パラノイアは水槽に沈む ※R18G - 6/6

「アマデウス、商品が届いたぞ」
 カーテンの隙間から差し込む日差しは、寝苦しいまでの熱と心地好い声音を纏って僕を現実世界へと連れ出した。
「ん……ああ……ありがと……」
 半ば無理矢理覚醒を促され、頭がぼんやりしている。枕元の目覚まし時計を見遣れば時刻は昼過ぎを示していた。完全なる寝坊。起こしに来てくれたサリエリは、いつ目覚めてどれだけひとりで過ごしていたのだろうか。気怠い身体を捩って上体を起こせば彼と目が合った。相変わらず感情の読み取れない眼差しで僕を見下ろしている。生まれたての僵尸は大体こんな感じだと解っていても寂しいものは寂しい。なまじ生前の立ち居振る舞いを知っているだけに寂しさは一入だった。彼が目覚めてから何度も見ているのに、まだ慣れない。
 だがこの気持ちも、いずれは時間が解決してくれるだろう。生前の彼がどんな態度で僕に接していたのか、そしてどんな行動、どんな言葉をかければ僕が喜ぶか。初めて蘇らせたときも、覚えるまでにさほど時間はかからなかったのだから。

   ◆

「今日も店は閉めたままなのか?」
 着替えを済ませ、朝食も兼ねた昼食を居間でゆっくり取っていると、向かいに座ったサリエリが少し心配そうな声音で訪ねてきた。焼売を口に運ぶ手を止めて視線を上げると、声の主はテーブルの上で組んだ手を居心地が悪そうにくるくると弄んでいた。無表情なまま視線を彷徨わせている。これに感情が乗っていたなら、さぞ困惑した顔をしていただろう。
「うーん……今日は気乗りしないしなぁ」
「そうか」
「サリエリはどう思う? 僕にお店開けて欲しいと思う?」
「僵尸に希望を聞いてどうする? アマデウスの好きにしたらいい」
「なんだよそれ。お店が気になるから僕に尋ねたんじゃないのかい?」
「いや、そういう訳では……」
 生真面目な彼は僵尸になっても変わらない。寧ろ僵尸になったことで役割というものにいっとう固執するようになったような気がする。僕という主に忠実なのはありがたい限りだが、そのせいで昔の茶目っ気を失ってしまったのは少し悲しい。所詮は屍肉人形。生前と同じ姿をし、生前の自我情報を有しているというだけの紛い物。百パーセントの再現率は難しい。
 それよりも――
「ねえサリエリ、今日は君のピアノが聴きたい気分なんだ」
 今は彼の下半身が元に戻ったことを喜ばなくてはならない。念願だった脚の修復。数多の人間の中で最も理想的なパーツを見つけたのだから合わないはずがない自信があったが、正直不安は拭えなかった。日常生活に必要な運動は何の不自由なくこなせている。ここまでは想定内だが、問題は非日常で用いる運動である。
 つまりは音楽。中でも生前から特に頻度が高かったピアノと歌が気がかりだだ。ピアノはペダルを踏む際に筋肉が突っ張らないか、歌は声を張る際にしっかり体幹を維持できるか。考えればキリがないが、特に重要なのはその辺りだろう。
「あと、歌も聴かせておくれよ」
 静かに手を伸ばし、サリエリの手の上に被せる。上目遣いで、目尻を少しだけ綻ばせてやれば生前のサリエリならば簡単に堕ちる。さて、目の前の彼はどうだろうか。
「わかった。アマデウスの望みとあらば」
「ふふ……ありがとう」
 そうして僕らは徐に席を立った。

   ◆

 流れるような指使いで鍵盤を操っていたサリエリと交代した。ピアノ椅子に腰掛け、数あるレパートリーの中から今の気分に最も近い曲を選んで指先を添える。ポーン、と伸びやかな音が部屋に緊張を齎し、次いで溢れ出す和音が前奏を紡ぐ。何度も何度も教え込んだ旋律を記憶の底から正確に引き出したサリエリは、前回と寸分違わぬ間合いで息を吸い、完璧に歌い出す。甘く蕩けるようなテノール。まるで情人を夜に誘うかのような歌い方は、僕が教えたものだ。仕込めば仕込んだだけ花開く彼の声は、曲調に合わせて様々な色に変わる。固い声も透明感のある声も、自由自在。それはひとえに、生前から積んできた研鑽と、死の直前に失った男性器によるものだった。
 そして生まれ直して間もない彼は、歌声こそ情感に満ちているが表情は無機質だ。まるで録音された音声を再生するだけの鳴き人形のよう。余りにもちぐはぐで、しかしそれが却って僕の興奮を掻き立てた。すぐにでもその鉄仮面を剥ぎ取って、歌声に見合う熱っぽい表情をさせてやりたい。そんなことを考えれば劣情染みた欲求が湧き上がり、熱を伴って下腹部が重たくなった。
 嗚呼なんて美しいのだろう。薄い唇を開いて喉を震わすサリエリの白い横顔が。緩慢な動作で閉じた瞼が。ふるりと微動する睫毛が。呼吸する度に揺れる銀の髪が。薄く開いた瞼と唇から覗く赤い臓器が。今は直立不動だが、少しずつ感情や表情を覚えてゆけば動きが付いてもっと蠱惑的になるだろう。
 そうだ。
 僕が求めていたサリエリとは、正しくこれなのだ。

「大分上手くなったんじゃない?」
 一頻り堪能して鍵盤から指を離した僕は、身を捩ってプリモ・ウォーモに向き直る。立ち上がり、指先で頬をなぞってやれば擽ったげに目を逸らして「よくわからない」と言った。
 そのまま腰を抱いて寝室へ誘導する。されるがまま、ぼんやりとした表情で縁に腰掛けるサリエリ。無意識だろうが、彼の右手は自身の下腹部を押さえていた。僕が用意したクリムゾンのタートルネックに段々と深い皺が刻まれてゆく。落差の激しい布の谷の底には、苦労して繋ぎ止めた跡がある。きっと横隔膜を震わせすぎて傷が疼くのだろう。痛覚は鈍くしてあるが感覚そのものは残っているため異物感がするのだろう。まだ何も読み取ることのできない表情とは裏腹に、服を握りしめる手には痛いほど力が籠もっている。
 今日はもう、メンテナンスがてら眠らせてやった方がいいかも知れない。サリエリの頭上で手を翳し、指先に魔力を集中させる。すると、不意に眼下から小さく名前を呼ばれた。俯き気味で見えなかった顔が徐々に顕わになってゆく。腹を押さえていない左手は耳に添えられていた。
 目が合う。なんだよその顔。
「アマデウス……こえが、きこえるんだ……」
 絞り出すような声は、悩ましげに寄せた眉間を晒しながら僕の鼓膜に侵入してきた。
「…………ッ!」
 僕は、どんな声なのか問う前にサリエリを眠らせてしまった。

 穏やかな静寂に包まれていた寝室が、張り詰めた空気に満ちてゆく。
 荒い呼吸音が、五月蠅く響き渡る。

   ◆

 小鳥の囀りに耳を傾けながらゆっくりと目覚め、質素なテーブルをふたりで挟んで食事を摂る。気紛れに店を開け、気紛れに店を閉め、けれど音楽には欠かさず触れる。まるで隠居老人のような生活だが、この上なく満ち足りている。幸せ、と呼ぶには些か規模が小さ過ぎる気もするが、他に適切な表現も見当たらない。今の日常がこれから先もずっと続いて欲しいと思うことが幸せと定義するのなら、これは幸せに違いないだろう。
 幸せ。
 とても幸せだ。
 望んで手に入れた日常。たのしい。
 しあわせ、しあわせ。

 うそじゃない。

 うそじゃないのだ。

   ◆

 じっとりと空気が澱む暗い地下の診察室では、噎せ返る程の血臭が充満していた。
 石膏質の壁が、今にも溺死してしまいそうなほどに必死な水音をやたらと反響させている。
 六つ足の台座が支えているのは、棺桶よりも大きなアクリルの箱。その中には、鮮烈な色をした錆び水が波打ちながらも充満していた。水槽の足許には水溜まりができており、側面にも所々濡れている箇所がある。血臭の原因は間違いなくこれだ。
 そしてその犯人は、魚の下半身を水面に打ち付けながら暴れていた。
 あの日サリエリを見つけ出した店の地下と同じ位に絞った暗がりで、サリエリと同じ姿をした男が沈んでいる。声を失った人魚は、完治しきらない傷に泣き叫ぶことができず、代わりに全身を使って水を叩くことで激痛を訴えていた。全身の中には、もちろんあの大きな尾鰭も入っている。大きく反り返った背。何も発せない唇から吐き出される大量の気泡。じくじくと赤い雫を滲ませている腹回りがひくりと震えている。同じだ。あの店の地下と同じ舞台。同じ状況。それなのに、僕の胸中だけは違った。
 気を抜けば吊り上がりそうになる口角を必死に押さえる。ひくひくと痙攣する表情筋にいよいよ我慢ができなくなって、右手で口元を覆った。自分で作り出したこの光景に、胸がいっぱいになる。
 くっ付けた尾鰭に神経を通わせて泳げるようにしてやった。その代わりに声帯を奪い、痛覚を残し、傷を癒やさないまま水牢の中へぶち込んでやった。
 するとどうだろうか。連中のように〝美しい〟と感じることはなかったが、気に入りの鑑賞動物を得た気分になるではないか。この生き物は自分の手によって生み出され自分の好きにしていい存在だが、飼い主の手がなければ自力で生きてゆくことができない。そう思ったとき、どうしようもなく愛おしさが湧いた。これは庇護欲だろうか。それとも手頃な玩具を手に入れた独占欲だろうか。まるっきり当時のサリエリと同等の状況だと言うのに、この気持ちの差は何なのだろう。
 目の前で藻掻き苦しむそれは生者ではない。
 なのに、それを忘れて、愛玩人形のように甲斐甲斐しく世話をし、そして己の思うがままに構ってやりたくなる。
「サリエリ」
 人魚の動きが止まった。すると僕の姿を見るなり射殺さんばかりの視線を投げつけてくる。水槽の縁を掴み、ありったけの力を使って上体を持ち上げて這い出ようとしていた。
「……ッ! ッ、ガボッ」
 しかし絶えず襲う激痛がそれを許すはずもなく、サリエリはびくりと身体を仰け反らせて再び水の中へ沈む。そしてまだ諦めるものかと言わんばかりに腕を伸ばす姿が、いじらしく、愚かしい。
「サリエリ」
 いい加減眺めるのも飽きた。人魚の許へ行く。水槽の壁面をなぞり、縁に引っかかっている彼の手指に触れる。僵尸に似つかわしくない、鍵盤を操る者が持つ繊細で大きな手。散々触ってきた骨の隆起。それは同じ人間をベースにした他人であるという証拠。
 サリエリであってサリエリでない者の証明だ。
「サリエリ」
 する――する――
 僕の指が、徐々にサリエリの中心へ向かいなぞってゆく。頼りない二の腕の感触を確かめながら首筋を伝い、フェイスラインを辿る。片方の頬を包み、親指で枯れきった涙袋を撫でた。
 これは合図だ。何度も教え込まされてすっかりそういう身体にされてしまった彼は、肩をすくめて目を見開いた。困惑と驚愕と恐怖と、そしてほんの僅かな期待が混ざった色をしている。
 ヒンジが軋むかのように緩慢な動きで首を振られた。無駄な抵抗だと解っているだろうに、この問答は変わらない。
 目を細めて、僕はとびきりの笑顔を向けてやった。

「さあ、メンテナンスの時間だよ」

   ◆

 ふたりのサリエリを生み出し、ひとりは鳴き人形と蓄音機としての役割を与え、もうひとりは鑑賞動物と愛玩人形としての役割を与えた。死別の前に首をもたげてしまった欲望を、生前と同じ姿のサリエリにはぶつけられなかったからだ。
 だが目の前の、半人半魚のサリエリは違う。これはサリエリを元に戻すために使った材料の残りであり、所謂端切れのようなものだ。そんなものに、サリエリと同じ感情を抱くことはない。同じ姿をしていようとも、だ。
 端切れとなった布はまず廃棄される。しかし器用な者はその端切れ同士を組み合わせて新たな作品を作る。つまり〝人魚のサリエリ〟は、余った身体をリサイクルして生まれたものだ。僕はそれに役目を与えてやった。
 メンテナンスと称して、セックス染みた陵辱行為をする。大衆がサリエリから男を奪ったように、僕もこの人魚の男を奪う。偶然見付けた総排泄腔を膣のように愛撫して堕としてやるのだ。記憶にないだろうが、あの日、サリエリの口を騙った報いを受けてもらうために。
 嗚呼それと、上のフロアで眠っている方のサリエリに迷惑をかけた分も、きっちりお仕置きしてやらないといけないな。
 彼はとても耳がいいから。

〝思うように動かなくなった僵尸の末路は廃棄しか道がない〟

 いいや。それは大きな誤解だ。
 廃棄の道しか残されていない僵尸は、こうやって有効利用する。

 僕は魔力で昏倒させた人魚を、水槽から引き摺り上げた。

 たのしい。