パラノイアは水槽に沈む ※R18G - 3/6

〝若くして官吏の要職に就いていた異邦人、アントニオ・サリエリは、流行病により夭逝した〟

 世間ではそのように囁かれ、街の者は誰ひとりその不自然さや原因について疑問を唱えなかった。

 サリエリと初めて会ったのは、季節外れの雷雨に見舞われた日のこと。歓楽街の片隅で営む僕の雑貨屋へ雨宿りに来たのが始まりだった。
 灰を被ったような銀髪に血の色が浮き出た赤い瞳が印象的の、目立つ男。自分で言うのも何だけれど、閉塞感の強いこの国に異国人が定住しているだなんて珍しいと思った。僕の母国でも見たことがない色味を持つの彼が役人の恰好をしていて、その姿が余りにもちぐはぐで仮装かと勘違いしそうになった程だ。
 だから、このときの僕はそんな彼に興味を持ったのだろう。確か、僕の方から声をかけた気がする。自分の店だし当たり前なのだけれど、それでもどちらが先に声をかけたかなんて割に曖昧なものだ。
「こんな場所に役人がいるなんて、何かあったの」
 そんなようなことを尋ねると、返ってきた言葉はまさかの「道に迷った」だった。まだ入庁して間もないらしい彼は、余りにも整然と整備された景色に自分の位置を把握することができず、ここがどこだか判らないまま彷徨っていたら雨に降られたのだと言う。
 確かにこの街は、治安はさほどではないが街並みは整然としている。殆ど直線で結ばれ交わる道路の両脇に立ち並ぶのは、似た風貌の建物達。区画毎にそれなりな特色は持たせてあるけれど、住宅街は特に没個性の塊だ。確かに、慣れない土地がそんな有様では迷うのも必然だろう。
 彼は大量に含んだ雨粒を床に垂らしまくりながら、雨宿りさせてほしいと言った。少し創作物めいた、けれど探してみれば割とどこにでもありふれていそうな馴れ初め。それがまさか何年もの付き合いになるだなんて、当時の僕は思いもしなかっただろう。
 次の日、彼が雨宿りのお礼にと再び訪ねてきたところから、僕とサリエリの関係は始まった。
 サリエリは僕の音楽を愛してくれた。どんな曲を作曲しても、どんな風に既存曲をアレンジしても、素晴らしい、天才だと言って褒めてくれた。長い前髪のせいで普段は暗い目元が、このときばかりは影など全部吹き飛ばして満面の笑みを浮かべるのだ。大ぶりになってゆく手振りは興奮の証。透き通るテノールが歌うような抑揚を持ち始めたら恍惚の証。第一印象は陰湿で神経質そうな奴だと思っていたのに、その実は驚く程に情熱的なロマンチストだった。弁舌に熱が籠もる度に上気する頬はまるで情事を思わせる程に甘やかで、その蕩け落ちそうな目元に僕は何度勘違いしそうになったことだろう。彼が僕に惹かれていたのは間違いない。
 そして僕も、同じだけサリエリに惹かれていた。僕は、自分の奏でるピアノに合わせて紡ぐ、甘い歌声が特に気に入っていたのだ。サリエリ程の語彙力はないけれど、一曲聴き終える度に感想を伝えていた。なけなしの褒め言葉を精一杯掻き集めて、積み木を触るときみたいに組み立ててサリエリに話す。僕はあまり表情が動かないから、それなりに真剣に考えて語った言葉がきちんと伝わっていたか、いつもちょっぴり不安だった。

 表情豊かな季節の移り変わりを共に巡った。出会った頃と変わらず、狂人が如く音楽に身を浸し続けながら五度目の夏を迎えた。
 その年は不穏な星が巡っていた。病害や災害によって作物や家畜は軒並み駄目になり、海産物も長い期間の不漁が続く。道行く住人達の顔には余裕がなくなり、比較的治安がいいとされていた区画ですら住人同士のいざこざが絶えなくなった。
 その頃からだろうか。サリエリが僕の店に顔を出さなくなったのは。
 最初は街の混乱処理に追われて忙しいのだろうと気にも留めていなかった。彼がここに来る頻度なんてまちまちだったし、何よりサリエリは役人だ。街が異常事態に見舞われれば、沈静化のために動くのが仕事である。小耳に挟んだが、中には星を読んで天気や吉凶などを占うなんていう魔術的な部門もあるらしい。今最も忙しそうなところだし、もしかしたらサリエリはそこにいるかも知れない。そんな程度にしか思っていなかった。

 だから、僕はずっと後悔している。不吉な星が街に留まってからふた月程が経過したあの日、やっと再会したサリエリの姿にすら、最初は何の疑問も持たなかったのだから。
 今なら、そんな過去の自分を殺してやりたいとすら思う。
 結果的に取り返しの付かない結末になってしまったから。

 その日は雨が降っていたと思う。真昼にも関わらず街は薄暗く、どんよりと重い空気が渦巻いていたので多分そうだ。
 そうだ。あの日のサリエリも濡れていた。出会った日みたく全身ずぶ濡れになっていたのだ。急いでいたのか、息は上がり頬は薄らと朱が走っていた。そして僕は、いつも通り客の来ない店で暇を持て余していたのだ。
「そんなに急いでどうしたんだよ?」
 ごくありふれた問いだったと思う。するとサリエリは息を整えたあと、くすんだ瞳を綻ばせて笑った。「お前の曲が聴きたくて」と。
 いつも通りだった。いつも通り、風邪を引くかも知れないという懸念などそっちのけで彼は僕の音楽を強請った。本当にいつも通りだったのだ。
 今思えばサリエリは見るからに窶れていた。布地の多い官吏服はだぼつき、袖口から伸びる手は筋が浮き、頬は削げ落ち瞳は影と隈に沈み、まるで十歳ほど老け込んだよう。明らかに異常な姿なのに、僕はただ激務で疲れていただけだろうと高を括っていたのだ。だって、僕が奏でる曲を聴く彼の表情はとても幸せそうだったから。
 一頻り鑑賞したあと、ピアノの縁に指を這わせてサリエリは言った。
「今度は歌がうたいたい」
 もちろん叶えてやった。僕はもう一度ピアノ椅子に腰掛け、共作した中で最もお気に入りの一曲をチョイスしてやる。彼の好物である甘味を食べたときに見た表情を基に作った曲。幼い少女が恋をするような、コロコロとしたサウンドをスタッカートも交えて演奏した。
 するとどうだろう。いつもなら伴奏と同じくらい無邪気な抑揚で紡がれるはずの歌声が、今回ばかりは全く違う色を纏っていた。情熱的、と言えば聞こえはいいが、これは寧ろ婀娜っぽい。いつぞやに僕を捕まえようとしていた商売女を思い出す。眠らぬ歓楽街の一角で僕を見つけた女が、豊満な胸元を押しつけて店に誘ったのだ。顔立ちは悪くないが、こうも見え透いた誘惑をされてしまえば冷めてしまう。そのときの僕は早々に立ち去ったのだが、これはそうもいかなかった。
 ドクン、と胸が大きく脈打った感覚が忘れられない。急激に酸素が吸引できなくなり、高山にいるときみたいに息が苦しかった。何より顔に熱が集中していた。あつくてあつくて、指はきちんと動いているけれど歌うサリエリから目が離せなかった。
 サリエリの歌声が変わっていた。下手になった訳ではない。ただ、不要な場所で必要以上に色が匂い立っていった。それはきっと技術的なものではなく、彼の内側によるものだろう。それこそ価値観が変わったというレベルだ。
 ――サリエリに何があった?
 このときになって漸く、僕はサリエリの異変に気が付いた。途中で曲を止めるのは僕のポリシーに反するから最後まで演奏するしかない。今までで一番長いと感じる時間だったと思う。
 やっと曲が終わり、火照る顔を無視して僕は問い質した。けれどサリエリは弱々しく微笑んで、「そうか、やはり気付いたのか」と言うだけだった。
 何かあると判っているのに、何も聞けなかった。サリエリが頑なに喋ろうとしなかったからだ。ただ笑って、もっと音楽に身を沈めていたいと強請るだけだった。何もできない僕は、ただサリエリの我が儘に応え続けていた。

 それから数日、サリエリの葬儀が執り行われたとの知らせを聞いた。