パラノイアは水槽に沈む ※R18G - 2/6

「……ん」
「あ、気が付いた?」
 震える瞼に気付いて診察台に目を向けると、僅かな呻きと共に真紅が顕わになった。ぼんやりと夢見心地気味に虚ろな瞳は、まるで水が揺蕩うように揺れている。やがて僕の声を拾い、天井が見慣れたものだと自覚すると、徐々に光を取り戻していった。少しずつパスが強くなってゆくのを感じる。意識を手放して省エネ状態を保っていたのが、覚醒したことで稼働に必要な魔力が増えたのだろう。つい先程までそれすらできない程に衰弱していたのが嘘のように僕の魔力を喰らっている。
「気分はどう?」
 サリエリの状態など聞くまでもない。何せ僕が生み出した僵尸だからだ。それでも聞かずにいられないのは、サリエリの声が聞きたいから。水槽の中に閉じ込められている姿をずっと見ていたのに、碌に声が聞けなかったのが不安で仕方がないのだ。
 サリエリの下半身は、見つからなかった。
 否、あったにはあったのだ。けれど使えなかった。切り落としたまま残っていたそれは、余りにも不衛生な場所で放置されていたせいで予想より腐敗が進んでいたのだ。バクテリアに分解されてぐずぐずになった肉片には蛆虫がたかり、強烈な腐臭を漂わせていた。幾らサリエリの身体の一部とはいっても、あんな状態になってしまえばどうしようもない。諦めるしかなかった。
 仕方なく諦めてサリエリ本体だけを持ち帰った。下肢は、未だ得体の知れない魚のまま。無理に切り離せば止血すらままならなくなると思って、そのままにしておいた。応急処置はしたが完全な止血には至っておらず、腰に巻いた包帯が赤く染まっている。彼が目覚める前に痛覚を遮断しておいたから、痛みにのたうち回るなんてことにはならないけれど。
「なぜ……まだ、生きているのだ……」
 思考に耽るほど長い沈黙を経て漸く紡がれた声は、弱々しく掠れていた。きちんと焦点は結んであっていて意識もはっきりしているのに、今にも消えてしまいそうだ。
「僕が君を見殺しにする訳ないだろ」
「だが、私はもう用済みだろう……?」
 僕は眉を顰める。サリエリは何を言っているのだろう。続きを促すために「なんで?」と問うてやる。
 サリエリは小さく、自嘲するように笑った。
「僵尸とは、屍肉を用いて生み出す使い魔のようなものだ。主の手となり足となり、時には目や耳にもなり、使命を全うする。そんな私が、今、重要な移動手段である足を、失ったとあれば……これまで賜った任務の、半分もこなせなくなるだろう」
 サリエリはずっと天井を眺めている。その赤い目が気に入っているのだと前に話したはずなのに、ちっとも僕と目を合わせてくれない。彼は何を言っている? 君の言う通り僕の使い魔であるのに、僕の望みを汲んでくれない。ぽつり、ぽつり、と。まるで雫を垂らすように、サリエリは語り続ける。
「無限ではない魔力リソースを割いてもらうことで、私は存在している。ならば私は、主の思う通りに動かねばならない。つまり――」
「つまり、君にぴったりの脚さえ見付かれば完璧だろ」
 話を途中で遮られて、サリエリは漸く僕の方を見てくれた。まだ本調子ではないから動きは緩慢なものだったけれど、普段より大きく見開かれた瞳は驚愕の色を宿していた。
 それもそうだろう。僕の提案は、サリエリが望むものと全く違うのだから。
「駄目だ。お前が罪人になってしまう」
 ほらね。
「そんなの知ったことかよ。君を手元に置いておくためなら、多少のリスクも覚悟するさ」
「それは最早リスクでも何でもない。人の道から外れている」
「死人の君が、道理について説くのかい? 面白いな」
「面白がっている場合ではない」
 診察台の縁を掴み上体を起こそうとしている。それは生前の彼が僕を叱ろうとするときの表情によく似ていた。今にも怒鳴らんとする程に険しい顔。どうやら座って僕の肩にでも掴みかかりたいらしい。が、下半身を失った身体では不可能だ。痛覚がないため、激痛に襲われて諦めるという選択肢はないらしい。
 そういえば声に芯が通るようになっている。きっと、予想外な僕の発言で頭に血が上っているのだろう。完全に冷静さを失っているから、僕がサリエリの胸に手を伸ばしていることに気付いていないようだった。失った感覚を呼び起こすように、魔力を送り込む。
「何故私に固執する? 思うように動かなくなった僵尸の末路など、廃棄しか道はないだろう。何故私なのだ。……私のような僵尸など、どこにでもありふれているというのに――ッ!?」

 言葉が途切れた刹那、サリエリの身体がびくりと跳ねた。

「あ゛、があ゛あ゛あ゛あ゛ァァァ!」
 獣の咆哮のような悲鳴を上げて仰け反り、肩甲骨が浮き上がる。すると魚との縫い目が僅かにでも引っ張られる恰好になり、患部に巻かれた包帯がじわじわと赤い染みを作っていった。目は眼球が零れんばかりに見開き、指先は爪を剥がす勢いで診察台を引っ掻いている。
 首を振る度に飛び散る雫は、果たして汗によるものか。それとも別のものか。
 傷口が開き、出血量が増し、意図せず呼び戻された痛覚にのたうち回る姿は、水槽の中に捕らわれていたときの彼と重なった。
 やっぱり、美しいとは思わなかった。
「あ゛ァ、ぐ、あ゛……ま、で……なぜ……ッ!」
 息を詰まらせながら僕の方を向く。激痛で歪んだ顔は、けれどどこか悲壮さを滲ませていた。血だらけの手に力を入れて、狭い診察台の上を必死に這いずり、少しでも僕に近付こうとしている。平時の僕ならそんなサリエリの殊勝な姿に愛おしさを覚えるところだけれど、今は驚く程に凪いでいた。壁一枚隔てたような心地で、ただただ無感情に眺めている。
 僕の胸の内には、別の考えが浮かんでいた。
 サリエリの意識がここにある今、どんなに新しい身体を用意したところで喜んではくれないだろう。寧ろ苦虫を噛み潰したような顔をして僕を咎めるはずだ。僕がどれだけサリエリのことを想ってとった行動でも、彼が〝人として間違っている〟と判断されてしまえば、それは無意味な行いに変わる。
 生前からずっと僕のことを半ば庇護対象として見ていたから致し方ないにしても、正直いって煩わしい。
 そんなことはわかっているんだよ。でも道理とサリエリを天秤にかけて吟味した結果、僕の皿はサリエリの方に傾いた。ただそれだけなのだ。自分で考えて導き出した結論を、他人は愚か死人にすら口出しされるなど御免だ。
「サリエリ」
 だから、その五月蠅い口は一度封じなければ。
「しばらくの間、眠ってておくれよ。大丈夫、すぐにまた会えるから」
 痛みに支配されていたサリエリの表情は、みるみる驚愕に上塗りされてゆく。努めて静かな声音で、かつ穏やかな表情で言ってあげたのに、どうしてそんな顔をするのだろう。
 湧いた疑問はすぐに霧散した。そうだ。僕もサリエリも、生前から何一つ隠し事が成功した試しがなかったではないか。きっと僕の思惑を察してしまったのだろう。
(可笑しな奴。遠回しにも君の方から殺してくれって言ったじゃないか)
 サリエリの胸に、もう一度手を伸ばす。今度は気付いたみたいで、痛む身体を捩って必死に逃げようとしていた。けれど、余計なものがくっ付いているせいで、動きは非常に緩慢だ。
 すぐに追いついた。
「や……やめろ……!」
 ――ずぶり。
 サリエリの胸の中に、僕の手が沈む。こつんと固い感触がしたのは、サリエリの核だ。彼も気が付いたのだろう。最早痛みよりも活動を止められる恐怖に支配されている。ぼろぼろと僕の腕を濡らすサリエリの涙。上手く核が掴めないのは、サリエリが必死に首を振って身を捩っているからだ。じわりと滲み、臍に向かって伝い落ちる赤。涙のように慎ましく、純粋で、悲痛な歪んだ線。
 やっと核を掴むことに成功した。掌に収まる程度の小さな塊。それをなるべく痛みが少ないようゆっくりと引き抜く。引き摺られるように、サリエリの胸が僅かに浮いた。顎が天を向き、晒された喉仏は汗で光沢を帯びている。しっとりとしたその見た目に、僕は何故か言葉にならない興奮を覚えた。
 自分のこめかみにも汗が伝うのを感じる。手首が見え始めたところで、サリエリの腕が伸びてきた。核を押し留めようとするそれを躱すように、僕は手首を内側に捻って一気に抜き取る。
 瞬間、サリエリの身体は動力を失い、ぐったりと弛緩した。
「…………」
 真っ赤に塗れた自分の右手に視線を落とす。徐に手を広げ、そこに収まった赤い塊を見詰める。
 これはサリエリの血を特殊な薬品で凝固させたものだ。この血にはその人物の性格や行動パターン、自我情報などが備わっている。僵尸を生み出す際、ある程度自立して行動させるには必要な材料なのだ。これを失うと僵尸は動かない。けれど裏を返せば、この核があればその人間と同じ性格の僵尸を何度も生み出すことができる。生み直された僵尸の記憶は真っ新だ。生前の記憶はもちろん、前の僵尸の記憶も持たない。
 だから脚を失って殺せと嘆く位なら、最初から接ぎ直した身体で蘇らせれば文句もないだろう。
 生前の身体がどのような末路を辿ったかなど、生まれた僵尸には必要のない情報なのだから。
(待っててサリエリ……。君にぴったりな、最高の脚を見つけてくるから……)
 真っ赤な血の海に沈む人魚の寝顔は、病的なまでに白く、けれど存外に穏やかで、少しだけ美しいと思った。