流れる血の色を、君は知らない

「翔はどうした」
 夜、夕食を終えて間もなく見舞いに来た僕を見て、亮は開口一番にそう言った。
「その翔くんから何も聞いてないのかい?」
 思わずそう返してしまったが、普段から周到な彼が予定を把握していないのは珍しい。腰に手を当てながら、イキナリご挨拶だなあと、苦い笑みが込み上げてくる。僕の質問返しに亮は瞬きをひとつすると、身を捩ってサイドテーブルに手を伸ばした。ぽつんと忘れ置かれていた携帯電話を広げ、ポチポチと親指を動かす。そして目的の表示を見つけると、あ、と小さく息を呑むのが聞こえた。
「すまない、失念していた」
 眉間に皺が寄っている。やがて自らを落ち着けるかのように息を吐いた。端末を折りたたみ、元の机上に戻す。
「構わないよ。それで、もう行けそうかい?」
「ああ、準備はできている」
 僕はテーブルの下部に取り付いている棚の元へ向かい、亮に示された引き出しを開けた。中には石鹸類と着替えが纏められた鞄が入っている。それを取り出し、車椅子を呼ぶためにナースコールを押した。

   ◆

 亮曰く、シャワールームへ向かうこと自体は自力でできるらしい。それを聞いた僕は、少し前に「勝手に病室を抜け出して海岸でデュエルをしてたんスよ」とぼやいていた翔くんの顔を思い出す。じゃあどうして車椅子なのかと尋ねたら、亮は心臓の機能がまだ回復していないからだと答えてくれた。短距離の移動でも動けなくなる可能性があるらしい。そこまでわかっているならもう少し安静にしていればいいのにと思ったけれど、たぶん彼は、療養中の過ごし方を知らない。

 脱衣所に辿り着くと、僕が車椅子のストッパーをかける前に亮は立ち上がった。籠の前に立ち、鞄の中身をその中へ出していく。記憶よりは緩慢でありながらも、おおよそ病人とは思えない滑らかな動き。出し終えたら、籠の下に備え付けてあるバスタオルをひとつ取って着替えの上に乗せた。
 黙々と服を脱いでいく亮の背中を眺めながら、僕はやれやれと肩を竦める。行き場を失った手は未だ車椅子のハンドルにかかっていて、握ったり離したりを繰り返す。そういえばコレ、畳んだ方がいいのかな? と疑問が湧いて顔を上げたら、利用者は既にシャワールームの中に籠もってしまっていた。仕方なく、口を開けたままのシートに腰掛けて待つことにする。
 サラサラと流れる水音に耳を傾けながら頬杖をつく。暇つぶしに本でも持ってこればよかったかなあなんて考えもしたけれど、今更取りに寮へ戻る気にはならなかった。亮は烏の行水だから、すぐに出てくるだろう。
 けれど、待てど暮らせど一向に姿を表す気配はない。シャワーの水は絶えず流れたまま。僕がせっかちなのか、退屈が時の流れを鈍くしているのか、判断がつかない。あるいは――
「……っ!?」
 最悪の静止画が脳裏を過った瞬間、ハッと息を呑んで立ち上がる。すると、ほとんど同時期にシャワールームの扉が開いて、全身ずぶ濡れになった亮がようやく現れた。彼は僕の姿を捉えると、僅かに面食らったような表情で立ち尽くす。
「どうした」
「あ……」
 よほど僕は酷い顔をしているらしく、発された亮の声がぎこちない。馬鹿正直に「君が倒れたんじゃないかと思った」だなんて口にできるはずがなかった。僕はどうにか笑みを貼り付けて「何でもないよ」と濁す。見え透いた隠し事などお互いに理解している。それでも、眼前の彼がそれ以上の詮索をしないことも知っているのだ。
「身体、拭こうか?」
「自分でやれる」
 ほら。こうして話題をすり替えてやれば、もうなかったことになる。そうやって、僕は彼の思慮深さにつけ込むのだ。
 亮は籠の上に置いておいたバスタオルを広げて被った。ガシガシと拭いていく手つきは、繊細そうな見た目と違って豪快だ。至って健康そうに感じるが、筋肉と血色は記憶より随分と落ちており、少し頼りない。死の世界を垣間見た彼の肢体は、そんな儚げな匂いを立ち上らせていた。けれど、四肢を拘束するかのように走る火傷痕を目にすると、別の感慨が染み込んでくる。
「亮」
 僕の声に彼の手が止まる。伏せていた顔が上がり、澄んだ碧色が僕を射止めた。
「さわってもいいかい?」
「何をだ」
 僕は人差し指を立てた右手を持ち上げる。
「それ……」
 この指先の軌道は正しく伝わっただろうか。一抹の不安が、僕の咽喉を固めてくる。けれど碌に紡げなかった言葉を、亮はきちんと掬い上げてくれた。「ああ、構わない」と、右肘を掲げて僕に突き出す。
 許しを得ると、僕は恐る恐る近付いた。思えば亮の裸を見るのは久し振りであることに気付く。多分、彼の卒業以来初めてだろう。ある程度の距離で立ち止まると、臆病風に吹かれた指先が色素沈着を起こしている二の腕をなぞった。
「……痛むかい?」
「いや」
 突っ張った膜のような感触。気のせいかも知れないが、無傷の皮膚よりも柔らかい。うっかり破いてしまわないよう細心の注意を払って触れる僕の手つきがくすぐったいのか、亮は僅かに身を強張らせた。
 亮の四肢に走る傷跡は、よく見るとまるで迷彩柄のような層ができている。それは、彼が同じ場所に何度も傷を受けていることの証左だった。どこでこしらえてきたかなど考えるまでもない。
 二の腕から視線を上げれば、次に目に留まったのは首だ。亮の気道を塞ぐように、あるいは亮の活動を制限するかのように、ぐるりと走っている。
 首輪さながらだと思った。本人はどう思ってそれを身に付けていたのか知る由もないが、きっと想像通りの見た目をしていただろう。断片的に話してもらった地下デュエルの印象は、ハッキリ言って悪い。人間を見世物にする催しに碌なものはないからだ。檻に繋がれたライオンが火の輪をくぐらされる姿を見て滑稽だと笑うほどに、異常な光景だったのではないだろうか。そして、そんな狂人達の晒し者にされても、亮は変わらず自らの欲求を満たすためのデュエルを続けたのだろう。
 たった独りで、観衆の理想的なシチュエーションを演じながら。
「ふぶ、き」
 亮の喉仏がひくりと痙攣した。堪らなくなった僕は彼の首筋に手を置き、その体温を掌で感じた。湯上がりのお陰か、彼の脈拍を感じた気がする。当たり前だ。丸藤亮は、生きているのだから。
「亮、この傷を受けているとき、どんな感じだった?」
 それは何となく口を突いた科白だった。途端に、後悔と自己嫌悪に鳩尾を鷲掴みされて息ができなくなる。どうしてか撤回する気になれず、僕は静かに彼からの言葉を待つ。
 亮は僅かに目を見開いた。けれどすぐに、僕の背後にある壁へと視線を逸らす。考え事をするとき、彼は遠くを眺める癖がある。
 やがて「そうだな」と切り出すと、温度を失った声が壁に向かって吐き出された。

まだ生きている・・・・・・・と……そう思った」

 僕とは似て非なる見解。半ば予想していたとはいえ、その答えに適切な行動がわからない。どうして僕の目を見ないのだろう。本当は僕に向かって吐き出されたものではないのではないか。けれど逃げたくなる現実を突きつけてきたのは、無機質な脱衣所の静けさだった。
 親友の苦しみを肩代わりすることのできない僕は、ただ黙って抱きしめるしかなかった。