天啓とは正にこれだと、このときばかりは神とやらに感謝した。
こんな偶然はまたとないだろう。こんな異国の地に留まったまま、ぴったりのパーツを見付けたのだから。
そいつもまた異国の人間だった。この際名前などどうでもいい。重要なのは欠けてしまった最後のピースを埋めて、大切な作品を完成させてくれる存在だということ。否、作品――というには些か情に寄った関係だけれど、今は上手い表現を考える時間すら惜しい。この期を逃せば二度と会えなくなる。
僕のことを
はやく、はやく。早くサリエリに人間の脚を戻してやりたい。あの醜悪な尾鰭から解き放ってやりたい。
ぼやりと逆上せてゆく思考は、いつしか身体の制御を放棄していた。ぐらりと景色が揺れる。ざり、と地面を擦る音がする。
ふと我に返れば、僕は男の許へ歩き出していた。
◆
僕が住まう街は歓楽街と呼ばれているが、それは夜の顔のことだ。商業区のひとつに分類されているここは、地元客で賑わう市場に隣接しており、昼間は観光客が流れる露店街だ。生鮮食品を扱う延長上に、雑貨屋や菓子屋といった街歩きに特化した店が出店のように並んでいる。店舗の内部には入らせない構造になっていて、そのことから、本来は万人が立ち入っていい店ではないことを意味していた。最初から雑貨屋を営んでいる僕には、全く以て関係のない話ではあるが。
ひと月に一度ある仕入れ注文に出かけたその帰り道。
(ああ、カモにされたんだな)
女性達は同じ亜細亜系の顔立ちをしていたが、この国とは微妙に印象が違っていた。それでも殆ど同胞とも言えそうな彼女らですら、この国は容赦がないらしい。急速に興味が失せて、再び家路を観光客達と変わらない速度で進む。
金髪、茶髪、黒髪。当たり前だが、この地では圧倒的に黒髪が多い。サリエリに合う身体を見つけるには、なるべく銀髪で同じ背格好でありたいところだけれど、そもそも壮年であの見事な銀を持つ男など稀だ。ましてや同じ背格好ともなれば、
だから本音を言えば、実は少し諦め気味でもある。ピアノのペダルが踏めて音楽に造詣が深い人間の脚を探そうにも、それこそ無理な話だ。僕もサリエリも、音楽については狂人と言える程に入れ込んでいるし、何より他者に劣る訳がなかったから。
さて、どうしようか。
「……ん?」
煌めくプラチナが視界の端を掠めた気がして振り返る。見えた後ろ姿に、僕は思わず足を止めた。
(サリ、エリ……?)
服装こそ違えど、その背中は正にサリエリそのものといっても過言ではなかった。太陽に反射する銀の髪は記憶より少々くすんで見えるが、控えめに放つ鈍い光沢が寧ろ上品な印象を持たせている。その少し長めの襟足を赤いリボンで緩く纏めており、風が吹く度にゆらりと揺れていた。薄くストライプが走るダークグレーのスーツ。皺ひとつなく彼の身体に合わせて仕立てられたようなそれはとても上等な物のように見えた。背筋はしゃんと伸びていて、男性的でありながら造形物のようにしなやかさがある。特に腰から踵に向かうラインがいっとう美しい。
ああいった恰好こそ、サリエリに似合いの服装なのだろうと思った。地味な官吏服以外の服装を見たことがないが、とても容易に想像できるからだ。再会が叶ったら、今度は洋服を用意してやろう。今なら彼にぴったりの見立てができる気がする。
気が付いたら、身体が動き出していた。
◆
後ろ姿が余りにもサリエリと酷似していたため、正面の造形は正直期待していなかった。が、そんな諦めすらこの男は裏切ってくれた。
ドッペルゲンガーとは正にこのことだ。血のように真っ赤な瞳も、すらりと伸びる手足も、目線の位置も、何もかもが同じといっても過言ではない。強いて違いを挙げるとすれば、顔つきが少々辛気臭いのと病的なまでに肌が白いこと位だろう。些末なことだ。何より彼の手にはヴァイオリンケースがある。サリエリと同じ姿をしていて、更に音楽に造詣が深いともあれば完璧だ。もう彼以外に考えられない。
道なりに歩いていた身体の向きが変わる。人の少なさそうな飲食店に入っていくのを見届け、僕も後に続く。客も疎らな薄暗い店内を見渡すと、男は最奥にあるふたりがけの席に座っていた。右隣の席は空いている。迷わずそこへ行き、同じ向きに腰掛けた。
暫く待って様子を窺ってみる。すると、ひとりの店員が男の座るテーブルの前に立つと、何やら置いて無言で去って行った。蒸籠だ。焼売か、小籠包か、はたまた別の物か。今は夕方に差し掛かりだした時間帯。昼食には遅過ぎるし、夕食には早過ぎる。
男は陰湿そうな顔を幾らか綻ばせながらそわそわと蓋に手をかけていた。余程その中の物が気になるのだろう。そういえば生前のサリエリがとある茶屋へ一緒に出かけたときに注文した甘い点心を食べる際の表情によく似ている。殆ど同じ顔であるため、思わず錯覚してしまいそうになる。不用意に声をかけてしまいそうになる。「美味しい?」と、向かいの席に移動して頬杖を付ながらその顔を永遠に眺めていたくなる。そのときは何でもない日常の一幕だったもの程、取り戻せない過去であると自覚した瞬間言い知れない恋しさに襲われるものだ。同時に異形にされたサリエリの表情も思い出してしまい、僕の胸に黒い泥が流れ込む。美しかった思い出が酷く濁ったような気がして、僅かに呼吸が乱れた。
蒸籠の蓋がいよいよ開けられる。ふわりと立ち上る湯気からは蒸された小麦が香る。そろそろと両手を差し込み取り出されたそれは、とある果実を真似て作った饅頭だった。
(うそ……だろ……)
天啓、だなんて脳天気なことを考えていたけれど撤回しよう。なぜ。どうして神とやらはそこまで残酷な夢を見せるのだろう。否、これが夢ならどれ程よかったことだろう。思い出の延長のような、あるいは補完のような、余りにも親和性が高くそして理想的過ぎる光景を目にして当たり前であるはずである現実を失ってゆく。さりえり、さりえり。微動する唇は音を発せられなかった。
両手で掬い上げるように持ち上げ、その薄い唇で桃饅頭を食む男の相貌は、薄らと赤みを帯びている。溶け落ちてしまいそうな程に緩んだ目元。眦から放射状に走る小さな皺ですら、あのサリエリと同じ。
「……何か用か?」
「えっ」
それが今は、きりりと引き締まった顔に戻って僕を射貫いている。
まるで不審者を見るような怪訝な眼差しだ。サリエリのときには一度も見なかった表情。悪くないと思った。
「ああ、ごめん。ちょっと昔の友人に似ていると思ってさ」
「こんな姿をしている者が他にもいるのか?」
「まあね」
本当のことを言えば、君はどんな表情をするだろう。
男は相変わらず饅頭を食べながら僕を睨み付けていた。
「それよりさ……その饅頭、好物なの?」
どうやって彼を引き込もう。普段なら、よく回る口だなんて言われるくらい饒舌なのに、初恋の人を前にするみたいに何も言葉が浮かんでこない。心臓が五月蠅く胸を叩く。この緊張が相手に伝わってはいないだろうか。
そういう訳ではないのだが、と少々言葉を濁らせて、男は少し困ったように笑った。
「過去に仕えていた主人がこの菓子を好んで食べていてな。我も一度口にしてみたいと思ったのだ」
流石、主が好むだけのことはある。そう口にする男の音は穏やかで、甘やかで。まるで酔ったように脳がぐらついた。
「お前の友人とやらも、この甘味を好んでいたのか?」
ああそうさ。大好物のひとつだったとも。
「そうか。もしその者と会う機会があれば、是非他の甘味について話を聞きたいものだ」
「なら聞いてみる?」
「なんだと?」
饅頭を食べる手が止まった。思わぬ提案に目を丸くしている。男の全意識が僕に向けられている事実に、喚起にも似た興奮を覚えた。
彼は菓子には目がないからとても詳しいと思うよ。今なら僕の店で留守番をしているから行ってみるといい。嘘は吐いていない。が、全てが真実という訳でもない。やっと本調子になりつつある僕の舌が巧みに動き、男を誘う。
そして極めつけはこの科白だ。僕は男の膝に乗るヴァイオリンケースを一瞥し口の端を吊り上げた。
「あと僕の店に二胡とか琵琶とかがあるんだけど……興味ない?」
そう言って席を立つと、釣られるようにして男も立ち上がった。じゃあ行こうかと彼を店の外へ促しつつ、眼下には囓られたままの桃饅頭が映る。可哀想に、なんて脳内で呟きながら、この男もまた音楽狂いなのだと安堵した。
ねえサリエリ。やっと見付けたよ。君にぴったりの身体。
失われていた音楽漬けの日々が漸く戻ってくる。過去は現在に、思い出はまた新たなページを刻むだろう。最高の結末を思い描き、昂ぶる心は徐々に興奮状態になってゆく。それを必死に理性で押し留め、僕は男の背中を追う。
男の名前は聞かなかった。
そして僕も、彼に名乗ることはしなかった。