白粥の湯気に満たされるまで

 土曜日、珍しく目が冴えて早起きしたオレは、PDAにてこれまた珍しい人物からのメールを受け取った。

   ◆

「……よくきたな……」
 呼び出した張本人であるカイザーは、頬を桜色に染めたパジャマ姿で出迎えてくれた。その声は、ハリがなく掠れている。いつになく覇気のない姿に、オレは首を傾げた。
「なあカイザー……もしかして、風邪?」
 オレの問いに答えようとしたカイザーは、しかし不意にビクリと息を呑む。咄嗟に顔を逸らし、手で口を覆った瞬間、激しく咳き込んだ。ああ、やっぱりなあ。そのまま治まるまでしばらく待っていると、何故かどんどんと悪化していく。痰でも絡んでいるかのような湿った咳は一向に止まらず、呼吸を阻害されたカイザーの身体は徐々に頽れていった。床に膝をつき、背中が丸まっていく。
「お、おい……大丈夫かよ?」
 存外に酷い発作に、オレはオロオロと視線を彷徨わせる。人でも呼ぼうかとも考えたが、そうして目を離している間にまた悪化するのが怖くてできなかった。とにかく、小さくなってしまったカイザーの背中をひたすら擦ることにする。掌が熱を帯び始めたところで、やっと咳が治まった。
「ごほっ……ああ、すまない……」
「まったく、脅かすなよ……」
 カイザーはもう一度「すまない」と言いながら、ゆっくりと立ち上がる。そうして再び目が合ったのを確認して、オレはもう一度カイザーの容態を尋ねた。
「なあ、本当に……風邪?」
「ああ、咳はだいぶ酷いが、正真正銘の風邪だ」
 いや酷すぎだろ。あのまま血でも吐くかと思うと気が気じゃなかった。カイザーはそのまま「いつもこんなものだ」と続けたが、それでオレを安心させてるつもりなのだろうか。
 普通の風邪があんな酷い咳になるはずがないんだよなぁ。
 もしや、肺とか呼吸器系が弱いのだろうか?
「まあいいや。とにかく中に入れてくれよ」
「いや、ここでいい」
「は?」
 瞠目している間もなく、カイザーは「その袋を渡してくれ」と言って手を差し出してきた。
 オレの右手には、今朝、呼び出しのついでに頼まれた買い出しの品が入ったレジ袋がある。カイザーはそれを寄越せと言っているのだ。「新作のパックが出たから買ってきてくれ」だなんて、てっきり購買部へ行く時間すら取れないほど多忙なのかと思ったのに、いざ届けに上がったらこの有様である。治ってから行けばいいのに、よっぽど欲しいカードでもあったのだろうか。オレは堪らず嘆息した。
「カイザーって、たまに優先順位がヘンだよな」
 いいから入れろって。オレはカイザーの胸を小突いて押し入ることにした。オレの強硬的な態度に、カイザーはあからさまに困惑する。
「しかし……お前に移してしまうだろう……」
「ンなこと気にするなって。オレを呼んだなら大人しく寝てろよ。看病してやるからさ」
 本音を言えばカイザーの意外な顔が見られて面白というのが一番の理由だが、それを口にしたら入れてもらえない気がして踏み留まった。しばらく押し問答が続き、けれど結局はカイザーの方が押し負けた。いつもなら理詰めで完璧に論破するのに、やっぱり弱ってるんだなあと改めて思う。
「移っても知らないぞ……」
 これが最後にカイザーが吐いた捨て台詞である。オレは内心で大きくガッツポーズをとりつつも、表面上では冷静に入室した。レイの一件以来二度目になる訪問。そういえば今回は普通に入れたことに、今更ながら違和感が首をもたげた。
「そういや、さっき正面から寮に入ったけど……いつもいる見張り、いなかったな」
 ふらふらと足取りの覚束ないカイザーを寝かしつけながら尋ねる。カイザーは、潤む瞳を伏せて気怠げに息を吐いた。
慕谷したいたにに、あらかじめ、連絡を入れておいたんだ……十代が来たら、通してやれと……」
 吐息混じりな科白は、ところどころ途切れていて淀んでいる。呼吸が苦しいのか、浅く胸を上下させながら零す声はどこか喘いでいるようにも聞こえた。それがなんだか色っぽくて、オレは思わず鳩尾の辺りの服を掴んだ。
「な、なるほどな。それですんなり通れたのか……」
 苦し紛れの返答は笑えるくらいぎこちなくなってしまった。オレの動揺を悟られていないか一瞬だけ気になったが、どうやらそれどころではなさそうだ。そのままほっ、と撫で下ろす。
 同時に、カイザーがオレのことをそれだけ信頼してくれている事実に嬉しくなった。事務的な根回しは抜かりないのに、オレに寝かしつけられている姿はひどく無防備だ。苦しげなカイザーの顔を眺めながら、不躾にも笑みが零れる。
 今のカイザーにオレの表情を見ることはできない。瞼が重いのか、彼の綺麗な碧色の瞳が隠れているからだ。
 なんかいいな、こういうのも。
 胸にじんわりと広がる擽ったい衝動に、オレは笑みを深めた。
「濡れタオルと水、持ってくる」
「世話をかける……」
 立ち上がる。未だ表出する気配のないカイザーの瞳を瞼越しに見下ろしながら「ゆっくり休んでろよ」と声をかけた。さて、これからどんな風に看病しようか。そういえば風邪といえばお粥だよな。デュエルのときとよく似たワクワクに胸を躍らせる。脳裏では、カイザーとの過ごし方について次々とアイデアが浮かんでいた。
 これらを全部実行したらどうなるのか。その先の結末にまで想いを馳せて、オレは小躍りするような足取りでタオルと水を取りに行った。