Three years later

藤原が卒業する話。
企画「三天才合宿」参加作品です。

 

 絶海の孤島という表現が比喩ではないといえるほどのこの島に、春を彩る薄桃色の姿はない。

 膨らんだ蕾が寒暖差の連続によって徐々に綻び、蒼穹の半分をその色で埋め尽くすあれ。都会にいても田舎にいても変わらず目にしていたそれを、このデュエル・アカデミアで生活を始めてからは一度も見ていなかった。
 卒業生を乗せる船がゆっくりと接岸しようとしている。その様子を、離れた場所に立つ灯台に凭れながら、俺はぼんやりと視線を投げ出していた。自分も同じ船に乗らなければならないというのに、どうも足を向ける気にならない。
 港には乗船のときを待ちながら、卒業生と在校生とが上下の垣根を越えて別れを惜しんでいる。どんな言葉を交わしているかは、生憎と距離が遠くて聞こえない。けれど、脳内で再生させるのは容易かった。
 向こうへ行っても元気でな。離れていても友達だよ。落ち着いたら連絡するから。お前と過ごすの楽しかったぜ――
 また絶対会おうな。
 誰とも知れない生徒の声が、幾度も浮かんでは消えていく。そのたびに、潮風が染みるように胸が痛む。

「捜しましたよ」

 背後から声がした。不意のできごとに驚いて、ビクリと肩が跳ねる。見知った人物の声だが、振り向いて確かめるにはいくらかの勇気を要した。

「鮫島校長」
「あと十分ほどで出航します。そろそろ行きましょうか」

 ゆったりと俺に近付こうとする歩調に、穏やかな表情。きっと真っ直ぐ自分を捜しに来たのだろうに、その様子はまるで散歩のついでを思わせる。俺は校長へ向き直り「すみません」と頭を下げると、彼は二歩分の距離を空けて立ち止まった。
 校長の隣まで行けば、見計らったかのように彼も歩き始めた。未練がましい足取りを訝しむことなく、静かに歩幅を合わせてくれる。

「学生生活はどうだったかね」
「えっ」

 突然の質問だった。思わず立ち止まって校長を見るが、当の彼は目的地を見据えたまま。あたかも天気の話でもしているかのような気軽さのせいで、彼の独り言を耳聡く拾ってしまったのではないかと思った。
 しかし校長も、少し進んだ場所で立ち止まって振り返る。

「失った三年を取り戻すには、やはりつらいものがあったか」

 丸くて穏やかな双眸が、俺の後ろめたい胸中を見透かすようだ。咄嗟に視線を泳がす。

「罪人に課された罰だと解釈するなら安いものでしょう。むしろ温すぎるくらいだ」
「そうか」

 校長の表情が寂しげに歪む。けれどすぐさま元の穏やかさを取り戻し、歩みを再開させた。俺はその低くて広い背中を足早に追いかける。
 肩が並んだ。

「君の在学を許可したのは、なにも君にかつてと同じ孤独を体験させるためではないのだよ」
「それは、どういう?」
「君には……学生という身分でしか味わえない経験をしてほしかった」

 歩みは止まらない。確実に、地面とコンクリートの境界が近付いてくる。この会話を完遂させるには、明らかに距離が足りなかった。もっと話を聞きたい。あるいはここで打ち切ってほしい。そんな二律背反の焦りが湧き上がり、胸を叩く鼓動が早くなる。
 校長は遠くを見つめるように目を細めて口を開く。

「真っ直ぐ勉学に励み、純粋な友情を築いてほしかった。教師という庇護のもと、この学び舎を心の拠り所としてほしかった」

 そして一旦切り、小さく息を吐いてからから言葉を続ける。

「学校というものは、居場所なのだよ。卒業すれば戻れなくなるが、ここで過ごした年月は、確実に君たちの心に残る。その思い出こそが、これから君が大人の世界で生き抜くために必要な居場所だと思わないかね?」

 返事をしようと開きかけた唇は、半開きのまま力を失う。肯定か否定かの二択で済む程度の質問だというのに、どちらの言葉も出てこなかったのだ。
 わからないのだ。卒業すれば容易に戻れないような場所を心の拠り所とする意味が。
 境界を越えて、足音がコツコツと硬質なものへと変化した。別れを惜しむ喧噪が近づき、俺は急にこの場から引き返したくなった。速度に差が生まれ、校長が俺を置いて先に進んでしまう。
 けれど校長の足が止まった。
 踵を引き、ゆっくりとこちらを振り返る。

「ここでの別れは一度きりだ。今日さえ乗り切ってしまえば、再会など案外容易なのだよ」
「矛盾しています。先ほど、卒業すれば戻れなくなると仰っていたじゃないですか」
「それは物理的にこの島へ戻ることの話だ。そんなことをせずとも、君を支えてくれるものはあるだろう」

 校長は小首を傾げた。

「この学園で過ごした記憶の中で、いま君の頭の中に思い浮かぶ人物はいるかね」

 云われるがまま思考に集中させる。自分より一年早く巣立っていった、二人の小さな先輩。それよりも前、俺が招いた厄災を払い、闇から救い出してくれた英雄たち。ダークネスに堕ちるまでは想像すらできなかった数の人が、みな晴れやかな顔をして俺を見ている。ひとつひとつ視線を絡めて彼らの前を通り過ぎていくと、少し離れた場所に立つふたつの影――

「あ……」

 息を呑んだ俺の反応に、校長は満足げに頷く。

「その気持ちこそが、君に復学を許可した理由であり、私が君に託した願いでもあるのだよ」

 さあ、と校長の大きな掌が差し出される。その手を取ろうと踏み出した瞬間、出港を知らせる汽笛が鳴った。その音に反応した校長は俺の横へ回り込み、焦って立ち尽くす背中を叩く。温かくて強い衝撃につんのめりながら、俺は勢いのままに駆け出した。
 振り返ると、きらきらと少年のように煌めく双眸があった。

「さあ行きなさい。ここを出ても、今の君ならもう大丈夫だ」

 その太鼓判に根拠はない。咄嗟に否定しようと開きかけた口は、二度目の汽笛によって中断された。
 あと五分で船は出てしまう。校長の願い通りに過ごせなかった心残りと、それを伝えられなかった後悔を抱えたまま、慌ただしさに揉まれて乗船した。
 居残った在校生が皆、諸手を挙げて振っている。再会の約束を交えた別れの言葉を張り上げて、カモメの鳴き声を掻き消している。姦しさは学生特有の生気に満ちていて、圧倒された俺は、ただ見下ろすだけだ。群衆から僅かに離れたところに立つ校長は、手こそ振っていないものの、連中によく似た顔をしていた。
 三度目の汽笛が鳴る。長く煙を吐き出しながら、名残惜しそうに離岸していく。開いていく距離に反比例して、在校生の声音がより感極まったものに変わる。それでも、彼らの声は徐々に船まで届かなくなっていった。無情だな、と脳内の俺が呟く。
 海風に揺れる髪を余所に、少しずつ確実に小さくなっていく島を眺める。頭の中は心残りと後悔とに満たされていて、いま自分はどんなに乱された髪型をしているのか、まったく気に留める余裕がない。

 ――今の君ならもう大丈夫だ。

 校長の最後の言葉だ。頼もしさなど微塵も感じられず、むしろ彼はこの三年間、俺の何を見てきたのだろうと疑問になる。復学しても級友に恵まれず、失踪前と同じように独りで過ごすことの多かった学生生活は、ただ贖罪のためにと耐える日々だった。
 最初の二年はティラノ剣山や、早乙女レイなどが、事情を知る者として共に行動することが多かった。プロリーグで多忙なエド・フェニックスも、島へ訪れた日には必ず顔を出してくれていた。
 彼らがいなくなると、俺に近付く者はめっきり減った。影響力の強いレイたちの存在がなくなったことで、俺と付き合う煩わしさから解放されたのかとも思ったが、どうやら違うらしい。必要なときには声をかけてくれたし、デュエルに誘われることもあった。それが次第になくなっていった本当の原因は、どう考えても俺自身にある。彼らは何度も歩み寄ってくれたのに、その手を取るばかりで俺の方から手を伸ばすことを、ほとんどしなかったのだ。
 居心地が悪くなって初めて、同じ過ちを繰り返していることに気がついた。後悔して、自己嫌悪して、夜中にひとりで自室に過ごすことが苦痛で堪らなかった。慰めの言葉をかけてくれるオネストを直視できず、もう一度ダークネスに沈んでしまいたいとすら思った。
 明るい未来を、輝かしい変化を見せてくれた彼らはもういない。寮のベッドの上で膝を抱えて顔を埋める。寂しさに喉が詰まり、呼吸ができなくなって繰り返し嘔吐く。ぼたぼたとシーツに落ちる涙。痛みか、苦しさか、あるいは別の感情か。その源泉を探すことすら苦痛で耳を塞いだ。そんな学生生活だった。
 箱庭での生活がこんなにもつらいのに、外へ出たらどうなるのだろう。肉親という枷で身動きが取れないまま一生を磨り潰すのか、それとも世界の広さに打ちのめされてひとつも結果を残せないのか。あるいは現実に殴打されて、もはや依存でしかなかった理想を完膚なきまでに砕かれるのか。
 ダークネスの水底で見せてくれた三つの幻。その源は彼ら自身の心にある不安や恐怖だ。つまり彼らは、大なり小なりそんな未来を危惧している。それなのに、ひとり残らず卒業して今もなお活躍しているのだ。
 何が原動力となったのだろう。尋ねようにも、俺の携帯電話には彼らの連絡先がない。それこそが、卒業後の離別を恐れて変化できなかった証しだ。

「…………」

 気付けば伏せていた顔を上げる。島は姿を消し、一本の水平線が果てなく広がっている。あれほど戻りたいと思っていたのに、視界から見えなくなると、その気持ちはすっかり凪いでしまった。ただ学生時代を懐かしむような回顧が、繰り返し脳裏に描かれる。甲板でどれだけぼんやりしていただろうかと腕時計に視線を落としかけると、船内アナウンスを知らせるチャイムが鳴った。

『まもなく、童実野埠頭に到着します。乗船中の卒業生は、船室へ戻り、待機していてください。繰り返します――』

 海中を泳ぐ魚を眺めていた周囲が、踵を返してぞろぞろと引いていく。ふたつの扉口には徐々に行列ができていくが、それを不快に思っている様子は見られない。級友との最後の時間を楽しむように談笑を続けている。在学中の思い出に花を咲かせながら、乗船前と似たり寄ったりな約束を交わしているのだろう。彼らは必ず二人以上のグループで動いている。その列に単身で向かうのは気が引けた。
 俺は、話し声が聞こえなくなったところで、ようやく船室へ歩き出した。

 船に持ち込んだ手荷物はボストンバッグがひとつだけだ。廃寮に残されていた荷物は、どれも朽ちて埃を被り、とても使えたものではなかった。それでも、どうしても手元に残しておきたいものは、鮫島校長に無理を云って立ち入り許可を取り回収した。
 それが、このボストンバッグの中に入っている。軽くはないが、埋まり切らなかった空白が残っている。
 俺は後ろの席に腰掛けて、バッグを膝に載せた。船窓に視線を向ければ、コンクリートで埋め立てられた擬似的な陸地に、大小さまざまな船が整然と並んでいる。
 もう島へ戻ることは叶わない。その事実に気を重くしていると、ふとある一角にできている人だかりに目が留まった。たくさんの大人と子供。中には年寄りも混じっていて、制服こそ着ていないものの、乗船前に見た群衆とよく似ている。きっと、この船にいる誰かを出迎えにやってきたのだ。俺はすぐにそう思った。
 狭い丸窓に身を乗り出し、右へ左へ視線を動かす。自分を待ってくれる人なんて、いるはずがない。頭では理解していても、まるで落胆と失望の実績を積み上げるかのように捜す。そして、やはり見知った顔がないとわかると、脱力のままに深く嘆息した。
 ゼロにも等しい確率に縋るほど飢えているのか。自分と同じ声がそう云って嘲笑う。項垂れる俺の肩を、いつの間にか顕現していたオネストの手が触れる。とはいえ実体を持たないから、触れられているかのように錯覚するだけだ。仄かな温度が両肩に染みる。その間に、無事に接岸できたことを知らせるアナウンスが船内に流れた。
 最後にタラップを踏んだのは俺だ。眼下では、学生生活を終えた同級生たちが家族の出迎えを受けて涙ぐんでいる。そういえば、施設の人は自分が卒業したことを知っているのだろうか。虚しい疑問を俺は思考の外へ追いやる。
 たっぷりと時間をかけてタラップを降り、コンクリートの地面にようやく足をつける。波に揺れていた感覚が残る身体。ふわふわと落ち着かない。大きく伸びをして、深く潮風を吸い込んで、少しずつ陸地の感覚を取り戻そうとした。
 足はどちらを先に出せば歩けるのだっけ。直感に任せて僅かに前傾になれば右足が出て、そのままどこへともなく進み出す。

「藤原ッ!」

 誰かが、俺と同じ名字を叫んだ。距離の遠さを感じるが、その声は確かに俺の耳に届いてしまった。反射的に歩みを止め、しかしすぐに同姓の他人だと結論づけてかぶりを振る。もう一度歩きだそうとした瞬間、今度は別の声が同じ名字を叫ぶ。

「藤原!」

 低くて丸みのある声。彼が声を張り上げるなんて珍しい。いや待て。そもそもってなんだ。

「藤原!」

 最初と同じ声が、また名前を呼んでいる。先ほどよりも大きいと感じるのは、その声の主が近付いているに他ならない。
 違う。名字は同じだが人違いだ。他人の空似などどこにでも転がっているのだから、恥をかきたくなければさっさと俺から離れてくれ。
 脳内で必死にそう訴えても、当然だが連中に届くことはなく、俺を追い詰めるかのように背後から迫ってくる。逃げても無駄だ。そう云われているような気がして、俺は肩の力を抜く。

「ふじわら!」

 両肩に、違う感触の掌が当たった。

「どうして……」

 俺は顔を上げただけで、振り返る勇気が出なかった。説教を待つ子供のように身構えていると、上機嫌に弾んだ声が「当たり前さ」と云った。

「君が卒業するときは、必ず迎えに行くって約束したじゃないか。ねえ、亮?」
「ああ」

 両脇には、制服ではない服装で立っている。どうやら社会人らしくスーツ姿で、同じ年齢であるはずなのに、見慣れない恰好のせいか随分と年上に感じた。
 二人の顔つきはとても大人びたものになっていた。記憶にあった少年らしさはすっかり抜け落ち、酸いも甘いもかみ分けた後のように穏やかだ。学園を離れると、人はこんなにも変化するものなのか。
 俺が一言も発せないでいると、話の口火を切るように俺の肩を軽く叩く。

「鮫島校長から聞いた」
「えっ」
「島を出ることに躊躇いがあるそうだな」
「それは……」
「だが、お前なら大丈夫だろう。無事にここまで辿り着けた」

 校長の言葉がまたしても再生される。声質こそ違うが、どう考えても二人のニュアンスに差違はない。やがて吹雪が呆れたように「もう、亮ったら」と笑った。

「そんな云い方してると、また翔くんに怒られるよ」

 そこでようやく、二人の顔をしっかり見た。吹雪に図星を突かれた丸藤は、気恥ずかしげに目を逸らしていた。
 そして当の吹雪は、楽しげに目を細めて俺を見つめていた。

「君の目から見て、僕たちは変わってしまったかも知れないね。けれど僕も亮も、君の友であることは、卒業した今も変わらないと信じているよ。それぞれの事情で卒業の時期がズレてしまっただけだからね」
「学年の差など、俺たちにとっては何の障害にもならない。先に出て行かなければならないのなら、ここで後続を待てばいいだけだ」
「吹雪……丸藤……」
「僕だって先に卒業してしまった亮の変化に戸惑ったものさ。でも今度、僕が卒業する番になったら……亮は昔と変わらない顔で出迎えてくれた」

 彼らの言葉に、気を遣っているような不自然さは感じられない。ただ過去の彼らを、今の俺の状況と重ねながら語っているだけだ。

「まぁ、あの頃は亮も学園にいたから、厳密には一緒に卒業したようなものだけどね!」

 そして、豪快に笑い飛ばす。目を逸らしたままの丸藤は、心なしか頬が赤らんでいるように見える。

「俺はすぐにでも転院するつもりだったんだが……」
「ここにいろって翔くんが云ったんだよね。英断じゃないかな。君は、目を離すとどんな無茶をするかわからないからね」
「…………」

 軽快なやり取りも、記憶の頃と変わらない。

「だから、僕たちがいる限り……君は絶対にひとりじゃないんだよ、藤原」

 眩しい笑顔だった。昼も近くなり随分と高くまで昇った太陽に反射していて、俺は思わず目を細める。

「もう俺達を追いかける必要はなくなった……やっと、三人で肩を並べられる」
「そうだね。今後は親友として、たとえ藤原や亮が嫌がっても、逢いに行くよ」

 そう云うと、またしても鮫島校長の言葉が甦った。確信を持った声音がずっと疑問だったけれど、二人の表情を見てはっとする。あの人は、島を出た後も俺を待ってくれる人がいると知っていたのだ。
 気を利かせて根回しをしてくれたのかも知れない。あるいは、今日が卒業式だと気付いたどちらかが、出迎えに誘ったのかも知れない。どちらにせよ、結果的に二人は俺を待つという選択をしてくれた。たったそれだけの小さな事実が、古傷のような恐怖にすっと浸透していく。まるふじ、ふぶき。ずっと焦がれていた二人の名前を口にしかけて、じわりと視界が歪んだ。春風に撫ぜられた頬がやけに冷える。
 二人は驚いた顔で瞬きを繰り返し、やがて笑顔に戻った。困ったような、照れくさいような、そんな不器用な顔で震える俺の肩や背中を撫でてくれる。異なったふたつの温もりが何よりも優しくて、涙はしばらく止まらなかった。

 同じ船に乗った卒業生も、出迎えの家族ももういない。
 無人にも等しい埠頭の一角で誰よりも長く再会を噛み締めた三人は、赤く腫らした目元を見せ合いながら小さく笑う。
 その間を、どこからともなく跳んできた薄桃色が――ふわりと舞った。