ねえそれ、本当に付き合ってるの?

 兄さんの恋愛遍歴は、お世辞にも豊かとは云えない。すらりと背が高くて、誰が見ても恰好いい見た目をしているけれど、彼の恋愛対象は同性である男だ。だから女子にモテても、男が好きだから付き合えない。何度も学園の女子から人目の付かない場所に呼ばれ、その告白を断る。やがて学園外に付き合っている人がいるなどという噂で、一時期は大騒ぎになっていたほどだ。
 それもあって、兄さんは同性が恋愛対象であることを周囲に話さなかったし、在学中も意中の人がいても、想いを伝えることもなかった。だから僕の知る限り、僕が卒業するまでは、誰かと付き合ったことは一度もない。
 異変を感じたのは卒業から一年後。ヘルカイザーの知名度が、ある程度落ち着くようになった頃だった。
 イベントの打ち合わせという名目の会食を終えると、クライアントは二次会の誘いを申し出た。いつもの僕らならそれを辞退するのだけれど、珍しくも兄が乗ったのだ。
 たしかにこのクライアントは、主催グループの一人だ。けれど幹部というよりは現場監督に近い立場の人だから、それ以上深い付き合いをしても僕らに大きなメリットがない。むしろ向こうが何度も会食の話を持ちかけてくるから、渋々了承したのだ。この話の中に、何か有益な情報でも入っていたのだろうか。不安になった僕は兄さんの顔を見上げて指示を仰ごうとすると――

「翔、悪いがお前は先に帰ってくれ」

 と云ったのだ。
 返答に詰まってしまった僕は、体調を理由に帰宅を促そうと考えかけた。けれどその原因は、既に兄さんの手元を離れている。お陰ですっかり快調した彼は、あれ以降一度も再発していないのだ。

「……わかったよ」

 にべもなく突っぱねられた不満を隠しきることはできなかったけれど、そう云うしかない。兄さんに何言か言い付けて、僕は席を後にした。
 それから兄さんと彼の間に何があったのか。わざわざ尋ねることはなかったけれど、彼の中で何らかの変化があったのは理解できた。仕事は今まで通り完璧で、傍目には普段通りに見える。けれど帰宅が遅くなることも増えたし、何度か朝帰りするようにもなったので、きっとこれは彼に訪れた遅まきの春だろう。それがゴシップにすっぱ抜かれないかは、少し不安だった。
 結論から云うと、僕の不安は杞憂だった。対象が同性であるせいか、カップルというよりは親密なビジネスパーソンという認識なのだろう。好都合だけれど、少し複雑な気持ちだ。
 ところで、人は恋をすると綺麗になる、なんて話がある。主に女の子にその傾向があるらしいけれど、兄さんの場合はどうなのだろう。仕事ぶりに変化はないし、目に見えて物が増えたということもない。本当に普段通り。あんなことがあってからひと月が経つけれど、恋愛中を思わせる素振りがまるで見られないのだ。
 もやもやと胸に不快感を抱えながら、兄さんの帰りを待つ。こっそり買っておいたブラック・マジシャン・ガール・ヌードルで夕飯を済ませ、無為にスマートフォンを弄っていたらもう十一時だ。
 今日はもう寝よう。誰に伝えるでもなくそう口にして、どんよりと重い腰を上げる。机の上に散らばったゴミを片付けて、着替えを取りに寝室へ向かおうとしたそのとき――遠くで鍵の回る音がした。
 いつもより緩慢な動きで蝶番が軋む。まるで中の人間に気付かれまいとしているかのようで、僕は一抹の苛立ちを覚えた。寝室のドアノブにかけるはずだった手を下ろし、くるりと向きを変える。

「おかえりなさい」
「翔……」

 玄関には、見送った今朝と同じ姿で兄さんが立っていた。出迎えに僕が現れたのが意外だったらしく、切れ長の目を丸くさせている。けれどすぐに伏せてしまった。

「珍しいね。もう少し遅くなるかと思った」
「先方にもそう云われたんだが、明日は午前から会議が入っていただろう」
「まぁ……そうだけど」

 遅いことには変わりないよ。そう云いかけた言葉をどうにか呑み込んだ。渋々身を引けば、靴を脱ぎ終わった兄さんが僕の前をすり抜けて行った。ダイニングチェアにコートを引っかけて、ジャケットを脱いでいく。その動きが、どこか気怠そうに見えるのは気のせいだろうか。堪らず「お風呂、先に入る?」と声をかける。

「……ああ」

 数秒の間を置いてきた返事は、少し嗄れて聞こえた。喋るのも億劫のようで、それ以降は沈黙したまま浴室に向かって歩いていく。
 僕は、そんな兄さんの背中を眺めているだけだ。辛そうなのはすぐにわかったけれど、かつて心臓を悪くしていた頃と違って、手を出そうという気にならない。彼の帰りが遅くなり始めたのと同時期に、帰宅後はこうして気怠そうにしていることが増えたのだ。白い肌に薄らと走る朱。赤みを増した薄い唇。そして、長い髪の間から覗く、首筋の赤い斑点。完璧で恰好よかった兄が、日ごと薄汚れていくような気がした。
 他人の恋愛事情なのだから、放っておけばいいことは十分に理解している。けれど、頭ではわかっていても、心が認められない。それはヘルカイザーになって間もない頃より、ずっと冷静で行き場のない嫌悪感だった。ようやく意中の人と関係を持てたことに祝福すると共に、早く別れてほしい願望も膨れ上がっていく。
 兄さんのことを考えれば考えるほど、自分が嫌な奴になっていくようだ。
 浴室から漏れ聞こえるシャワーの音。その細やかなノイズに混じって、兄さんの押し殺した吐息が聞こえる。湿り気のある声には色を孕んでいて、耳にするほどに下腹がむずむずしていく。この感覚が堪らなく不快で、僕はそそくさと身を翻して脱衣所を出て行った。
 着替えを取りに、兄さんの寝室の前に立つ。しっかりと閉ざされた扉を開けるまで、しばらくその場に立ち尽くしていた。