飛行機と電車とタクシーを乗り継ぎ、やっとの思いで辿り着いた旅館は、ほとんど雪に埋もれていた。
見渡す限りの白、白、白。一面銀世界と言えば聞こえはいいが、見上げる高さまで聳え立つ雪の壁にそんな美しい感想は持てない。向こうの方が赤道に近いと高を括っていたのが不味かった。
唖然とする僕を置き去りに、今回の旅行プランを計画した張本人は淡々と荷卸しを進めている。
「サリエリ……まさか君、僕を生き埋めにするつもりでエスコートするだなんて言ったの……」
「何をふざけたことを言っている。椿の花が綺麗に見える旅館に泊まりたいと言ったのは貴様だろう」
ああ、あの花、椿と言ったのか。
僕は今更、ネットで見た花の名前を知らないことに気が付いた。
「移動中に気象情報を見たのだが、今年は特に降雪量が多いらしいな」
よいこらせっと、と言う彼の声を聞いて振り返ると荷卸しは終わっていた。手伝ってくれた運転手に片言の異国語でお礼を言っている。
サリエリが戻って来ると、僕に少し多く荷物を持たせ門の向こうへと歩いて行く。
その背中を僕はよたよたと追いかけて行った。
風通しのよさそうな外観をしている木造の平屋は、しかし中へ入ると暖かな空気が照明と共に出迎えてくれた。知らず強張っていた肩がホッと解れてゆくのが解る。
エントランスと思われるこの場所の中心には、巨大な花瓶と大量の花が生けられており、目を引いた。音楽以外の感性はからきしな僕はただ「カラフルで迫力があるな」位にしか思わなかったけれど。
花瓶の向こうは共用の休憩スペースになっているみたいで、ひとり掛けのソファがペアになって並んでいた。その奥、大きなガラス窓には森が白く染まっている姿が映し出されており、ようやく風情のある雪が見られた気がした。
「あらたいへん!」
不意に女の声が聞こえて、サリエリと共にそちらを向く。慌てた様子の足音を響かせやってきたのは、ふくよかな体躯の人のよさそうな小柄の女性だった。見たことのない制服を纏っているが、あれは異国の民族衣装で〝キモノ〟というやつだろう。
女性は僕らの前まで来ると、流れるような動作で正座し、深々と土下座した。
「ようこそ、お越しくださいました」
「すこし早くついてしまいました」
サリエリが、また不慣れな異国語を懸命に駆使している。
「こちらこそ、ご到着に間に合わず、申し訳ありません」
意外にもちゃんと伝わっているらしい。
女性は〝オカミ〟と名乗った。
少し遅れて出迎えの挨拶を受けた僕らは、彼女に続いてやってきた職員たちに荷物を預け、部屋へ案内してもらう。促されるまま、雪に塗れた靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。
僅かに床が軋む音を聞きながら、広くも狭くもない廊下をぞろぞろ歩く。
平屋となっているだけあって、敷地面積自体はそれなりにあるらしい。僕らの国にはない木造の内装は、まるで時代に取り残されたかのように繊細な印象を受ける。けれどエントランスと同じく、絞られた暖色の照明と、見えない暖房のお陰で頼りなさはなかった。隙間風が入ってきている感じもないし、これは割と快適に羽が伸ばせるなと期待に胸を膨らませる。
とはいえ、仕事の修羅場を押して敢行した旅行だからあまり長くは滞在できないけれど。
「こちらで御座います」
案内役をしていたオカミが立ち止まり、僕らもそれに倣い足を止める。〝妻夫の間〟と書かれた小さな看板のすぐ側、ダイナミックなイラストの描かれた布張りの引き戸が目に飛び込んできた。確か――フスマ、といっただろうか。促されるまま中へ入ると、ホテルとはまた違う不思議な空間が広がっていた。
背の高い家具がひとつもない。椅子も机もとにかくかなり低いのだ。一応この国の文化とか旅館事情(ほとんどチップの話だけど)とかについては多少頭に入れておいたはずだが、それにしてもこんなに低いとは思わなかった。たぶん直接床に座る仕様になっているのだろう。
なるほど。だから建物に入ったとき靴を脱いだのか。
オカミに教わりスリッパを脱ぐ。奥へ進み足のない背凭れ椅子に腰かけると、旅館の注意事項を幾つか聞いた。風呂場への行き方、夕食の時間、朝食の場所にその他共用スペースについて。僕らでも理解できる言葉でわかりやすく教えてもらい、最後に「ごゆっくりどうぞ」と残して去って行った。
「はぁー……つかれた」
肩がギシギシ言っている。ふたりだけになったのをいいことに、僕はごろりと仰向けに転がった。サリエリも、異国の地で慣れない移動とコミュニケーションに堪えたのか、何も言ってこない。
「……てかなにそれ。いつの間にそんなもの買ったんだよ」
――と思ったのは大きな間違いみたいだ。
桶みたいな形状の容器の蓋を開け、中を漁るサリエリの姿が映る。丸くて弾力のある食べ物を取り出し封を切っていた。やたら目を輝かせ見つめているその食い付き振りから、恐らく菓子の類だろう。
「この地域名物の〝マメダイフク〟という菓子だそうだ。この国の旅館では、こうして客室に菓子を備えてもてなす習慣があるのだな。ふむ……中にあるこのアンコとやらが甘いのか」
お前もひとつ食べるか? と、口の周りを白い粉だらけにしたサリエリが、まだビニールに包まれたままの菓子をひとつ差し出してくる。
「そんなに美味しいなら君が全部食べなよ」
それよりも僕は今、温かい飲み物の方が欲しかった。近くに電気ポットが置いてあるのだから、お茶のひとつでも作れるはず。
きょろきょろと辺りを見回していると、サリエリは再び桶に手を突っ込むと紙に包まれたティーバッグを僕に見せた。
「これじゃないか?」
僅かに鼻孔を擽る香りは紅茶とは違っていたが、確かにお茶の香りだ。封を切り、中身を取り出したところで――ふと我に返る。
「サリエリ、コイツの淹れ方は知ってる?」
「紅茶と同じではないのか?」
そう、知らないのだ。僕らのよく知る〝紅茶〟にとてもよく似ているが、本当にそれで問題ないのだろうか。
こんなとき、変に用心深い自分の性分に腹が立つ。未知の何かに遭遇したとき、決まって思い切りがいいのはサリエリの方なのだ。
「どれ、貸してみろ」
そして今回も、それは発揮された。
サリエリにティーバッグを渡すと持ち手のないカップに入れ、直接お湯を注ぐ。そして「茶葉に変わりないのだから」とかいう理由で二分ほど待った。サリエリの口元はその間に拭いて綺麗にしてやる。
二分後、重くなったティーバッグを適当な皿に置きできあがったお茶を僕に渡す。
「できたぞ」
心なしか、達成感に満ちた誇らしげな表情をしている。
中身を覗くと、それはなんとも清々しい、新緑のお茶だった。若葉を摘んでそのまま抽出したかのような優しい色合いをしている。紅茶ではまず見ない葉そのものの色。茶葉は茶葉でも、たぶん加工のし方が違うのだろう。火を通したかのような芳ばしい香りが嗅覚を刺激してくる。
視線を感じて顔を上げると、サリエリはにこにこと大層嬉しそうな顔で僕を見ていた。そんなに上手くできたのだろうか。目を丸くして首をかしげていると、笑みは空気を連れて唇から零れた。
「……やはりお前の瞳によく似ているな」
「…………っ!?」
ああこの恋人はいったい何を言っているのだろう。いや、言っている意味は解るのだけれどなぜ今なのだろう。彼は時々こうして突拍子もなく口説いてくるから心臓に悪い。しかもその内の半分ほどは自覚がないと言うのだから質が悪い。急に大きく早鐘を打ち始めた胸に僅かな苦しさを覚え、僕は慌ててお茶に向き直った。
そして一気に呷る。これがいけなかった。
「アっっっツ!! にがっ! しぶっ!!」
カップを手放さなかった僕を褒めて欲しい。
主に熱湯による衝撃で思わず跳びあがり、お茶を零してしまう。机に落ちた分はまだしも、服にかかった場所があまりにもよろしくなさ過ぎた。何十年も前にしたオネショみたく、股間のど真ん中にクリーンヒットしたのである。
ああもう――胡坐なんてかくんじゃなかった!
「おい、大丈夫か!」
いったい何を慌ててるんだ、なんて小言が聞こえるが誰のせいだ。
僕に降りかかった一連の惨状を見て、サリエリは慌てて荷物からタオルを取り出し片付けてくれたが、自分が元凶だなんて微塵も思っていないらしい。なんだか頭にきて、恋人を手伝うことなく睨み付ける。
口の中の熱さが引くと、あとに残されたのは絡みつくようなお茶の苦みと渋みだった。眉に力が籠もる。
「その……なんだ。その様子だと口に合わなかったみたいだな……」
しゅんと眉を下げて言外に謝る。あまりにも僕が何も言わないせいで居た堪れなくなったのか、それとも口の中の不快感を察してか、サリエリはおずおずと、再び菓子を差し出してきた。
今度は断らず受け取る。
甘いことに変わりはない。けれど余程酷い口内だったのか、珍しく僕の舌は歓喜した。