世界各地を放浪してた頃は、カイザーと住むだなんて夢にも思わなくて、ずっと翔と肩を並べて夢を追い続けるものだとばかり思っていた。あるいはエンタプロリーグで活躍する吹雪さんとひっそり合流して、誰にも認知されない田舎とかで暮らすのだろう、とか考えていた。
結果は、どちらでもなかった。
◆
兄が危篤だと翔から連絡があり、オレは急いで帰国した。路銀を稼ぐために住み込みで雇ってもらっていた食堂のおばさんに頭を下げ、最低限の荷物だけ纏めて飛び出したのだ。幸い、最寄りの空港は日本への直行便が出ていたため、それほど長旅にはならなかったと思う。時差を考慮して三日のフライトで、故郷の地に降りた。あらかじめ聞いておいた入院先へ最短ルートの乗り換えで向かい、面会の手続きなどそっちのけに病室へ突撃する。
真っ白な部屋には二色の
ベッドで静かに眠る兄を眺めていた翔は、オレの入室に気付くなり顔をくしゃくしゃにして飛び込んできた。また少し位置の高くなった頭がオレの胸にグリグリと押しつけられる。同時に湿気る感覚もした。きっと今頃、涙と鼻水で悲惨なことになっているだろう。振り返られた瞬間に見えた顔つきは、可愛らしさこそ残るものの、随分と精悍になってきたというのに締まらない。頻りに背中をさすって宥めてやると、次第に落ち着いた翔から別室に移動するように言われた。
談話スペースに設置された自販機で飲み物を奢ってもらい、オレと翔は向かい合うようにして腰かける。たっぷり間を置き、いつも以上に重たくなっている口から告げられたのは、カイザーの容態についてだった。有り体に言えば、余命幾ばくもない、ということだった。元々カイザーの病気は原因が不明、かつ治療不可能で、医師からは「心臓移植しか助かる道はない」と言われていたらしい。弟である翔はもちろんドナーを待つことを望んだが、当人であるカイザーがそれを拒否したのだ。理由は聞いていないが、いつになく頑なな態度だったらしい。とにかく、カイザーは頻りに退院したいと訴えていたそうな。そうして半ば無理矢理に自宅療養へと切り替えたカイザーだが、しばらくはそれなりに快調に過ごしていた。弟に打ち明けた〝プロリーグ新設〟の夢に向かって日々業務をこなしていた。発作も特になく、傍から見れば回復したと見紛うばかりだった。
が、原因不明の病魔は確実にカイザーを蝕んでいたらしい。退院から一年が経った秋に再び倒れたのだ。
二度目の搬送。一度目よりも重篤になってしまったカイザーの容態。処方された薬はきちんと摂り、主治医にきつく言いつけられていたという定期検診もキッチリ受けていたというのに、最悪の事態を防ぐには至らなかった。むしろ、全て徒労に終わったというほどである。何度目かの手術もどうにか成功し、しかし後に告げられたのは「この心機能ではこの冬は越せないだろう」と残酷なものだった。
これだけ大層な発作に見舞われたカイザー自身も自覚があるのか、その搬送以降はかなり大人しかった。家に帰りたいとも、仕事が残っているとも言わず、しかしどうしてか移植手術だけは拒み続けた。
そんな日が続いて年末も近くなった今、カイザーは生死の境を彷徨っている。
「……それならなんで、オレは呼ばれたんだ?」
「それが……兄さんの望みだったから……」
翔は顔すら上げず、ぽつりとそう零した。告げられた理由は、当然ながら納得するに至らない。飲み終えた空き缶がぐしゃりと歪む。
「だからなんでカイザーはオレを呼んだんだよ……!」
「わからない。意識を失う直前に言ったのがそれだったんだ。十代を呼んでくれ、話はそれからだ、って」
「なんだよそれ、意味わかんねぇ」
堪らなくなって立ち上がる。けたたましい音を立てて椅子がたたらを踏むも、そんな非常識なオレの行動を咎める者は誰もいなかった。
翔の横をすり抜けて談話スペースを出て行く。背後では、慌てたような物音を立てて翔が後を追うのがわかった。
病室に戻ると、いつの間にか目覚めていたカイザーに名を呼ばれた。波紋すら立たなさそうな静かな声で、近くに来るよう請われる。色々と問い詰めたい衝動が胸を焼いたが、病人に怒鳴っても仕方のないことだった。せめて怒りを覚えている事実だけ伝えたくて、眉間に深い皺を刻んだしかめっ面で睨んでやる。それを見たカイザーは、困ったような笑みを浮かべた。
「翔からは、どこまで聞いた?」
「アンタがもうすぐしんじまうってことと、オレはアンタに呼ばれたってことくらいだ」
「そうか……」
一旦言葉を切り、カイザーは徐に翔の所在を聞いてくる。その頃には病室に戻っていたため、翔は努めて柔和な声音で「ぼくはここだよ」と返事をした。
カイザーの胸が大きく上下する。役者は揃ったということらしい。薄く罅割れた唇が小さく綻ぶ。
「……俺の心臓は、もう長くない」
それは、この場にいる誰もが認識している残量の告白だった。
「そしてこの余命は……心臓を移植したところで
「え……」
そしてこれは、この場にいる誰もが予期していなかった事実だった。思わず零れた絶句は、オレと翔、どちらのものだっただろう。
「この病の原因は裏デッキだ。始めは、成長を止めた俺への応報だと認識していたが、どうやらそうではないらしい」
カイザーの科白は続く。
「これは恐らく、
「……知ってたの?」
翔が追求する。問われた兄は、目を細めることで答えを示した。
「解く方法は」
「……ない」
端的かつ残忍な白状だ。淡々と事実を述べるカイザーの口振りには、生への未練執着は微塵も感じられない。緩やかであるはずの死がすぐそこまで迫っている異常事態を無抵抗に眺めているような、純然たる諦念だった。
二度に渡って死神が顔を覗かせる事態に、カイザーはどんな気持ちで受け入れたのだろう。一度目のときのように、自ら冥府へ手を伸ばすような真似はしなかっただろうが、それでも、ほんの僅かでも、この世界にしがみ付きたいと思ってくれたのだろうか。問えばカイザーは、それらしいものはでき得る限り調べ尽くしたと答えた。それでも駄目だったのだ。
布擦れの音がする。カイザーがゆっくりと首を捻ってオレ達の姿を視界に映す。硝子細工のような碧色の虹彩がオレをみつめる。
「さいごに、ひとつだけ、頼みがある――」
ベッドの向こうでは、締め切られているはずのカーテンがふわりと揺れた。