パラノイアは水槽に沈む ※R18G - 5/6

 自分のことを天才だと称しているだけあって、僵尸の技術を身につけるのにさほど苦労はしなかった。この国にはまだ土葬が主流だったし誰でも葬儀に参列することができたからだ。サリエリの遺体と対面し、埋葬を終えるまでの一部始終を群衆の陰からずっと眺めていた。
 親友、と呼ぶには余りにも乾いた関係だった。なのにいざ喪失を自覚すると、心に空いた穴は途方もなく大きかった。目が痛くなる程に鮮やかであるはずの街並みが、一気に灰色へくすんでゆく。まるで底が見えない空洞の中へ、目に映る色彩を放り捨ててしまったかのようだ。
 帳場で頬杖を付ながら店番をする度にサリエリの声が聞こえるような気がした。もちろん幻聴だ。けれどそれが何日か続いて「そうか、彼が大切だったのか」と、今更ながら気が付いた。
 一度自覚すれば、まるで堰を切ったように記憶が溢れ出す。声はより鮮明に聞こえるようになり、特に手慰みに音楽を奏でた後は顕著だった。賞賛と小言と歌声と。どれも僕の脳が誤作動を起こして発せられるもの。他の人には聞こえない。気が狂いそうだった。

〝若くして官吏の要職に就いていた異邦人、アントニオ・サリエリは、流行病により夭逝した〟

 そう記事が書かれたのは、サリエリの葬儀を終えて一週間が経ってからだった。嗚呼あれから昇進したのか、などと暢気な独り言を零しながら新聞を流し読みしていると、徐々に内容の違和感に眉を顰めた。
 もう一度その記事を最初から、今度はきちんと熟読してゆく。サリエリの死因には流行病と書かれているが、どうやらそれだけではなさそうだった。
 彼は巻き込まれたか標的にされたかしたのだ。役人のくだらない謀略に。
 そこにどんな思惑があったかなどは知らないし知りたくもない。ただその事実が見えた瞬間、僕の中で真っ黒い泥のような感情が湧き出したのが解った。サリエリは良くも悪くも善人の模範だった。だからこそ狙われたのだろう。彼は仕事に私情を持ち込まず、ただひたすらに市民に奉仕せんがためにずっと働いていたから。そしてそれは、僕の前はもちろん、自身の職場でもそうだったのだろう。
 だから、狙われた。巻き込まれた。標的にされた。
 表現など最早どうでもいい。あらゆるくだらない陰謀や悪意が重なって、サリエリが命を落としたことは紛れもない事実なのだから。

   ◆

「こっちだよ」
 辛気臭い顔を貼り付けたまま、まんまと僕に釣られて付いてきてしまった哀れな羊を診察台のあるあの処理室へ連れて行く。サリエリを治療し、そして殺した場所。そういえばサリエリを僵尸にしたのもここだったな。いろんな角度から命を触った匂いは、どんなに清掃を重ねたところで簡単に消えはしない。サリエリによく似た彼もそれに気付いたのだろう。無機質なまで整然としたこの部屋から噎せ返るほどの鉄錆臭が漂うため、陰湿な顔がより凶悪になっていた。それでも文句のひとつすら飛んでこない。前を歩く僕の背中からただならぬ気配を感じ取っているのだろう。少し恥ずかしいけれど、今の僕はこれから手がける最高のコーダにこの上なく興奮している。他の奴には悟られない自信はあるが、サリエリなら気付くだろう。だから背後の彼にも、同様に勘づかれている気がした。
「ちょっと待っててね」
 診察台から二メートル程離れた場所に男を立たせ、僕は一瞬だけ振り返って微笑む。すると彼は僕の顔を見るなり息を呑んで肩をビクつかせるものだから、僕は笑ってしまいそうになった。すぐに再び背を向け、診察台の奥にある部屋へ歩いて行く。
 活動を止めてから一度も近付かなかった安置室。特に理由はないが、多分無意識の内にサリエリの無惨な姿を見たくないと拒んでいたのではないかと思う。誰の目にも触れさせないように被せたカーテン布の下、新しく用意した水槽の中でサリエリは水中を漂っている。保存しておくためだけの簡素な直方体の中に張られた水は、きっとあの日と同じような赤色に染まっていることだろう。結局、止血処理ができなかったから目覚めと同時に魔力を与えてやらないといけない。近付いて布に触れると、ポケットに入ったサリエリの核が僅かに熱を持ち始めたような気がした。

   ◆

 暫し逡巡した後、キャスターの付いた水槽を押して処置室へ戻る。あの間に逃げられていないか心配だったけれど、杞憂だったらしい。振り返ったときに見た表情を貼り付けたまま、同じ場所に立っている。
 僕はお待たせ、と笑いかけながら男から見て診察台の奥に水槽を止めた。
「それは何だ」
 警戒心を隠そうともせず、男は僕を睨んでいる。至極当たり前の反応過ぎて思わず口端が引き攣った。
「言い忘れてたけど君に合わせたい人がいるんだ。どうせ音楽を披露するなら、彼も一緒にどうかと思ってね」
「そいつは、その中にいるのか?」
「ああそうとも。とても綺麗な声で歌うのさ」
「それは……本当に人、なのか……?」
 男の声が段々と詰まってゆく。僕はとうとう口元だけでなく、目元にも笑いを隠せなくなってしまった。
「当たり前じゃないか」
 声のトーンが上がっている自分が可笑しくて堪らない。
 段々と男が後退りを始めていることには気付いていた。そんなに恐ろしいならとっとと逃げてしまえばいいのに、彼の中で恐怖心よりも僕の背後に出現した大きな布の下が気になるのだろう。そんな得体の知れない好奇心など捨ててしまった方が楽なのに、愚か極まりない。
「では……どうか静粛に」
 診察台の下から二胡を取り出す。徐に弓を弦に添えて目を閉じる。楽器と、これから奏でる音に魔力を込めて、サリエリの頬に指を這わす様を夢想して弓を引いた。
「さあ、公演のはじまりだ」

   ◆

 僕の音楽魔術で倒れ伏した男を全裸にし、診察台の上に横たえる。日焼けを知らない程に真っ白なその肢体は、さながら死蝋のようだ。髪を撫で、頬から始まり、首筋、胸、腹、臍、と順番になぞってゆく。引っかかりのない、滑らかで冷たい肌だった。
 下腹部に到達する。そのまた更に下で力なく草臥れているものに触れて指を止めた。一瞬「なぜ?」と疑問が湧いたが、そもそも彼はサリエリではない。当たり前だ。
 生前のサリエリには陰茎がなかった。所謂宦官というやつである。
 だが出会った当初からそうだった訳ではないはずだ。生前最後に歌ったあの日に覚えた違和感。直接確かめた訳ではないが、まるで情欲を焚き付けるような歌声こそがその証左だろうと思う。あの空白だったふた月の間に、サリエリは自ら切ったのか切り落とされたかしたのだ。目的や理由はどうあれ、変声期を過ぎたカストラートの声は、低いながらも婀娜な響きでもって僕を虜にした。本人にその自覚があるかは解らない。否、多分なかっただろう。声の色は変わっていたが、歌手の表情や仕草はそれまでと何ら変わらなかったから。
 サリエリによって情欲を焚き付けられた僕は、彼に対し劣情染みた感情を抱くようになった。それでも何故かセックスには至っていない。今日まで、ずっと。
 ここはこれからサリエリの下半身になる。
 サリエリにはなかったもの。
 僵尸なのだから、そこを切ろうが残そうが声には何の影響もない。死ぬ直前に発したあの甘やかなテノールのまま。
 だが、残しておくのはどうしても憚られる。これまでのサリエリを否定するような気がして。同じ男なのだから付いてて当たり前だというのに、これがぶら下がっているサリエリの姿をこの男を通して眺めたら、拭えぬ違和感に顔を顰めた。
 巨大な魚を捌くときに用いる鮪包丁を二丁取り出す。ひとつは普通の家庭でよく見かけるタイプのもの。もうひとつは刃渡り六十センチメートル以上もある長大なもの。どちらも切り口は綺麗な方がいいだろうと思い通販で買ったものだ。念のため男に筋弛緩剤を打つ。いよいよ作業開始だ。
 まず初めに男の股間にぶら下がっている陰茎に手をかける。どのよう処置されていたか思考を巡らせるが割と汚い切り口だったのを思い出してやめた。今度はもっと綺麗な断面にしてやろう。竿の根元スレスレに小さい方の鮪包丁を当て、魚を捌くように刃を動かす。骨がないので意外とすんなり切り落とすことに成功した。袋ごと一気に切り落とし、流れ出る血液をタオルで押さえつつ糸の通された縫い針を刺してゆく。糸に使われているのはサリエリの髪の毛だ。患者と同じDNAの素材なら体内に仕込んでも拒絶反応は起きないためそうしている。まあ、相手は僵尸だからどこまで通用するかは判らないが。
 裁縫の練習は何度もした。流石に人間相手に実験する訳にはいかないので革製の布を購入し、それで試した。いや。買った店がここの周辺だから、もしかしたら人皮も混じっていたかも知れない。
 符合が終わると、お次は胴体の切り離しだ。これには大きい方の鮪包丁を使う。太くて丈夫な脊椎が入っているため、相当な体力が腕力が必要だろう。楽器より重いものを持ったことがないため不安しかないが、やるしかない。
「あ、その前に」
 チャンスは一回きり。失敗は許されない。僕は慌てて手を止め水槽へ向かう。
 ほんの一瞬だけ躊躇して、被せたカーテンに手をかけた。バサリと音を立てて床に落ちると、あの日と同じ真っ赤に染まった水の中で人魚がゆらゆらと漂っていた。自立式の小さな脚立を引き寄せて登り、水面に両腕を浸す。サリエリと正面から対峙する。核を抜き去ったときと変わらない寝顔。苦痛から最も遠い表情。ぞっとする程に穏やかで無垢だ。骨っぽいが柔らかい背中に腕を回して水のベッドから引き上げた。だらりと弛緩する肢体はかなり重い。ぶつけて傷が付かないよう細心の注意を払い、脚立を降りて男の隣に横たえた。
(嗚呼……)
 ふたりの顔を見比べて改めて思う。
 同じだ。
 全く同じ顔だ。
 瓜二つだなどという表現では生ぬるい。
 生き写し。或いはドッペルゲンガー。

 ――複製人間クローン

 嗚呼そうだ。複製人間クローンだ。
 この男はそれ程にサリエリと酷似していた。
 顔の造形から骨格、体型に至るまで何もかもが同じ。
 そして声も、瞳の色も、恐らく同じなのだろう。
 人間とは、こうも姿が似通うものなのだろうか。解剖学に明るくないのでよく判らないが、なんとなく、それはあり得ないのではないかと思う。
 今更ながら湧く疑問。

 この男は何者なのだろう?

「……そんなこと、今考えたってしょうがないよね」
 そうだ。今すべきことは、一刻も早くサリエリに人間の脚を付けてやること。それ以外は、はっきり言って些事だ。
 鮪包丁を持ち直す。
 人魚の縫い目を基準に、そこから少しだけ上の位置にマーカーで印を打つ。
 臍より僅かに上。そこへ、僕は刃物を押し込んだ。

   ◆

 上半身と下半身を繋げ終え、空っぽだった胸の中へ再び核を埋め込んだ。そして起動に必要な魔力を送り込むと、漸く人間に戻ったサリエリが長い眠りから覚めた。
「……ん」
「あ、気が付いた?」
 微睡みの渦中にいるように穏やかな呻きを零しながら、徐々に露わになってゆく:酸塊すぐり色の瞳。やっと人型のサリエリが返ってきたことに胸が一杯になる。
「気分はどう?」
 やっと会えた。おかえり。
 言いたいことはいくらでもあったが、出てきた科白は彼の身を案じるものだった。ぼやりとした瞳が僕をじっと見詰める。生まれたての赤ん坊のようにあどけない表情。なんて愛おしいのだろう。
「身体、動かしてみてよ。ちゃんと馴染んでるか確かめたいから」
 そう言ってやればサリエリは無言で徐に両腕を動かした。脳からの指令がきちんと行き渡っているのを確かめて、今度は脚に意識を向けている。ピクリと震える爪先。元は別の人間のものなので上半身よりは動きが鈍い。それでも存外滑らかに動いている様子から、上手く符合できたようだ。人間と同じ動きができると理解した無垢な僵尸は、少しずつ他の部位も動かし始める。首、股関節と確かめて、徐に起き上がった。
 きょろきょろと辺りを見回す瞳は、やがて僕の顔に行き着いた。先程よりは幾分火の点った目つきをしている。
 やがて口端を吊り上げたと思ったら、サリエリはぞっとする笑みを浮かべて言った。

「主に逢わせてくれて感謝する」

 瞬間、けたたましい音を立てて天地がひっくり返った。後頭部に激しい衝撃が襲ってきたかと思うと、揺さぶられるような痛みを覚る。何が起きたのかサッパリ解らない。
 サリエリが、天井を遮るようにして僕の視界を支配している。見たことのない、凶悪な笑みを貼り付けたまま、ギザギザとした歯が覗いている。まるで獣のようだと思った。
「ああ、随分痛かった。ただ下肢を切り離すだけでなく生殖器まで奪うとは予想外だった」
「なんで……記憶が……」
「当たり前だろう。我の活動は一度も止まっていない」
「なっ……」
 混乱する脳が最悪の結論を弾き出した。そんな、ばかな。うそだろう。舌の上からはありったけの否定がぽろぽろと零れ落ちるが、胸中はやけに冷静だ。やっと腑に落ちた。そうだ。でなければ、サリエリと何もかも同じだなんてあり得ない。
「そう、アイツも魔術に詳しかったんだ」
 それにしても、彼はいつの間にこんな奴を作ったのだろう。そもそも僵尸を生み出すには屍肉が必要だ。生きた人間で作ろうとすると、魂魄と核とが反発してどちらも死ぬ。
「厳密には違うらしいが、まあ、そういうことだ」
 男は、サリエリの両腕を動かして僕の首に手をかけてきた。徐々に頸動脈が圧迫されてゆく感覚に引き攣った呻きが漏れる。
「か……ッ、は……」
 少しずつ冷静さを取り戻せた思考は現状の疑問にぶち当たった。サリエリは僵尸だが、核を入れて起動済みの状態だ。この男も核によって動いているとするならば、それはどこに埋まっているのだろう。今はひとつの身体にふたつの魂が入っているような状態だ。それでは魂同士が喧嘩して核が消滅してしまう恐れがある。
 一刻も早く男の活動を止めなければ、サリエリは二度と戻ってこない。
 それだけは――厭だ。
「……ッ!」
「なっ……!?」
 四つん這いになっていた男の腹に足をかけて思い切り蹴り上げてやった。驚愕で男の手元が緩んだタイミングで首を振って解く。そして奴の胸ぐらを掴んで引き倒し、今度は僕が馬乗りになった。
 形勢逆転だ。
「ねえ、サリエリの核はどうしたの?」
「さあな。胸に何かがある感覚はするが、どうやら眠っているらしい」
 メラメラと燃える瞳が僕を射貫く。苦悶のような憎悪のような、激しい感情だ。サリエリもそんな顔をするのかとも思ったけれど、そういえば今、サリエリの身体を支配しているのは名も知らない別の男だ。そいつがサリエリにこんな醜い表情をさせていると思うと吐き気がする。
「サリエリを返せよ」
 無意識に息が上がる。
「それは無理な話だ。我は主に貴様を殺せと命じられていたのだからな」
「なに……?」
「厳密には貴様を名指した訳ではない。主の複製人間クローン技術を悪用される懸念が生まれたとき、その主たる人物を処理せよと命じられていた」
「なんだよそれ。そんなの初耳だ」
「あの技術を使い主を蘇らせるつもりであれば些末なこと。貴様の行為は死者を冒涜する行為だ。この複製人間クローン技術は、臓器疾患で苦しむ民を助けるために生み出されたのだからな」
「そんなの……僵尸を生み出すのと何が違うって言うんだ!」
 聞きたくない。サリエリがそんなことを言っていただなんて。
 これまで僕のしてきたことは無駄だったというのか。どこの馬の骨とも知れない奴にむざむざ殺されても、彼は甘んじて受けるとでも言いたいのか。同じ姿をしているってだけなのに。サリエリの気持ちを代弁したような気になるな!
 魔術を展開し、男の身体を金縛りのように拘束する。
「そうだ……。オマエの核を取り除けばサリエリも目を覚ます……。ねえ、どこにあるか教えろよ。くっ付けた下半身のどこかにあるのは判ってるんだぜ」
「……ッ……ッッ!」
 金縛りと同じ状態だから言葉が発せないのは解っている。心臓よりは小さな物体だが、下半身に限定されているなら場所は自ずと絞られてくる。臍の下、下腹部に指を這わす。すると腹がぴくりと痙攣した。表情も、敵意から焦りに変わっている。なんて判りやすいのだろう。
 ――すぷり。
 魔力を纏った右手をそこに押し当てれば、呆気なく沈んだ。痛みに、引き攣った声なき悲鳴を上げている。身体も動かないため、暴れているというよりは痙攣しているといった方が正しいだろう。少しずつ推し進めてゆくと、手首ほど埋まったところで硬いものに触れた。
「ビンゴ……!」
 しっかりと指で掴み、ゆっくりと取り出す。身体と核とが離れた瞬間、男の活動は停止した。
「…………」
 嗚呼、なんて呆気ない。
 血に塗れた右手を眺める。指先に収まったのは血色の小さな核。サリエリと同じ色。本当に複製人間クローンなのだと、今更ながら気が付いた。詳しい原理は不明だが、男が口にした〝複製人間クローン技術〟とは、僵尸の原理を基に編み出された技術なのだろう。使われている核がサリエリのものと同じだからだ。
 だらだらと出血し続けるサリエリの下腹部を止血し、符合する。大切な身体にまたひとつ傷が付いてしまったのは口惜しいが、あんなアクシデントがあれば仕方のないことだろう。男はサリエリの聖人君子のように言っていたが、これはサリエリであってサリエリではない。性格などは似通っているが、サリエリの記憶を持たない屍肉人形なのだ。だからこれから目覚めるサリエリは、僕の行為を否定しない。否定させない。
 さて、このもうひとつの核はどうしてやろうか。もうひとつ身体を用意すれば二人目を作り出すことができる。だがそれは僕の望むサリエリではない。
 診察台には人間の上半身と、魚の下半身が横たわっている。
「そうだ……。サリエリを愚弄したんだから、記憶がなくても奴にはお仕置きが必要だよね」

 魚の傍らに置いた縫い針がキラリと光った。