イノセント・ハッピー・デイズ - 1/2

「で? 結局、外泊許可は取らなかったんだ?」
 ベッド脇に腰掛けた十代の、記憶より鋭さの増した眼差しが突き刺さるのを感じる。俺は、両の掌の上に広げたデッキに視線を落としたまま「ああ」と返した。サイバー・ドラゴンを始めとした馴染みある機械の竜達が、一様に俺を見上げている。
「そのまま吹雪さんトコに泊まってけばよかったのに」
「翔には、真っ直ぐ戻ってこいと言われていた。それに、彼奴の卒業と同時に俺も退院する予定だからな。これ以上無理するつもりはない」
「一回余計に手術を受けた癖によく言うぜ」
「フ……返す言葉もないな」
 一枚一枚、絵柄と視線を交わし、その中から心に引っかかりを覚えたカードを抜いて、布団に覆われた膝の上に並べていく。音もなく流れる時間。未だデュエルのできない俺にとって、この儀式にどれ程の意味があるのか。デッキの数が減る度に、己の魂が削られているような気がした。
「プロ、もうやめちまうのか?」
「どうだろうな。一応デュエル自体は続けていくつもりだが、以前のようにはできないだろう」
 アタック・リフレクター・ユニット。これには、窮地に立たされたときに何度も助けてもらった。高い守備力もさることながら、攻撃表示で発動する効果で繋がった首も少なくない。ライフポイントを回復する手段を講じていないため、無傷で相手の攻撃を封じる手段は貴重なのだ。
「そういえば翔のやつ、最近じゃあアンタのカードをデッキに入れてデュエルするようになってさ、勝率も上がって調子よさそうだぜ」
「……そうか」
 これはフォトン・ジェネレーター・ユニットか。俺のデッキは高い攻撃力でフィールドを制圧するビートダウンがテーマだが、切り札のパーツとなるモンスターはさほど強くない。そのため、除去を目的として投入したカードだった。存外に上手く機能してくれたように思う。召喚難度は高かったが、その分いい働きをしてくれた。
「もう昔みたいなプレイミスをすることはないだろうけど、それはそれで寂しい気もするな」
「そうだな……」
 オーバーロード・フュージョン。初めて地下で闘ったとき、どうしてこれをデッキに入れていたのかまるで覚えがなかった。初めて呼び出した禍々しい竜の威容に、全身が震えたのをよく覚えている。恐らく、何かの折にあの竜を呼び出す日が来るかも知れないと、そのためだけに入れたカードだった。
 キメラテック・オーバー・ドラゴンは師範により賜った皆伝の証のひとつであるが、扱いには十分に注意せよとのことで、デッキには入れていたがずっと使わずにいた。禁忌とまではいかないだろうが、召喚するにはカードテキスト以上の代償を払わなければならない気がして躊躇っていたのだ。
 真っ白な布地の上に並んだ顔ぶれに目を細めて眺める。いつの間にか掌にあったはずのカードはなくなっていた。つい数ヶ月前まで現役で扱っていたそれらが、どうしてか酷く懐かしく感じてしまう。
「パワー・ボンドは今でも使ってるみたいだぜ。そういえばアイツ、この間の実技でパワー・ボンドのリスクを回避するコンボを見せてたな。ちょっと前まではデッキに入れることすら怖がってたのに……ほんと、変わったよな」
「ああ……。これも、十代……お前のお陰だ」
「オレは何もしちゃいないぜ」
 全てのカードに思いを馳せると、一旦視界を閉ざした。殆ど視線の交わらない俺達の話題は、専ら弟に関するものが多い。デュエリストとして、人として未熟だった翔が俺を追い越すまでになったのは、紛れもなく、傍らで近況を話してくれている後輩による功績が大きいだろう。
 しかし他の同輩よりも先に大人になった十代は、俺の称賛を素直に受け取ることはない。それが十代の定義する〝大人〟だということなのだろう。異世界で子供のままでいようとした彼を糾弾した俺に、その選択を非難する権利はない。
「それにしても……翔がカイザーと起業かぁ」
「十代」
 だがひとつだけ、懸案事項があるとするなら――
「俺から翔に提案しておいて何だが……彼奴は……あれ以降も変わりないか?」
 きっとまた、言葉を間違えたかも知れない。胸に押し寄せてくる不快感は、しかし甘んじて呑み込まなければならなかった。発した言葉は取り消せない。痛いほど身に染みた実感だった。
 手持ち無沙汰となった両手は、緩くシーツを握る。惰性のまま、あるいは恐怖に似た羞恥心から、前方の白い壁を眺め続けた。
 沈黙が鼓膜を蝕んでいく。
「いや、変わったな」
 若く張りのある声が残酷な答えを明示した。半分ほど予想のできた内容に、俺は落胆を含んだ声で「そうか」と言った。
 すると不意に、白い景色が鮮烈な赤に支配された。
「カイザー、アンタ何か勘違いしてね?」
 赤の正体は十代だった。ベッドに身を乗り出し、両手は俺の膝を跨ぎ、押し倒す寸前のような体勢で俺の瞳を射貫いている。
「勘違い? どういうことだ」
 やがて在学中に何度も目にした、あの悪戯っぽい笑みを浮かべてこう言った。

「変わったって言っても悪い方にじゃない。あの後の翔は、前よりもずっといい顔をするようになったぜ。兄ちゃんそっくりの、真っ直ぐな目だ」

 そんな、まさか。
 否定を意味する科白はひとつも音にならなかった。酸素を吸い損ねた魚の如く、だらしなく弛緩した唇を開閉して言葉を紡いだ気になっている。
 俺の反応を見て、十代はさも可笑しそうに噴き出した。なんだよそのかお、はじめてみた。揺れる肩に邪魔されながらも何とかを保った科白がそれだった。
 白い静寂に包まれていたはずの病室に真っ赤なインクが垂れた瞬間、快活な歓笑が迸る。この場に翔がいれば間髪入れずに苦言を呈しただろうが、俺ではその代わりは務まらない。
 やがて十代は一頻り笑った後、再びベッドの縁に腰かける。その頃には元の精悍な面構えに戻っていた。
「アンタも大概マイナス思考だよな。だってさ、オレにもしカイザーくらいの兄ちゃんがいたとして……あんな風に言われたら、めちゃくちゃ喜んだと思う」
「だが……お前と翔は違う」
「ああそうさ。だから本当に気になるんなら、尋ねる相手はオレじゃないと思うぜ」
 十代の視線が逸れる。両膝に手を付き、ゆっくりと立ち上がった。随分と逞しくなった背中が、俺に語りかける。
「だから、翔が来たらもっと話してやれよ。アンタの気持ちを。デュエルじゃできない会話も、言葉ならできるだろ? カイザーの話、難しいけど結構面白いんだからさ」
 カツン、と十代の後ろ姿が少しだけ遠くなった。じゃあな、と不明瞭な別れの挨拶を残してベッドから離れて行く。
 そして退室間際、扉のすぐ手前で一度立ち止まった十代は、半身だけ振り返った。

「今度は、カイザーの話を聞かせてくれよ!」

 その顔は、懐かしい無邪気な表情だった。