深層 ※R18

 明かりの落とされた部屋の奥、広いシーツの海でのたうち回る二つの身体。丸い肉に押し潰される形で蜜を注がれ続ける白い肢体は、引き締まった手足をバタつかせて藻掻いていた。
 粘着質な水の音、忙しない布擦れの音、スプリングの悲鳴。それらの不協和音に色を差すよう、白い男の上げる声は酷く甘やかだった。
 離れた場所で傍観する猿山は、杖を持つ手に力を込めた。下腹部から湧き上がる衝動を抑えるためだ。原因など考えるまでもない。今すぐ身を捩ればいいものを、衝動に侵された視線がそれを拒む。周囲の背景がぼやけ、中心の寝台に焦点が絞られていく。
 丸い男が何事かを囁いた。すると、白い男は恥ずかしがるように身動ぎする。戯れのような抵抗に気を良くした男は、細い腰を捕らえて乱暴に引き寄せた。弾かれたように緊張する尻。臍が忙しなく上下し、やがて甘い絶叫と共に白濁を迸らせた。
 その姿を見た猿山は、湿っぽい溜め息を吐く。
 ――嗚呼、ついに。
 高潔だった男が、醜悪な白に染まってくれた。

 月曜日とは、猿山にとって七つある曜日の中で尤も重要な日である。抱えるクライアントに対し、仕事の予定表を送らねばならないからだ。人気のデュエリストには分刻みのスケジュールを、そうでない者には一日を三分割させた大雑把なスケジュールを、それぞれチャートに落とし込んだ画像をメールに添付して送信する。宛先を間違えようものなら信用問題に発展しかねないその作業を、細心の注意を払って、ひとつひとつこなしていく。やがて一頻り送り終えると、猿山は傍らで待ちぼうけを食っている黒衣の男に向き直った。
「さて、アナタのスケジュールですが、明日夜に行われる〝覆面デュエル〟に出場していただきたい」
「ああ」
 長時間待たされていた割には乏しい表情の男――丸藤亮は、まるで予め用意していたかのように首肯する。えらくあっさりした態度に、依頼した側であるはずの猿山は目を丸くした。
「アナタ、きちんと言葉の意味を理解しています?」
「〝覆面デュエル〟とやらに出ればいいんだろう」
「それがどんなものか、分かって言ってます?」
「興味がない」
 そうですか。猿山は嘆息する。
 今回亮を地下へ呼びつけたのは、件の催しに着てもらう衣装をチェックするためだ。覆面と銘打つからには、素性を晒してはならないのが鉄則である。
 とはいえこれも地下デュエルの一種。観衆の歪んだ性癖も満たさなければならない。よって覆面の特性を生かして、出場するデュエリストにはコスプレ紛いの恰好をすることになっていた。
 その衣装は、亮のような気位の高い男にとって屈辱的なものだろう。最近まで日向を歩いていた彼に、催しの異常性に気付けるはずもない。かといって、興味を示さない者にわざわざ説明してやるほど、親切心を働かせる気にもならなかった。
 ノートパソコンを閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
「では、衣装合わせといきましょうか。ついて来てください」
 ダクトが剥き出しの執務室に、ふたり分の足音が鳴る。音はコンクリートの空間で、何度も反響を繰り返した。

 ドレスコードに身を包んだ客達が、互い違いに並べられたテーブルに腰掛け、談笑に興じている。黒で統一されたホールに注ぐ、控えめな照明。それは、素性を知られたくない連中の疚しさを許容するかのよう。事実この空間は、腹の底でひた隠していた醜い欲望を曝け出しても構わなかった。
 客達の会話の内容は、上品な身なりには不釣り合いなほど下卑たものだった。優雅にグラスを回し、アルコールで湿る唇が汚泥のような単語を零す。それを嬉々と拾い上げ、自らの汚泥を被せて遣り取りする様は、狂気以外の何者でもない。
 しかし客同士の卑猥な談笑など、ほんの序の口である。連中は、これ以上の狂事を求めて集まったのだから。
 刻限の鐘が鳴る。すると、期待に満ちたざわめきが消え失せる。僅かな緊張すら覚える沈黙が走ったかと思うと、進行役を務める男の声が、宴の開始を告げた。
 ホールの最奥に設置されたステージへ、スポットライトが当たる。強い光に客達の視線があつまると、その中心へふたりのデュエリストが登壇した。
 ローカットドレスに身を包む二人が、デュエルディスクを構えて立つ。デッキの準備を進めている間にホールスタッフが現れ、デュエリストの片足に、逃走を阻むための足枷を取り付ける。デュエリストがそれに構う様子はない。やがてセットした山札から五枚のカードを引き抜くと、決闘の開始を宣言した。
 低く、太い声だった。よく目を凝らせば、妖艶なドレスから零れる肢体は酷くがっしりとしている。
 ある客は期待と違うと憤った。ある客は鼻息荒く椅子を揺らした。ある客はどちらのデュエリストが好みか語りだした。特に、紺色のドレスを身に纏う白皙の男に対する注目が多かった。
 ホルターネックで辛うじて隠れる胸。逞しい胸筋の谷間が卑猥に顔を覗かせている。広い肩、引き締まった腕。直線的な男の身体を覆うには、布地が足りない。逆三角形的な上半身だが、しかし過剰に筋肉質という訳でもなかった。大きく開かれた背中に浮く肩甲骨は、些か骨っぽい。肌の白さも手伝って、どこか病的な匂いを立ち上らせていた。
 屈辱的な恰好をさせられているはずだろうに、カードを切る男の立ち姿は堂々としていた。床を引き摺る丈などものともせず、大きく開いた脚の片方を、高い位置で割れるスリットから惜しげもなく出す。しっかりと床を踏みしめる足には、黒のピンヒールサンダルが。シンプルなシルエットながら、すらりと美しい白に婀娜な彩りを齎している。芸術的ともいえるそこへ、客の一部が釘付けになった。
 男の目元を覆うカーテンの下には、どんな顔が隠れているのだろうかと誰かが言った。ほっそりした顎と薄い唇だけでは、淡々と闘う男の無機質さが際立つ。人形染みた立ち居振る舞いに、別の客がうっとりと息を吐く。

「早くそのヴェールを剥ぎ取って泣かせてやりたい」

 と――

 今、亮が立つ戦場は、いつかの檻以上に屈辱的な空気を漂わせている。成金趣味とも取れる、過剰なドレスコードに身を包む観衆。その癖、絶対に素性を晒したくないという意志を如実に示す仮面と照明。しかし、同じく顔を覆うものを身につけていても、自分達デュエリストに注がれる光は眩しくて堪らない。悪趣味な衣装を着せられ、台本を読み上げる役者のように、自身の役目を全うする。衝撃増幅装置がないのは幸いか。否、敗北すれば比較にならぬ屈辱が待っている。結局、勝たなければ安息など得られない。
 背後の舞台袖に控えるマネージャーは今、どんな顔をして勝負を眺めているのだろうか。あの酷薄な笑みを貼り付けて、無防備なこの背中を刺しているのだと思うと、脊椎が甘く痺れるのを感じた。どうせ、敗北した後の無様な末路が見たいのだろう。亮はヴェールの下に隠された目を細め、隠れていない口角を吊り上げた。
 思い通りになど、させてなるものか。地下に身を置いて日は浅いが、亮の中でこの場所は既に身を置くべき戦場・・・・・・・・ではなくなっている。好戦的な者は多いが、ただそれだけ。実力はまるで比例していない。泥のような楽園に足を取られる前に、早く這い出なければ。そのためなら、いかなる屈辱も甘んじて受けよう。守り固め続けてきた矜持も断ち切ろう。次なる勝利を手に入れるために。
「魔法カード〝オーバーロード・フュージョン〟発動!」
 足下に禍々しい渦が生まれる。そこへ戦友たる白銀の竜達が次々と身を投げ出すと、力を得た渦は蠢き、一体のモンスターを吐き出した。それは地下で檻を食い破った巨大なキメラ。亮の口元が凶悪に歪む。
 攻撃宣言と共に、指先を対者自身へ向ける。デュエリストの命を一瞬で葬る威力の攻撃が炸裂し、辺りは爆風に飲み込まれた。
 ふたつの影が揺れる。ひとつは敢えなく崩れ落ち、もうひとつは力強くヒールを鳴らす。
 視界が晴れると、客は一斉に勝者の姿を捉える。ざわざわと私利に塗れた歓声を上げながらも拍手を湧かし、決定した今夜の獲物に歓喜した。勝者の脚は自由を得、敗者の脚には追加の枷が嵌められる。それを冷めた目で一瞥し、亮は踵を返して舞台を降りた。
 役目を終えた壇上で、メインの狂宴が始まった。去り行く亮の背後で甘やかな悲鳴を上げる男は、群がる客の手から必死に逃げているのだろう。多勢に無勢だと知りながら、たくし上げられるドレスに、弄られる胸に、開かされる脚に、棄てきれない矜持を込め続けるのだろう。どうせもっと酷いことをされるのに、往生際の悪いこと。
「勝ってしまいましたか」
 特等席で一部始終を眺めていた猿山に声をかけられ、歩みを止める。鬱陶しいヴェールを脱ぎ去り視線だけを向けると、慇懃無礼な笑みがこちらを見ていた。
「やれやれ、せっかく似合っていたというのに」
「勝ったのがそんなに不満か」
「まあ、多少は」
 わざとらしい溜め息と、残念そうな抑揚。苛立ちを誘発するようなマネージャーの態度に、亮は粘着質な笑みを禁じ得なかった。彼の望みを叶えさせなかった。その事実に、亮の全身が愉悦に震える。この後で妙な客との接待が待っているが、気分よく過ごせそうな気がした。
 カツカツと歩きにくいヒールを鳴らし、ホールから離れて行く。無言で去る自分を追いかける猿山の気配を感じながら、亮は誰に向けるでもなく呟いた。

「俺を汚したいのであれば、もっと骨のあるデュエリストを用意するんだな」