朝食を食べ逃した朝、チェックアウト前に起きる僕ら。
「ねぇーサリエリー! この大量のお土産はどの鞄にいれるんだよー!」
慌てて着替えを済ませると、色んな液体でぐちゃぐちゃな布団を部屋の隅に押しやった。
そしてバタバタとけたたましい音を立てて、僕は今荷造りをしている。
なんで一人称なのかというと、パートナーのサリエリは、絶賛腹下し中だからだ。
「それもこれも貴様のせいだぞアマデウス! こんなところまで来て猿みたいに盛る奴があるかッ! ……うっ」
「だからそれについてはちゃんと謝っただろ!? そもそも僕はそれよりも前から怒ってるんだからね!」
「知るかッ。訳も解らず詰め寄られてレイプされて……挙句の果てに〝謝れ〟と言われた側の気持ちが、貴様に解るか! ……ぅぐ」
「なんだよそれ! それじゃあまるで僕が全面的に悪いみたいじゃないか! ああほら、まだ真っ青なんだからトイレから出てくるなよ」
「五月蠅い黙れ……! 貴様ひとりにやらせたままでは飛行機の時刻に間に合わなくなる……っう」
よろよろと覚束ない足取りで僕に近付くが、それも道半ばで崩れ落ちてしまった。腹と口元を抑えて蹲る姿が痛々しい。
慌てて水を持って駆け寄ると、思い切りひったくられた。そして一気に呷るサリエリを、僕は呆然と眺める。
深呼吸してしばらくすると、どうやら多少は落ち着いたらしい。コップを受け取って適当な場所に置き、荷造りを再開した。
「……失礼いたします」
それから少しもしない内に、来訪を告げる声が聞こえた。慌てて布団を隠して返事をすると、一拍置いてフスマが開く。訪ねてきたのはオカミだった。
「あ、ごめんなさい。まだ準備がおわってないんだ」
実は僕もこの国の言葉は多少喋れる。ダウンしているサリエリに代わって彼女に謝罪すると、意外にも来訪の理由はそうではないと告げられた。
「違うんです。実は、あなた方にお詫びしなくてはならないことがありまして……」
「へ?」
一体どういうことなのだろう。確かに僕もサリエリも怒ってはいるが、それは別にこの旅館の対応についてじゃない。極めて個人的な理由だ。
「えっと……なにかあったっけ?」
言いにくそうに口ごもるオカミに思わず急かすよう言ってしまう。
すると、彼女は意を決したように呼吸を整え、口を開いた。
「実はこの部屋は、代々〝恋人〟以上の関係のお客様をお泊めしてはいけないという決まりがあるのです」
オカミの話はこうだ。
それはこの旅館が営業を始めて間もない頃。今ほどではないが、まだ客の入りが少なかった時、ある一組の男女のカップルが宿泊に来たのだそうだ。
僕らと同じ一泊の短期宿泊。目的はあの〝椿〟だった。
椿はここが始まる前からあった。その立派さは当時から目を見張るものがあり、所有者たる地主はここを目玉に旅館を建てたのだそうだ。
カップルに用意された部屋は〝
カップルは大層喜んだ。特に、一番の目玉である内庭の椿は、昼と夜の二回に分けて散策したのだそうだ。
翌朝、部屋から出てきたのは男だけだった。ひとりの従業員が「相手様はいかがしたのか」と問うも「知らない」「そんな者はいない」と答えたらしい。「いい旅館だった」と満足げに、何食わぬ顔で帰って行ったのだそうだ。
そんな出来事が一度では飽き足らず、他の客も、また他の客も、あの部屋に泊まった〝恋人〟以上のふたり組は軒並み片方が失踪してしまうという怪異に見舞われるようになってしまった。
それもほとんどは、女の方が消え、男の方はその事実を認識していない。
「……それ以降、この部屋にはそういった関係以上のお客様をお泊めすることはご法度なのです」
昔話を終えて、肩の緊張を解く。どうやらその間にサリエリは復活したらしく、途中から話に加わっていた。
「なるほど……。ですが、なぜその話をわたしたちに?」
「それは……昨夕、当館の従業員があなたとお話しなさっているところを聞いてしまいまして」
さくゆう――きっと昨日の夕方って意味だ。
確か、あの若い従業員に着直してもらっていたときだ。ならサリエリだけが指摘されたとなると――
「サリエリ、昨日あの娘に僕らのこと何て言ったのさ?」
「ん? どういう関係かと聞かれたから〝一緒に住んでいる関係だ〟と答えたが?」
おっとこれは、とても嫌な予感がしてきたぞ。
きょとんと首を傾げるサリエリを横目に、僕は恐る恐る、オカミに話の続きを促した。
「ええ、それで、あなた方への対応が終わった後、彼女は私に、お布団を近付けておくよう、言ったのです。この部屋の当番は私でしたから、必要な対応だと判断したのでしょう」
そうして、オカミは再び謝罪した。
正座している状態だったから、深々と頭を下げるとそれは必然と土下座の格好になる。
慌てて僕もサリエリも、顔を上げるように言って何とか落ち着かせた。
少し考えて、納得する。
あの時、彼女がどうして顔を真っ赤にしながらぎこちない対応を取っていたのか。
そして去り際、「布団をくっ付けなくちゃ」なんてことを口にしたのか。
僕はてっきり、サリエリに惚れ過ぎてうっかりやきもちで離してしまわないよう気を付けなければ、という自戒の呟きなのだとばかり思っていた。
「……なんだ、ただの誤解か……」
安堵に思わず口をついて出た台詞は、幸いにも誰に聞かれることはなかった。
けれど不意に飛び出してきたオカミの提案に、僕とサリエリの意識は一気にそちらへ向くことになる。
「それで……お詫びといっては何ですが、もしまだお時間があるようでしたらこちらで朝食を食べていかれませんか?」
それは願ってもないことだった。自業自得とはいえ、こんな状態では飛行機の前にどこかへ寄り道して食事を摂る気になどならなかったからだ。
僕らは二つ返事で了承した。すると、女将が後方へ声をかけると廊下で待機していたらしい他の従業員があの四つ足のトレイを持って入ってくる。その中にはあの女の子もいた。彼女はまた顔を赤くしている。
僕らは布団と同じく隅に寄せていた椅子を持って向かい合うように座ると、すぐ目の前に朝食が置かれた。
昨晩の豪華な夕食には程遠いが、ライスとスープを中心とした胃に優しいメニューの数々に、この旅館の細やかな気遣いを感じる。食事の時間やおかわり可能なメニューはどれかなどを簡単に説明してもらい、ついでにチェックアウトの時間も延ばしてもらう。最後に「ごゆっくり」という言葉を置いてオカミたちは出て行った。
さっきまでの大騒ぎが嘘みたいに静かになる。徐にハシへ手を伸ばし、食事を始める僕ら。ライスは少し冷えてしまっていたけれど、ミソのスープが温かくて、冷えた身体によく沁みた。
程なくして食事は終わった。そして体調が戻ったサリエリとふたりで荷造りを再開しようとしたその時、サリエリがポツリと呟く。
「……あのオカミの口振りだと、私とお前の関係がバレてしまった、ということになるのだな」
「あー、確かに……」
別に隠したかった訳じゃない。話す必要がなかったからそうしただけ。
けれどいざこうして第三者に知られてしまうと、なんとも言えない恥ずかしさを覚えた。顔が少しだけ火照り始めたように感じる。
ふとサリエリのことが気になって視線を動かすと、彼は顎に指を添えて思考に耽る素振りを見せていた。
「なるほど……だから布団をくっ付けるなどと彼女は言っていたのか……」
「何か気になるの?」
この状態のサリエリは、ちょっとやそっとの声掛けでは反応しない。僕は荷造りの手を止めて彼の顔を覗き込んだ。
案の定、今気が付いたという表情で僕を見る。彼は少しだけ言いにくそうに視線を彷徨わせていたけれど、一度ゆっくり瞬きしたのち、落ち着いた声が運び込まれてきた。
「ところでアマデウス、貴様は私の何に対して怒っていたのだ」
え、そこ? またその話題に戻るの?
僕は目が点になった。
「そういえば昨晩、〝君は僕のものだ〟などと言っていたな」
堰を切ったようにサリエリからの尋問は続く。徐々にヒートアップしているのか、問い詰める声が低くなっている。
対する僕は、ええと、だとか、それは、だとか、煮え切らない言葉ばかりが零れて何の言い訳もできないでいた。端正な顔が物凄い剣幕で迫り来るこの状況に、弁明の余地などない。
あまりにも釈然としないことばかり言う僕に痺れを切らしたサリエリは、遂に大きな溜め息をついてしまった。
「もしや貴様、あの女性に嫉妬していたな?」
「あーええーっと……はい」
呆れの混じった声で確信をもって問われる。ええそれはもうおっしゃる通りで。
僕は観念して項垂れた。
厳密に言えばそれだけではないのだけれど、そこはそれ。とにかく、サリエリに向けた怒りの原因を言い当てられた途端、羞恥に見舞われた僕は、なぜか敬語と共に謝罪までしてしまった。
これを聞いたサリエリはまたもや大きな溜め息をついた。流石にそれにはムッとして抗議したが、返ってきたのは意外な台詞だった。
「貴様のような奴と、好きでもなければ旅行になど行くものか」
火照ったと思った顔がいよいよ本格的に熱くなってくる。
僕の視線がサリエリから離れられないでいると、サリエリもまた自分の台詞に羞恥を覚えたのか、徐々に顔を赤らめてゆく。やがて、気恥ずかしさから目を逸らした。
互いに想い合っていたはずなのに、すれ違っていたのだ。
確かに僕も僕で、怒っているならきちんと口にした方がよかったし、その方がサリエリにも上手く想いが伝わっただろう。未だ合わせられないでいる視線はそのままに、僕はもう一度サリエリに「ごめん」と言った。
その言葉を聞いたサリエリも同じく、羞恥に揺れる瞳のまま「私も、すまなかった」と口にする。
ムズ痒い、けれども然程悪くない心地の静寂が、僕らを包んだ。