パラノイアは水槽に沈む ※R18G - 1/6

 水槽の中で漂う親友の下半身は魚だった。
 まるで棺桶のような六つ足の箱が、店の奥で鎮座している。爬虫類の鱗を思わせる金枠の装飾は、短辺の面に一つ、長辺の面に三つ、それぞれ楕円の窓を作っていた。水槽の中には錆び水よりも鮮烈な赤い水が張られている。そこで両腕を鎖に繋がれたサリエリは、ゆらゆらと眠っていた。
 店の地下。殆どの照明をその水槽に注がれたここは暗い。まるで劇場のスポットライトのようだと思った。とはいえ、こんな楽屋にも劣る汚い劇場など、どこにもありはしないのだけれど。天井は低いし、杜撰な管理で生き物を扱ってるせいか生臭い匂いが絶えず僕の胃を掻き回す。魚屋ですらしない匂いだ。きっとあの水も最初は綺麗な透明だったろうに、誰もそのことに気付かない。我欲に忠実な豚共は、そんな些末なことに気を回すだけの思考なんて持ち合わせていないのだ。吐き気がする。
 人魚のような姿にされたサリエリは、真っ二つにされた身体の縫い目から今も命を垂れ流している。僵尸であるため些か表現に語弊があるけれど、せっかく蘇らせた命を僕以外の馬の骨に絶たれそうになっていると思うと気が狂いそうだ。プラチナのように美しかった身体は水と混ざり合った自身の血液のせいで錆びて濁ってしまっている。全部コイツらのせいなのだ。ここにいる者全員を、店ごと殺してやりたい。きっとそこまでしなければ気が済まないだろう。寧ろそんな程度で収まる虫なのか、甚だ疑問だ。
(サリエリ……サリエリ)
 怪しまれてしまうから何とか必死に平静を装うも、名前を口にしたくて堪らない。たった数歩進んで目の前の水槽に手をかければすぐにでも触れられるのに、それができなくてもどかしい。胴体と雑に縫い合わせられた魚の下半身が傷だらけで、そこからも僅かに血が滲んでいるのが見て取れた。多分酷く暴れたのだと思われる。僵尸だから見た目以上に怪力でさぞ驚いただろう。僕とサリエリを繋ぐ魔力のパスが弱い。早く手当をしてやらなければ、本当に二度目の死を迎えてしまう。じり、と落ち着かない右脚が僅かに前へ出る。

「おおっ!」

 不意に水槽の水が大きく揺れた。少し大きめの気泡がごぽりと浮上すると、僕と並んで眺めていた客たちがざわめく。意識がなかったのは、どうやら薬か何か打たれていたかららしい。弱かったパスがほんの少しだけ強くなる。
 銀の睫毛が震えた。ゆっくりと浮上してゆくように、眠りから覚めてゆく。こぽこぽと、唇の先から泡が細く立ち上る。そして僕らの前に晒された赤い瞳は、僕の記憶よりもより毒々しい色をしていた。
 瞬間、穏やかだった水が急速に暴れ出した。

「――――!!」
 激痛で上がるはずだった絶叫はただ酸素を絞り出すだけだった。仰け反る背。身体は繋がれた鎖によって浮上が許されず、水中でのたうち回っている。腰の縫い目からは更に出血しており、ただ繋ぎ合わせただけの尾鰭はサリエリの動きに合わせてだらりと垂れていた。ゆらゆらと皮膚を引っ張るそれに神経など通っている訳がなく、激痛で暴れ回る上体と力なく揺れる尾鰭が、痛ましい程に対照的な動きをしていた。
 水はどんどんと赤みを増してゆく。一瞬だけ強くなったパスは急速に弱くなる。零れんばかりに目を見開き、出せない声は必死に痛みを訴えている。眦から時折ぷかりと出現する水の玉はサリエリの涙だ。
 突然覚醒したサリエリの姿に、下卑た客たちは沸いた。この出血がサリエリの生命を脅かしていることに、まるで気付いていない。人魚だ、人魚だ、と口々に囃し立てている。もっと近くで鑑賞したいと、各々が水槽に近付く。美しい、と誰かが言った。
「……ふざけるなよ」
 あんなもののどこが美しいというのだ。ピアノを操る足は切り落とされ、甘い歌を紡ぐ声は封じられ、僕を抱き締める腕は拘束されているというのに、どこが美しいというのだろう。普通の人間ではまず見かけない灰銀の髪と赤い瞳が珍しいからそう言っているだけではないのか。形だけとはいえ、人魚という特異な生き物を目にしてただ興奮しているだけではないのか。
 違う。こんなものはサリエリではない。サリエリであってはならない。
 音楽を奪われたサリエリなど、木偶人形も同然だ。彼なら言いかねない。
「サリエリを返せよ……」
 湧き上がる怒りを魔力に変える。今にも暴れ出しそうなそれを必死に抑え込みながら、身体の中で濃縮させてゆく。腹の底から指先、そして足先へ行き渡らせる。隅々まで、余すことなく。
 サリエリはなおも水槽の中でのたうち回っていた。バシャバシャと赤い水が飛沫を上げて、水槽と床を濡らしている。どんなに苦痛を訴えても、奴らにとっては檻の中で暴れる獣と同義だ。いかにも対岸の火事と言いたげに無責任な光景に、僕の魔力は頂点に達する。
 そして、一気に解き放った。
 最初に壊したのは周辺の調度品だ。突如嵐のような轟音と共に次々と破壊されてゆくそれらに、客はもちろん、店の主もパニックで慌てふためいた。きょろきょろと周囲に視線を彷徨わせつつ、しかし足が縫い止められたかのように誰も動かない。僕は両手で魔力を操りながら、徐に水槽の許へ進んでゆく。蜘蛛の巣のように張り巡らせた魔力に刃を持たせる。腕を動かす度に振り下ろし、ひとり、またひとりと、豚共の首を刎ねてゆく。まるで糸が切れた人形のように崩れ落ちる。一瞥などくれてやるものか。
 一歩、また一歩と殺し、僕とサリエリだけになったところで水槽まで辿り着く。つい先程まで暴れていたサリエリは、力尽きて沈んでいた。
 触れた水槽の感触は硬く、冷たい。楕円にくり抜かれた窓の向こうで、意識を失ったサリエリが水底で横たわっていた。水草のようにゆらゆらと揺蕩うサリエリの髪。真っ赤な水に包まれて銀灰色が錆色に変色していた。
「サリエリ……」
 凪いだ水中。気泡のひとつすら上がらず、死んだように静かだ。濃厚な血臭のするこの場所と同じ。
 指先に魔力を送り込む。そして、扉を開けるように力を込めると、そこを中心に罅が入った。
 悪夢から覚めるように崩れてゆく。錆色の水が床に落ちる。サリエリの血を含んでいたそれは、豚共の血と混ざって醜く濁っていった。水牢から漸く解放されたサリエリは元のプラチナに戻っていた。台座に変わったそこでだらりと横たわっている。魚の下半身をくっ付けられた身体。その縫い目からは、だらだらと血が流れ続けている。
 奪われた、脚。これではピアノのペダルが踏めない。歌うために上体を支えることができない。彼が人生の殆どを費やした音楽が奪われてしまった。
(あし……見つかるかな)
 何気なく縫い目に触れた瞬間、サリエリの身体が僅かに跳ねた。まだ痛みは感じてくれているらしい。それすらもなくなってしまえば死ぬ。僵尸になって初めて訪れる、二度目の死。こんな別れ方ではまた蘇らせてしまうからそれだけは避けたい。
 これだけ劣悪な処置をされたのだ。切り落とした下半身は多分そのまま残っているだろう。腐っていなければいいけれど。
「痛かったろ。もう少しだけ待ってて」
 水槽の向こう側へ目を向ける。真っ暗でよく見えないが、この奥には処置室へ繋がっている。
 噎せ返るほどのサリエリの匂いが、僕に向かって手を伸ばしていた。