放つ光はまるで飛沫のようにあかい。海も大地も空も、たちまちその色に染まっていった。
 そして間もなく、太陽を失った空は群青に変わる。
 船は航路を見失い、人は行き先を見失う。
 けれど、建物の明かりが亮達を手招くように、灯台が周囲を照らすことで船乗り達は海を渡ることができるのだ。
 きっと吹雪は今、航路すら見当たらないあんかいな海を彷徨っているだろう。帰りたいだろうに、帰り方が判らないでいる。
 ならば自分が灯台の代わりとなることで、その一助となるなら――

 オレは、オレのままであり続けよう。