携帯から軽快な通知音が鳴った。あまり耳にしないメロディーだが、正真正銘のメールである。このアドレスだけに設定した、特別な音。画面を点灯させて受信ボックスを開けば、吹雪からのメールが一通入っていた。
『ごめん。また亮のことなんだけど……いいかな?』
逸る気持ちを抑えて開封する。すると上記の文面が飛び込んできた。何度も目にするそれは、所謂〝お呼び出し〟に分類される内容だ。俺は簡潔に『今から行く』と返信してすぐさま身支度を始めた。
◆
俺の家から吹雪の家までは、都心を基準に一駅程度の距離だ。近所だと気付いたのは住み始めてからしばらく経った頃だが、別段気にすることでもなかったため、こうして今も住み続けている。むしろ、何かあった際に助け合えて便利だよね、などと言い出した吹雪に乗せられて連絡先を交換するくらいには、多分気に入っている。なにせそのお陰で、俺は合法的に丸藤に会いに行けているのだから。
電車を降り、慣れた歩調で改札を潜ると、駅の外ではご丁寧に吹雪が迎えに来ていた。横付けされた車の傍でキョロキョロと辺りを見回す動きに落ち着きがない。やがて俺の姿を認めると、あからさまにホッと顔を緩めて手を振った。
「待ったか?」
「いや、大丈夫だよ」
ぎこちない表情と遠慮がちな声音から、多分待ちきれなかったのだろうと推察する。だがそれを指摘すると余計な時間を食うので、俺は「早く行こう」と言ってそそくさと助手席の扉を開けて乗り込んだ。
住宅地を走るにしては少し早めの速度で、ドアガラスからの景色が流れていく。俺はそれを、やけに凪いだ眼差しでぼんやりと眺めていた。他に見るものがないからである。
俺を運ぶ吹雪の運転は、お世辞にも穏やかとは言いがたい。信号が黄色に変わっても交差点に突っ込むし、青に変わる直前はじわじわと見切り発進を始めるからだ。極めつけは自分が先頭で赤信号に引っかかったときだろう。何をそんなに焦っているのか、滅多にしない舌打ちを鳴らすのだ。ここまで列挙すれば二度と吹雪の車に乗るものかとなりそうなところだが、まだその瞬間は訪れていない。多分、平時の彼はこれほどの荒さはないだろうという妙な信頼があるからだ。幸い一度も事故に遭っていないし、無理な車線変更をしたり前方の車両を煽ったりするような危険な運転をする様子もない。これらの要素も、吹雪の運転する車に乗り続けている所以だろうと思う。
それに同居人の非常事態ともなれば、大袈裟に焦ったり不安を見せたりするのが吹雪だ。それだけ丸藤のことを心配しているのだろう。俺を呼ぶことでどんな結果になるのか、碌に精査もできないほどに。
大体、丸藤も丸藤である。最初はあんなに嫌がって拒絶していたからもう呼ばれないだろうと思っていたのに、気付けばもうじき両手の数を越えてしまう。嫌よ嫌よも好きの内、なんて言葉があるが、彼にそんな高等芸能ができるとは思えない。愚直を絵に描いたような男に、恋の駆け引きなど土台無理な話しだ。それなのに、翻弄されるのはいつも俺。嘘は吐かずとも、その行動には一見して矛盾を感じる。丸藤のことは好きだが、そういうところは理解できそうにない。
そうこう物思いに耽っている間に、車はマンションの敷地に侵入して定位置に駐車した。「着いたよ」と言い捨てて外に出ようとする吹雪の横顔に「ありがとう」と投げ返して反対の扉から降車する。吹雪に先導されてエントランスに入ると九つのボタンが並ぶエントランスキーと対峙した。背後の硝子扉を開くための番号は残念ながら知らされていないため、俺は吹雪の背後に立っている。やがて無言でドアが開いたのを確認して、小走りで奥へと進む。
エレベーターが到着するのを待つ間、俺はふと思いついた科白を口にした。
「吹雪、ここから先はもう大丈夫だから、外で待っててくれ」
「ありがとう。でも……いいのかい?」
「当たり前だろ。俺とお前は親友なんだから」
しんゆう。
自分の喉を使って発したその単語の違和感に、吐き気を催した。上げたつもりの口角はきちんと笑顔になっていただろうかと、不安が押し寄せてくる。もう言葉にしてしまって手遅れなのだから、腹を括れ、と何度も言い聞かせた。
吹雪はしばらく思案するように押し黙ったが、やがて俺の目を見て「すまない、頼んだよ」と言い、合鍵を渡して来た道を引き返して行った。その背中を見えなくなるまで見送り、丁度いいタイミングで到着したエレベーターに乗り込んだ。
飛び上がりそうなほどの焦燥。それは、みるみる近付いていく丸藤までの距離に比例して募っていく。呼吸は浅く速く、どこに視線を遣っても落ち着かない。この気持ちは不安に由来するものなのか、あるいは高揚からなのか、判別がつかなかった。
エレベーターに運ばれて上昇していた俺の身体は、目的の階層で停止する。その後、静かな音を立ててドアが開かれると、見慣れたアイレベルの街並みが俺を出迎えた。
右足を出す。三歩進んでから左に折れる。階層が高いことで強さを増した冬の風が頬の温度を奪っていく。それでも構わず、歩みを進める。南の角部屋。そこが、吹雪に鍵を託された場所だ。俺は部外者であることを忘れてインターホンも押さずに入室した。
「……ッ」
少し重めのドアを開けば、湿度を伴ったフェロモンの香りが迫ってきた。その勢いは、さながら俺の訪問を拒んでいるかのようである。だが、追い返すつもりで発したものがαを誘うフェロモンでは逆効果だ。くらりと、理性が霞んでいく。
一頻り臭気を堪能した後、俺は身を屈めて靴を脱ぎ、一直線に丸藤の寝室を目指した。最奥のリビングに向けて続く廊下の中腹に、その部屋はある。
「丸藤」
閉ざされている部屋の前に立ち、声をかけながら三度ノックをした。すると、ただでさえ濃密なフェロモンの香りがぶわりと濃くなる。軽く酩酊するような感覚を覚えつつ、眼前の板の先にいる獲物に飛び掛かりたい衝動にも駆られた。
「丸藤、いるんだろ?」
反応はない。居留守を決め込んでいるつもりなのか、あるいは返事をするだけの余裕がないのか、この際どちらでも構わない。一貫して意思表示を拒んでいるという事実のみにつけ込んで、俺は腹の前のドアノブを捻った。
「ま、る、ふ、じ」
甘美なる魔性が、部屋一帯に充満している。その源泉たるここは、どこよりも臭気が濃い。散々に収め続けた肺の許容量はとっくに超過しており、自分の呼気すら侵蝕されているようなきがした。
全身を冒された俺の身体は、いよいよ随所で不具合を起こし始めていた。口角は吊り上がり、笑みに似た形で頬が引き攣る。鳩尾の辺りがひくひくと痙攣し、その震えに押し出されて、俺の唇からは哄笑のなり損なったものが零れ落ちた。心から可笑しくて笑っているのかどうかすらも判別できない。ただひとつだけ解るのは、ベッドの上で巨大な大福になっている丸藤の姿に、俺は暴れんばかりの興奮を抱いているということ。泰然自若たる男が、天敵から身を隠す小動物よろしく身体を丸める姿は見物だろう。手持ちの携帯電話で写真に収めたくもあれば、じっと眺めて網膜に焼き付けておくに留めたくもある。
「ふふ……ふふふふ……」
腹を抱えたい。大声で笑い出したい。けれどその欲求に身を委ねれば、たちまち理性が死んでしまうのは明白であった。ゆえに腹を抱いて口を覆う。ただし目だけは許してほしい。視界すら閉ざしてしまったら、せっかくの丸藤の姿が見えなくなってしまうから。どこへ向けての請願かもわからない。ただひたすらに、自らお膳立てしたこの計画が円滑に進んでくれと願うだけ。その第一歩を、俺はようやく踏み出した。
「なあ丸藤……いま、どんな気分?」
ずっと丸藤が好きだった。けれど孤独に押し潰されて失踪して帰還したら、彼は吹雪のものになっていた。吹雪は俺の大切な親友だから、「俺の方が先に好いていたんだ」なんて子供染みた抗議をすることはできなかった。丸藤をモノにする可能性を自ら潰したこともよく自覚していたから。
けれどそうやって自分を抑圧することは、もうやめた。
「俺を拒める場面なんていくらでもあっただろうに、丸藤って案外間抜けだよな」
ベッド脇に到達した俺は、しゃがんで大福の天辺に触れる。すると中身はいっとう頑なに丸くなった。
「もしかして、丸藤お得意の
今まで自分の気持ちを偽っていたから、俺はダークネスに堕ちた。寂しいなら、その穴を埋めてくれる人を探せばいい。自他に向ける好意に懐疑的なら、まずは好いた相手に気持ちを伝えるといい。
抑圧は破滅への最短ルートである。俺は俺のために、俺自身の気持ちを尊重して、大好きな丸藤を傍に置くことに決めたのだ。
「だがこの通り、
丸藤の状態について、初めて吹雪から相談を持ちかけられた日に感じた高揚など知らないだろう。αである丸藤が、Ωのヒートのような症状に悩まされていると聞いて、歓喜に打ち震えたことなど知る由もないだろう。
βである吹雪に、疑似ヒートに苦しむ丸藤を助けることはできない。救えるのは、同じα性を持つ俺だけ。
俺だけが、丸藤を紛い物のΩから本物のΩにすることができるのだ。
転化させしまえばフェロモンも落ち着く。それから丸藤の項を噛んでやれば、晴れて番の誕生という寸法だ。
そうすれば、もう二度と俺と丸藤が別の誰かのものになることもない。
俺は、なだめすかすように撫でていた大福の皮に手をかけ、一気に剥ぎ取った。布の中で濃縮されまくった甘美が一気に解き放たれると、腹の中で燻っていた獣心が一気に暴れ出す。
眼下では、胎児のように縮こまる丸藤の姿があった。涙と涎でぐちゃぐちゃな顔が、驚愕に引き攣って俺を見上げている。だらしなく開いた唇には、熱っぽい吐息に混じってか細い喃語が零れている。長い両脚は、何かに耐えるようにすりすりと擦り合わせる動きを繰り返している。
機械のようだと評された凜然とうつくしい丸藤の姿は、影も形もない。
必死に繋ぎ止めてた理性の鎖が引きちぎれる音がした。
瞬間、俺は文字通り丸藤の上に覆い被さる。
「まるふじ、丸藤……すきなんだ、ずっと前から……!」
「ふじわ、ら、アッ……まて……ま、て……ッ」
服の下に手を這わせて素肌を撫でる。時折、乳首を軽く摘まんでやると、ぴくりと胸が跳ねた。そんな丸藤の反応を楽しみながら反対の手で下肢を弄ってやる。ベルトのバックルを外し、ジッパーを下ろしてパンツの中に手を突っ込む。ぬらぬらと湿っている布は、どうしてか臀部の辺りにまで到達していた。不審に思って彼の尻のあわいに中指を突っ込んでみると――
「まるふじ……? まさか、おまえ……」
そこは、まるでローションを纏ったかのように濡れそぼっていた。
男の尻は、ふつう性的興奮を覚えた程度で濡れはしない。つまり丸藤は、ふつうの男ではなくなったということである。
「あ、あは……はは、そうか……やっと、ついに……」
じわじわと、俺の胸を温かいものが広っていくのを感じる。その温もりの正体はまさしく〝幸福〟と呼ぶに相応しい感覚であった。
ぬるり。ぬる、ぬるるる。女の愛液にも似た感触が中指を通じて伝わってくる。淫蕩で倒錯的な丸藤のアナ。狭窄を挟む二対の肉は紛れもなく男のそれであるというのに、そこだけが雌の様相を見せていた。
「……ん、ぁ……くぅ……」
しかし丸藤の抵抗は生温い。いやいやとかぶりを振って身を捩るばかりで実力行使に至る気配がないのだ。まだ俺の行動を、気の迷いなどと勘違いしているのだろうか。間抜けも大概にしてほしいところである。
「なあ丸藤、いい加減認めろよ。欲しくて堪らないんだろう? それとも本当に嫌なら、もっと本気で抵抗しろよ」
穴の襞をなぞりながら、くるくると指先を回す。じわじわと炙って俺と同じように理性を焼き切らせて、そして丸藤の方からはしたなく続きを強請らせるためだ。なあ、ほら、早く楽になれよ。とびっきりの砂糖で煮詰めた声で丸藤の耳許で囁き続ける。すると、固く目を瞑りながら顔を逸らしていた丸藤の呼吸が段々と浅く速くなっていく。
だが不意に、俺の死角でシーツを握っていたはずの丸藤の腕が勢いよく動き出した。俺の後頭部を毛髪ごと鷲掴みし、ぐいと後ろに引かれる。発情で骨抜きにされているだろうと高を括っていたが、存外にも逞しい腕の力に思わず面食らう。ほんの僅かな間、思考が止まる。再び動き出したのは、これまでよりも一段と濃いフェロモンの香りを図らずも吸い込んでしまったからだ。
鼻先が触れているのはふわりと柔らかい産毛の先端。丸藤の項であった。
「……いい加減に、しろ……っ焦らすな……」
丸藤のくぐもった声がする。絶え絶えの呼吸で、明後日の方向に顔をやりながらも、俺へ向けて必死に言葉を紡いでいることがわかった。けれど、その意味が理解できない。
「ほしくて、堪らないのは、どっちだ……つまらん言質を、待つ、くらいなら……はやく……っ!」
そう言って更に後頭部を押し込まれる。鼻先どころか、唇までもが丸藤の項に触れてしまっている。やわやわと口を動かしていると、花の蜜ような味が侵入してきた。興奮のボルテージが上がり、唾液が異常分泌を始める。
顎が軋む。ぼたぼたと音を立てて唾液がシーツに落ちていく。甘くて、美味しそうで、早くかぶりつきたくて堪らない。遠くの方で、低く艶めいた笑みが聞こえた気がする。
「は、ぁ……待つのには、もう飽きた……お前の、ッ言うとおり……だったよ……」
あいしている。
その科白がどちらに向けてのものか理解するには、俺は獣になり過ぎていた。