街が黒とオレンジに彩られていくと、嗚呼もうすぐ誕生日か、と自覚が芽生えていく。ほんの十年ほど前まではクリスマスのような絢爛さなどなかったというのに、急速に認知度を高めた今や、それに負けず劣らずの一大行事となっていた。
西洋の妖怪や魔女のような悪魔的な存在を模した飾りの数々が、一様に愛らしい顔つきで店の陳列に姿勢よく並んでいる。聞きかじった話だと日本における〝お盆〟に類する行事だとのことらしいが、目の前の景色を見る限り、どちらかというと娯楽の要素がかなり強いと感じる。日本人らしい土着のさせ方だなと、自分も同じ日本人であることを棚に上げてそう思った。
そんな特殊な日柄上、天上院吹雪は自身の誕生日を忘れたことはない。特に、大人になるにつれて多忙を理由にその有り難みと共に忘れてしまうものを、彼はむしろ年々深く記憶に刻まれているようだった。景色の移り変わりと共にその日を自覚し、街がいっとう賑やかになるのと同時に当日を迎える。まるで世界が自分の誕生を祝してくれているかのように思え、喧騒を耳にすればするほど喜びも増した。
天上院吹雪は自分の誕生日が好きだった。
そして、その日を共に祝してくれる友人は更に好きだった。
「誕生日おめでとう！」
パンッ、という破裂音と共に細長い紙テープが勢いよく飛び出す。円錐の底を向けられていた吹雪は、前方から舞い上がった飛翔物に頭上を彩られていく。そして妹に促されるままケーキの前に近付くと、大きく息を吸ってその上で揺れる蝋燭の火を吹き消した。
一息で消し終えると、その功績を祝すようにパラパラと拍手が湧き上がる。
「ありがとう。皆に祝ってもらえるなんて、今日は最高の日だよ！」
眼前を見渡せば、温かな笑顔で溢れていた。彼らの顔に、吹雪の胸は幸福に満たされていく。その見知った仲間の内の一人に、吹雪は視線を送った。
「まさか藤原が来てくれるなんてね」
ふわふわと揺れる若葉色の猫っ毛も、上等なアメジストを思わせる双眸も、記憶にある通り。むしろ当時は孤独に恐怖して暗く澱んでいたのが、本来の色艶に戻ったせいか、記憶より随分と美しくなっている。男に向ける形容詞として不適切かも知れないが、吹雪にとって藤原優介とは、繊細な宝石のように美しい男だと常々感じていた。
吹雪の喜色に満ちた笑顔を受けて、藤原は気恥ずかしそうに苦笑する。
「俺も、まさか呼ばれるとは思いもしなかったよ。久々に丸藤から連絡が来た思ったら、吹雪の誕生日パーティーをするからお前も来ないか、なんて誘われてさ」
――そういうのに一番縁遠い奴だと思ってたのに。
云いながら、藤原の視線が逸れる。吹雪は目を丸くしながらその動きを追うと、藤原を招待した張本人が素知らぬ顔をしてケーキを切り分けていた。
「亮ってば、いつの間に藤原と連絡先交換したんだい？」
「卒業式の直後だ」
亮は切り分けたケーキを更に載せていきながら静かに答える。にべもない態度を前に、満面の笑みだった吹雪の顔がみるみる歪んでいく。
「そんな……抜け駆けじゃないか！」
「なに云ってるの。兄さんが忘れてたんじゃない」
「俺はてっきり交換済みかと思っていた」
「あのときは女の子たちとの別れを惜しんでたんだから、しょうがないじゃないか！」
明日香と亮の無情な科白に、吹雪はついにぎゃあぎゃあと喚き始めた。パーティーの会場となっているここは吹雪の自宅であるため問題ないが、近隣からの苦情が来かねない声量で、三人の表情が僅かに引き攣る。
しかし嘘泣きを疑いたくなるほど大袈裟に嘆く吹雪の様子に、明日香は呆れ、亮も表情を消していく。残された藤原だけがおろおろと視線を彷徨わせ、結局なだめすかして場を収めた。一息分の沈黙が流れた後、亮は徐にケーキの乗った皿を取り上げて配りだす。
僅かに角を崩しながら四等分にされたケーキは、店で買うショートケーキよりも一回り大きい。吹雪が皿の上に乗っているフォークを手に取ると、他の三人もそれに続いた。立食パーティーのような恰好で食べながらテーブルに並ぶ菓子や飲み物にも手を伸ばす。二十歳を越えた大人の誕生日にしては些か華やかさに欠けるが、様々な苦難に見舞われた在学中を思えば、たまにはいいだろう。なにせ大皿に盛られた数種類の菓子は、主賓の好みに合わせて酒のつまみに合いそうな辛いものが多い。それだけでも、子供らしさを感じないものである。
歓談することしばらく、先に食べ終えた亮が皿を置いて後退る。何かを察したらしい明日香も、食べかけのケーキを置いて同じくこの場を離れようとした。
「どうしたんだい？」
思わず尋ねる吹雪へ明日香が肩越しに振り返ると、兄によく似た悪戯っぽいウインクを投げて「ちょっとね」と言葉を濁す。そうしてリビングを出て行く二人の背中を呆然と見送りながら、吹雪と藤原はぽかんと口を開けた。
「藤原……」
「俺に聞くなよ」
隣に立つ藤原へ視線を寄越してみたが、残念ながら彼は何も知らないようだった。肩を竦めてかぶりを振られる。三分ほど明日香と亮が出て行った廊下を眺めていたが、二人が戻ってくる気配はない。きっと何か企んでいるのだろうという確信だけを胸に残し、気長に待つことにした。
残された二人は沈黙を持て余していた。吹雪は藤原に対して話したいことが山ほどあるのだが、肝心の藤原に落ち着きがないのだ。とっくに食べ終えたケーキの皿を持ったまま、ちびちびとココアを飲み続けている。ピッチが速くなっている様子から、何かせずにいられないのだろう。こちらから話しかけてもいいのか逡巡していると、意外にも藤原の方から口を開いてくれた。
「あの……さ。俺、何も、ないんだ……」
脈絡のない切り出し方な上、大切な言葉が抜けている。その欠落した言葉こそ、藤原にとってとても云いにくいものであることは容易に察せられた。吹雪は静かに相槌を打ちながら続きを待つ。
「丸藤にさ、誘われたまではいいんだけど……何をプレゼントしたらいいのか分からなくて……」
言葉を紡げば紡ぐほど、藤原の表情が悲痛に歪んでいく。元々口数の多い質ではないが、今日は輪をかけて寡黙になっていたのは、このパーティーが始まったときからずっと気になっていた。距離感も遠く、何よりも、表情がぎこちない。
彼はずっと悩んでいたのだろう。孤独の穴を埋めるために、写真という物理的な方法で記憶を留め置いていたほどである。在学中に何度も交わした好みの話を忘れてしまった自分を、きっと今も責めているのだ。
手を伸ばす。影の落ちた目元に光を当てるため、さらりと前髪を掻き分ける。すると自責の沼に沈みかけていた藤原が、はっと息を呑んで顔を上げた。丸く見開かれた瞳に薄らと涙の膜が張っている。臆病で繊細なかんばせは、不安定に揺れてもなおうつくしい。
「なら、君の連絡先を僕におくれ」
眦を綻ばせながら、ずっと云いたかった望みを口にすると、彼はぽかんと口を開けて「え」と零す。不可抗力的なその声は、確かな疑問の色を滲ませている。
「そ、んなことで、いいのか……？」
「もちろん。亮とだけ交換してただなんて、羨ましいじゃないか」
――だから僕も。
ウインクも混ぜて念を押す。ファンの女性にするような気障ったらしい仕草も、どうやら効果覿面のようだった。
彼は瞬きも忘れて吹雪を見上げていたが、やがて顔がみるみる朱に染まっていく。まるで恋心を自覚した少女のような反応に、犯人たる吹雪もまた顔の中心に熱が集まっていくのを感じた。
「せ……せっかく三人とも卒業したんだから、ね？ ホラ、飲みにとか、誘いたいし……」
羞恥に耐えかねて開いた口から、何とも情けない科白がぽろぽろと零れていく。何を言い訳じみたことを云っているのかと、今度は吹雪が自己嫌悪に陥った。
「そんな……いいのか？」
「あ、当たり前じゃないか！」
「だって俺、吹雪たちに迷惑かけたし……」
「それは君の苦しみに気付いてやれなかった僕たちも同罪さ。云っただろう？ また一緒にやり直そうって」
「吹雪……」
亮と藤原が親密さに嫉妬の念を抱いたのは事実だ。しかしそれ以上に、友達をやり直そうと自ら啖呵を切ったにも拘わらず、実行に移さないまま二年以上も放置したことが我慢でならなかった。これでは関係を築いていくどころか、疎遠になって自然消滅してしまう。
我に返った吹雪は、藤原の目を真っ直ぐ見つめながら訴えた。どれだけ伝わるかわからないが、少しでも受け取ってもらえるよう誠心誠意の謝意を込めて。やがて僅かに身を引いていた藤原が、観念したように肩を落とす。苦笑にも見える不器用な笑顔には深い安堵が滲んでいる。そしてゆっくりと薄い唇が綻ぶと、小さな声で「ありがとう」と云った。
「それはこちらの科白だよ。僕の方こそ、待ってくれてありがとう……！」
云うが早いか、二人はポケットからスマートフォンを取り出す。アドレス帳の他、メッセージアプリのアカウントまで交換を終えると、その達成感に二人は顔を見合わせてしばらく笑っていた。
しかしそんな彼らの間に水を差すように、突如リビングの明かりが落ちる。
「……っ!?」
「え、なに……」
狼狽する藤原の声に恐怖が滲んでいるのがわかった。一切の光を感じない原因は閉め切られたカーテンにあり、吹雪は小さく舌打ちする。突発的な停電の原因など知れている。玄関の側に設置されているブレーカーを確認しに行こうと、側で震える藤原に声をかけようとした、そのとき――
「Trick or Treat？」
闇が声を上げた。冷えた低音は静かで、どの場所から上げられたものか判断できなかった。吹雪の脳裏に見知った人物の顔が浮かんだが、あまりにも似つかわしくないため早々に排除する。するすると近付いてくる布擦れの音。それが止まったと思った瞬間、冷えたナニカに顎の下をなぞられた。
「Trick or Treat？」
ねっとりと甘い低音に、吹雪の心臓がドキリと跳ねる。初めて耳にするそれは、しかし変わらない声色から排除した人物のイメージを呼び戻す。すると、全身を雁字搦めにしていた恐怖が一気に抜け落ちていく。
「あ……」
リビングに再び明かりが点る。どうやらあの科白が合図だったらしい。急速に取り戻した視界は、青磁色に縁取られた白皙の相好に支配されていた。至近距離で吹雪の顔を捕らえる彼の顔色が悪く見えるのは、そこに化粧を施されたからだろう。
「……驚いたか？」
彼は徐に吹雪を開放すると、かの地獄の皇帝を思わせる笑みを浮かべてそう云った。小さな口から見慣れない牙が覗く。
「驚いたも何も……」
深く息を吐く。肩を落として隣を見れば、涙目の藤原が同じように脱力していた。
「藤原が気絶しそうだったよ」
「なっ、違……！」
「なら成功だな」
視線を前方に戻す。改めて悪戯を仕掛けた亮の姿を上から下まで眺める。敢えて顔色の悪いメイクをしたのは、彼の纏う衣装が吸血鬼を模したものだからであった。西洋の貴族を思わせる衣装の上に闇色のマントが揺れている。定番のコスプレだが、彼が身につけると様になるのだから不思議だ。藤原と二人で亮の扮装を賞賛していると、ずっと廊下で待機していたらしい明日香がようやく姿を現す。
「どう？ いい出来でしょう」
達成感に満ちた顔で胸を張っている。やはり彼に完璧なメイクを施したのは明日香であった。
「最っっっ高だよ明日香！ 完璧だ！」
「天上院くんは凄いな。まるで本物の吸血鬼だ」
「ふふっ、ありがとう。やるからには全力で、と思って張り切っちゃったわ」
「俺も、まさかここまで好反応だとは予想外だったな」
ハロウィーンらしいサプライズの成功に、破顔し合う。一頻り笑い終えたところで、平素の顔に戻った亮がポケットから紙切れを取り出して吹雪と藤原に差し出した。
「これは……？」
チケットだ。すべて英語で書かれていたが、知っている単語を掻い摘まんで読むと、プロリーグの観覧チケットということがわかる。それも、来賓用の。
「長かったが……俺はこの日にプロとして復帰する」
息を呑む。チケットから勢いよく顔を上げ、亮の顔を見る。相対する彼の双眸。澄んだ虹彩のその奥で、青磁色の焔が揺らめいている。普段と変わらないと思っていた亮の表情は、扮装に似つかわしくない固い決意が籠もっている。
「できれば、二人に来てもらいたいと思っている」
次いで聞こえた科白は、その決意に見合った芯があった。
「今の俺にできることは少ない。明日香に相談して、どうにか思い付いたのがこれだった。きっと喜ぶだろうと何度も背中を押してくれたんだが……やはり手前勝手な気がして抵抗があるな」
そんな明日香は、亮の背後で吹雪たちの様子を静かに見守っている。この結末に確信めいた予感があるからか、その表情は自信に満ちていた。
「俺も……いいのか？」
「ああ。明後日は藤原も誕生日だろう」
「だが……」
「俺は、お前にも見届け人になってもらいたい……親友として」
その言葉に、云われた藤原はハッと息を呑み、吹雪は頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
ずっと信じて疑わなかった言葉。敢えて口にしてこなかった言葉――互いに伝え合わなかったことで悲劇を生んでしまった言葉。
懐に入り込めた愉悦から、相手の信に委ねるだけの科白しか交わしてこなかった。近しい人間ほど言葉を蔑ろにしてはならないとはよく聞くが、それがどんな結末を招くのかまでは考えもしなかったのだ。一人消え、自分が消え、残された一人が先行きの見えない中をひたすら待ち続けた。そのときの亮の絶望は、想像に余りある。そんな彼が放った〝親友〟という言葉の重さに、吹雪はただただ圧倒された。
震える手を伸ばす。指先が触れると、小さな紙切れはするりとその中に収まった。
「ありがとう、亮……すごく、うれしいよ……」
眉間が震えていくのを感じながら、呟くようにそう云った。視界の端では、藤原もまた亮からのプレゼントに手を伸ばしていた。最高のサプライズとプレゼント。その両方を受け取ると、三人のやり取りを祝すように拍手が上がる。亮の背後から「おめでとう。大成功ね」と云いながら現れた。
「ね、私の云った通りでしょ？ さあ、この後はデュエル大会を企画してるの。早く食べてしまいましょ」
悪戯っぽくウインクしながら明日香に促されて、三人は再びテーブルに向かう。そこでふと吹雪が立ち止まる。
「あ、そうだ。実は僕も二人にプレゼントを用意してたんだ」
ハロウィーンのサプライズですっかり段取りを忘れていたが、ようやく思い出したのだ。準備していたものを取りにキッチンへ行き、二つの小さな封筒を手に戻る。
「はい、開けてごらん」
中身は亮のものと同様のチケットだ。海馬ランド内のスタジアムを会場に、とあるエンタプロリーグの試合日程が記されている。その内容にいち早く察した亮が「まさか……」と呟いた。
「そのまさかさ！ この日に、やっと僕のデビュー戦があるのさ！」
「ちょっとこれ、丸藤の復帰戦の翌日じゃないか！」
「そう！ だからこれは運命なんだよ！」
再びケーキを忘れてリビングがざわめきに包まれる。亮に先を越されてしまったが、吹雪もまた、自分の今の雄姿を見てもらうことが彼らへのプレゼントとして最適だと考えていたのだ。
亮が「やはり兄妹だな」と零す。彼の口振りから、吹雪と藤原へのプレゼントについて明日香に相談したのだろう。しかし吹雪もまた、亮と藤原へのプレゼントについて明日香に相談していたのだ。三人の輪から一歩離れた場所で、見守るようにして立つ妹に視線を送る。目が合うと、在学時代より大人びて見える彼女がゆっくりと唇を綻ばせた。
「兄さん……お誕生日、おめでとう」
穏やかな祝辞に包まれて、吹雪はゆっくりと頷く。食べかけのケーキも、底の見えかけた菓子の大皿も、誕生日という時間を鮮やかに彩ってくれている。しかしそれ以上に、旧知の友がかつてのように集まって祝ってくれている。その事実がただただ尊く、愛おしい。こんな日が、来年も、再来年も続いてほしいと思う。
一日の終わりは無情にも少しずつ近付いてきている。もう少し、もう少しだけと願いながら、残りの時間に想いを馳せる。
「ありがとう明日香……そして、藤原も亮も、少し早いけど誕生日おめでとう……！」
