澄んだ空気が、露出している僕らの頬を刺す。風は殆ど吹いてはいなかったが、思っていた以上に冷たかった。思わず立ち止まり、肩をすくめる。
けれど、いつまでも突っ立っている訳にもいかず、意を決し一歩踏み出す。すると旅館で借りたゲタという履物が、細長く伸びる石畳とぶつかり合い、からん、と鳴った。音なく音が感じられない世界で響くそれは、さながらひとつの楽器を奏でているような気分になる。
――からん、からん。
石畳という鍵盤の上を踊るように歩く、奏者たる僕ら。その両脇で一列に並ぶ観客は、電球色にライトアップされた椿。その明かりは宵闇を彩るようにして、控えめに各木の足元から伸びていた。
――からん、からん。
どこまでも続く椿の花道。まるで導かれるように、僕もサリエリも進む。その足取りは、不安定さこそないものの、普段歩くスピードの半分まで落ちていた。
――からん、からん。
ぼう、と浮き上がる真紅の鮮やかな花に、見られているような錯覚を覚える。写真で見たときはあんなに力強く美しいと思っていたそれらが、妖しく、いっそ不気味さすら覚えるのだ。
――からん、から。
僕は堪らず、少し後ろを歩いていたサリエリにそれとなく近付き、彼の袖を掴んだ。
――からん、からん。
サリエリは何も言わなかった。
普通に歩けば一分もかからないような道を、五分位な体感速度で進む。相変わらず先は見えないままだったが、しばらくもすると終わりが見えてきた。
――からん、からん。
伸びていた石畳と椿達が途切れる。やがて姿を現したのは、道行く先の中央に植わった一本の木。一際大きく立派に伸びているそれを取り囲む恰好で、例の椿達が立っている。
そこは小さな広場になっていた。
――からん。
僕は思わず立ち止まる。
それは両脇で並んでいたものと同じ花だった。
倍の背丈。貫禄のある枝の広がり。
まさしくこの庭の主たる出で立ち。
つける花の数など他とは比べ物にならず、まるで無数の目のように爛々と咲き誇っていた。
――じり、からん。
「……っ?」
不意に肩に僅かな衝撃を受けた。
――からん、からん。
そして立ち止まっている筈なのにゲタの音が聞こえて驚いた。慌ててその方へ視線を向ける。
――からん、からん。
そこには、隣にいるはずの彼がゆらゆらと歩を進め続けていた。
――からん、からん。
右へ、左へ、船を漕ぎながら力ない足取りでその木へ向かっている。
まるで、庭の主に手招きされているかのように。
――からん、からん。
「さりえり……?」
聞こえていない。
――からん、さく。
石畳が途切れる。彼の足が雪に埋まる。
それでも彼は、進み続けていた。
――さく、さく。
立ち止まる。
すると、あろうことか彼はその木に手を伸ばし始めたのだ。
「サリエリ!」
「……ッ!?」
堪らず叫ぶ。彼はびくりと肩を震わせ、弾かれたように振り返った。
手は相変わらず伸ばされたままだったが、その困惑した表情を見るに、どうやら自分が何をしようとしたのか理解できないらしい。
やっと正気に戻ってくれたサリエリに、僕は安堵の溜め息を吐く。そして迎えに行こうと止めていた足を再び動かす。
少しだけ早くなった歩調のお陰で、みるみる広場の全容が明らかになる。
そしてサリエリと同じように、途切れた石畳に構わず中へ踏み入った瞬間、僕はまたしても立ち止まってしまった。
「さ……り、えり……?」
――なんだ、これ。
僕は心の中で独り言ちる。
なぜなら、僕の瞳はうまくサリエリを映すことができないからだ。
視線を水平移動させる。道の終わりから枝分かれするように広がった小さな椿が、広場の内周に沿ってぐるりと僕らを取り囲んでいる。
ぽつぽつと見える赤い花。それらが皆一斉に僕らを睨んでいる。
まるで値踏みするかのように、品定めをするかのように、睨んでいる。
花たちの視線は僕だった。
そしてそれはサリエリの背後に鎮座する大椿も同じだった。
奴は、花びらを一等紅く輝かせて、僕を嘲笑っていた。
――オマエにコイツは似合わない。おれが貰っていく。
そう言われているような気がして。
僕はハッとした。もう一度サリエリを視界に捉えようと試みるもうまくいかない。
サリエリは、奴らに捕らわれていた。
未だ止む気配のない雪は彼の首を、深みを増している宵闇は、彼の身体を。
そして、僕を嘲笑う花は彼の瞳を――それぞれ連れ去って行こうとしている。
「アマデウス? どうした」
僕は足早にサリエリの許へ詰め寄った。その腕を取ると、逃げるようにこの場を後にする。
この恋人はきっと、自分に何が起きたのか解っていないだろう。
今はそれでもいい。
とにかく、僕はこの場所から離れたかった。
「アマデウス! 一体どうしたと言うのだ!」
サリエリの静止を全く聞き入れず、勢いのまま部屋に戻る。他の客の迷惑なんて考える余裕もなく、乱暴に戸を閉めると、隣り合って敷いてあった布団に彼を放った。
「いっ!」
横向きに倒れた彼の上に覆い被さる。そこでようやく目が合ったが、サリエリは、僕の只ならぬ表情に委縮してしまっていた。
「……んぅ! ん、ぅ……ンぐ!」
構わず、彼の唇を貪った。噛みつくように重ね合わせると、舌を差し入れ蹂躙する。くちゅくちゅと言う音に身体が焚き点いてゆくと、サリエリの口の端が濡れ始める。すかさず舐め掬い中へ押し戻すと、彼の身体がビクリと強張った。嚥下音を響かせたのを聞き、離れてやる。
荒い呼吸音がしばらく部屋を支配した。サリエリは、突然始まった僕の奇行が理解できないらしく、固まっている。
だから、言ってやった。
「君は僕のものだ」
けれどまだ、解らないと言いたげな顔をしている。
なら、解るまで教えてやればいい。
僕はサリエリを押さえ付け、コートとユカタに手をかけた。