有機物のバグ

 兄を無機物に変えた日。

 仕事からの帰路にて、僕は少しだけ道を逸れる。住宅街に囲まれた総合スーパーの三階にある本屋へ立ち寄るためだ。閉館も近い店内は、客はおろか店員すらも疎らで、誰も僕を見て騒ぎ立てる者などいやしない。
 経営と資金繰りの知識を得るため、参考書や指南書を探す。時折インパクトあるキャッチフレーズで僕の気を引こうとする自己啓発本に足が止まったが、余りにも眩しすぎる字面から早々に立ち去った。目的の棚に辿り着いたら、することはひとつ。求める知識にまで導いてくれる一冊を探すのだ。
 通い詰めすぎたこの棚に、見たことのない表紙はほとんどない。買っては読み、実践する。けれど上手く応用できないと判断すると次の本を探す。そうやって隙間を埋めていく家の本棚は、さながら参考書の墓場である。一丁前に付箋ばかりが貼られてろくに使い込まれもしなかった哀れな亡骸。ごめんね、僕の読解力じゃキミを理解するのは難しかったみたい。そんなことをのたまいながら、臭いものに蓋をするように、棚の中へ押し込んでいく。内容が理解できないのは自分の知識が足りないからだと言い聞かせ、懲りずに新しい書籍に手を出す。これで何度目か、もう覚えていない。
 結局目新しいものは見付からず、落胆に肩を落としながらしずしずと本屋を後にする。兄さんが待っているから早く帰ろう。取って付けたような言い訳が首をもたげた。
 本屋の隣はおもちゃ売り場だ。通路沿いには特撮ヒーローの変身グッズや、やたらと精巧なままごとセットがズラリと並んでいる。自分も小さい頃は「みんなが持っているから」という理由で、ヒーローが乗る車が欲しいと駄々を捏ねたっけ。子供の好むものはきっと、今も昔も変わらないのだろう。
 ふと、ある一角に目が留まった。奥の陳列、プラモデルが並ぶ棚の隣にぽつんと鎮座する薄汚れたデモ機。近頃大人を中心に流行っていると話題の愛玩用ロボットだった。
 丸い顔、丸い目、丸いからだ。曲線のみで構成された愛らしい姿は、宝石のような青っぽい瞳を煌めかせて僕を見上げている。今にも泣き出しそうな眼差し。見つめ返す時間が長くなればなるほど、胸の奥がつきりと痛む。
 きゅう、とロボットが鳴いた。子犬が孤独を訴えるような鳴声だ。足代わりの車輪を転がして、ころころとにじり寄ってくる。けれど、脱走防止のために並ぶブロックがロボットの足を止めた。
 なんだよ。おまえ、そんなにここから出たいのか。思わず話しかけてしまうと、ロボットはこれ幸いにとばかりに鳴き続けた。機械のくせに情に訴えかけてくるだなんて案外あざとい。人工の脳だが自覚しているのだ。養育者たる人間の手がなければ自分は存在できないということを。愛玩されるために生まれたのだから。なんて単純で、わかりやすいのだろう。
 これだけ明解なら多少鬱陶しく感じることはあっても、なにひとつ読み取れなくて路頭に迷うことはない。僕の帰りを待つ兄は、入浴すらままならない癖にさも自分でできるみたいな顔をする。やってもらって当たり前という顔よりずっと質が悪い。心配性だなと苦笑して、そして失敗するのだ。謝罪なんていらないのに。ただ二度手間だってことに気付いてほしいのに。
 これから眼前のロボットにするみたいに見捨てられればよかった。自分でできるんでしょ。僕はもう見てられないよ。そう言って踵を返して去れればどんなによかったか。兄と肩を並べる未来をずっと夢見ていた僕に、生きる希望ともいえるそれを蹴って別の夢を探す体力など残っていない。別の選択肢を生み出す力のない僕に、兄とロボットの両方を棄てる決断なんて下せるわけがないのだ。
 睨み合いを続ける僕はスラックスの裾を握りしめる。ポケットを叩いても、透明な檻に繋がれたそれを担ぎ出すことはできない。自分の無力さを自覚した後は簡単だ。このまま何事もなかったかのように立ち去ればいい。
 ロボットに背を向ける。先ほどより悲痛さを増した音が僕の背中を叩いている。後ろ髪を引かれる思いというのは、きっとこのことを指すのだろう。振り向きたい衝動を必死に抑えて、小さく謝罪の句を落とした。
 閉店時刻を知らせる音楽を耳にして、そこでようやく長居してしまっていることに気が付いた。早く帰らなければ、兄さんが待っている。言い訳が脅迫に変わり、全身に緊張が走り始めた。小走りでおもちゃコーナーを離れ、一直線に店の出口へと向かう。

「僕には兄さんがいるから」

 退店直後、不意に脳裏を過った科白に一瞬だけ呼吸ができなくなった。思わず立ち止まり、胸を押さえる。
 その頃には自分が何を考えていたのか忘れていた。