ちょっと情けないトラブルに見舞われつつも、暫くは部屋の中でごろごろと寛いでいた。
タタミとやらの感触を確かめてみたり他に部屋はないのかとうろついてみたり、相変わらず真っ白な景色をぼんやりと眺めてみたり。
ちなみにサリエリはその間、ふたつほど残っていた残りの菓子を綺麗さっぱり胃の中へ納めていた。普段の神経質そうな仏頂面が全力で緩んでいるところを見るに、どうやらお気に召したらしい。
彼の顔を眺めているのももちろん楽しいのだけれど、如何せん僕は極度の飽き性だ。つまり十数分後には暇を持て余し始めたので、見かねたサリエリの提案でお風呂に入ることになった。公衆の、とても広い風呂場があるらしい。正直、僕としては見ず知らずの人間に自分の裸を晒して入る行為に抵抗があるのだが、よく考えたらこの旅館、僕ら以外の観光客を一度も見ていないのである。昼を大きく回った位な時間なら余程の風呂好きでなければ鉢合わせることも少ないだろう。たぶん大丈夫だ。
こうして、いくつか必要なアメニティグッズと、着替えとして用意してもらった〝ユカタ〟とやらを抱え、ふたりで大浴場へ向かった。
〝男湯〟と書かれた布をくぐり中へ入る。リターン式のコインロッカーが並ぶ脱衣所は、案の定がらんとしていた。天井で唸る換気扇のモーターが、少しもの寂しさを覚える。
さすが大浴場と付くだけあって、何十人と収容できそうなほどに広かった。
余りにも広いので裸になると凍えやしないかと不安を覚えたが、竹だか
もうもうと立ち込める湯気に一瞬視界を奪われたと思ったら、巨大な浴槽と無数のシャワーが眼前に広がっていた。
「うわぁ……」
「これは……」
あまりの広大さに、お互いの顎は完全に弛緩してだらしないことになる。屋内プール――とまではいかないものの、確実に僕らが住むマンションの間取りより広い。シャワーも、数えるには少々難儀しそうなほど備え付けられており、誰もいない今ならかなり贅沢な使い方ができそうだ。サリエリが怒るからそんなことはしないけれど。
「……すごい広さだな」
放心状態から最初に戻ってきたのはサリエリだった。
「まったくだよ……。今いるのが僕らだけでよかったよね、ほんと」
「ああ。これに加えて他の客で賑わっていたならと考えると恐ろしいな」
確かに。この旅館のピークがどんなものなのか予想がつかないけれど、ここにあるシャワーの倍位な数の人がいたらと考えると、圧倒を通り越して恐怖すら覚えるだろう。僕だったら間違いなくそのまま引き返す。本当に、誰もいなくてよかったと思う。気を取り直して、まずはシャワースペースへ向かった。
客室同様やたらと低いそこに座り身体を洗い終えると、いよいよ巨大な浴槽とご対面だ。実はここに足を踏み入れた時に圧倒されたのは何も数と広さだけではないのだ。
「うおーーーー!」
ほとんど貸し切り状態なのをいいことに、思わず雄叫びのような声が出る。コンサートホールよりも反響した。少し遅れてやってきたサリエリは余りの風景に言葉を失っている。
そこには、どんなスクリーンよりも繊細で、かつ情熱的な銀異世界が広がっていた。
宿に着いた際に見た、あの殴りかかってきそうな灰色の壁はどこへやら、まるで一面のクリスタルが淡く燃えるかのように木々を、山を、谷を彩っている。少しだけ傾きつつある夕日を受けて煌めく様はとても幻想的で、それはひとつの絵画のようだった。とても美しいけれど、雄大で、圧倒的で、恐ろしい。
この旅館を建てた人は、きっとそのことを見越して計画したのだろう。周到に計算された雪景色はもちろん、これらを模る窓枠にすら畏怖の念を覚えた。
「もしや私は……とんでもない旅館を選んでしまったのだろうか……」
思わずと言った風に、サリエリが零す。
「いいや……。むしろ君には最高の旅館をチョイスしてもらったから、今ここで一曲奏でたい気分だよ」
「それは残念だ。ピアノがあれば、この圧倒的な景色が最高のものになっただろうに」
「そう思ってるのは君だけだよ」
こんな場所じゃあ湿気で碌な音にならないはずなのに、僕の〝一曲奏でたい〟のフレーズに反応して口走ってしまったのだろう。たとえ天才と謳われた僕の音楽であっても、同じく天才的な音楽センスを持つサリエリなら、冷静になれば完成されたこの景色に人工物は不要だと解っているはずだ。
威圧的な景色に打ちのめされてからしばらく、どちらからともなく身震いを始め、そこでようやく身体が冷え切ってしまっていることに気が付いた。ガチガチに固まった筋肉を軋ませながら、僕はサリエリの手を取り例の窓に沿うようにして広がる巨大な浴槽へ足を沈める。
湯の温度は、自宅で普段入るものより高めだった。むしろ熱い。冬場の気温は僕らの国と大して変わらないはずなのに、この島国の人間の皮膚はどうなっているのだろう。最初は肩まで浸かっていたけれど、あまりの熱さに直ぐ身を浮かせてしまった。
入るときに足をついた段差に座り、腰から下を浸す。先程瞬間的に身体を刺した熱量がとても穏やかなものへと変わり、じんわりと巡るような感覚が心地好い。徐々に弛緩してゆく筋肉に、詰めていた息が解ける。
「贅沢な時間だな」
いつの間にかサリエリが僕の隣で同じように腰かけていた。
「あんまりお湯が熱いから、最初はどうかと思ったけどね」
「ああ。だがこうして腰を落ち着け景色を眺めるなら、むしろ丁度いい温度と言えるな」
「たしかに」
旅館の説明を受けるときに聞いたオカミの話を思い出す。
観光地の温泉だから当たり前かもしれないが、ここの湯は天然温泉なのだそうだ。つまりこの旅館を取り囲む山の地中深くには、熱せられた地下水があり、入浴可能な温度にまで冷やして提供されているはずなのだ。それが四十度以上もありそうな熱さになっているということは、僕らみたいに腰かけて長く浸かりながら、景色を楽しんで欲しいという意図があるのだろう。
柄にもないことを考えているなあと、どこか他人事のように思う。
身から出た錆とはいえ、十一月に入ってから僕らはずっと休みなしだった。そしてそれは、同じ依頼を受けたサリエリも同様だ。顔には出していなかったけれど、彼もまた相当キてたのだろう。時の流れから解放されたこの心地好いひとときは、ささくれ立った僕らの心を、確実に穏やかなものへと変えている。強行だったため明日には帰らなければならないけれど、きっと出掛ける前よりもっといい曲が書ける。
根拠はないが確信があった。
それはサリエリも同じようで、僕の大好きな彼の歌声が、控えめに、そして耳に優しい旋律を連れて、大浴場を踊っていた。
大自然が待つ圧倒的な力強さを眺めながら、傍らの恋人が奏でる最高のハミングに耳を傾ける。
至福の時間は、僕らがのぼせる直前まで続いた。