僕だけが知る碧色 ※R18 - 1/3

 カシャン、カシャン。
 だだっ広い撮影スタジオ。張り詰めた空気の中でフラッシュを焚く音だけが響く。被写体である丸藤亮は、カメラマンに言いつけられた姿勢を保ったまま鷹のような眼差しでストロボを睨み付けていた。
 カシャン、カシャン。
 何度か明滅を繰り返すと、カメラマンは次のポーズをリクエストする。カメラマンの要求は少し難解で、抽象的な表現が多い。それを亮は、周囲に転がるセットの傾向や自身への需要と照らし合わせて最適解を導き出す。いま自分は何を求められているのか、その要求に必要な小道具はどれか。常に思考を巡らせ、淡々とポーズを決める。
「いいわよ! そのポーズ素敵ッ!」
 どうやらお気に召したらしい。カメラマンは野太い賞賛を上げてシャッターを切り続けた。
 鉄仮面の裏で亮は思考する。

 やはり自分は、笑うことを求められていない。

   ◆

 丸藤亮は、プロのファッションモデルである。
 何度も表紙を飾ったことがあるほどの人気振りで、登場する雑誌は性別、年代ともに幅広い。百八十を越える長身と完璧なプロポーションが纏う衣装は瞬く間にトレンドを席巻し、読者はこぞって真似をした。カリスマモデルとは、彼のことを指すのだろう。

 亮の存在が広く周知された切欠ともいえるべき特集がある。
 それはハイティーン向けの女性雑誌で組まれた、西洋のプリンスをコンセプトにしたものだった。ほとんどコスプレに近い浮世離れした衣装を纏う男性モデル達がゴシック調のインテリアに囲まれて優雅なポーズを取るというもの。その中に亮がいたのである。
 彼はエポレットとペリースの付いた紺色の軍服を着ていた。すらりとした両腕が身体の前で組まれ、鞘に収まったサーベルを杖のように持って仁王立ち。徹底的に露出を排するその出で立ちの中で唯一肌を晒しているのは、冷ややかな三白目で読者を射殺す白皙の相貌だった。
 異質だった。他のモデルが甘いマスクで笑いかけているのに対し、まるで恐怖で民を圧政する独裁者のような風体だったのだ。
 完璧な美貌。
 圧倒的な威容。
 王子という地位など生温い。
 件の特集で亮が掲載された写真はその一枚きりだった。しかしニコリとも笑わない青年の異様さは瞬く間にネットを中心に話題となり、丸藤亮というモデルは一気にカリスマの地位を勝ち取った。

 ――〝皇帝カイザー

 それが当時の特集によって読者が付けた、亮のあだ名である。

   ◆

「はい! 撮影は以上になります。お疲れさまでした!」
 不意に飛んできたスタッフの声で、思考の海に沈んでいた亮は現実に引き戻された。焚かれ続けるフラッシュを数えることをやめた辺りから少し記憶が飛んでいる。
 硬直させていた四肢に血液を巡らせ、ゆっくりと舞台から降りた。マネージャーから水とタオルを受け取ると、休憩用のパイプ椅子に腰掛けふう、と深呼吸する。右隣のテーブルには撮影前に置いておいたスマートフォンが伏せられたままになっている。漆黒のシンプルなハードカバーに包まれたそれを手に取り、画面を点灯させる。ホーム画面には予定していた終了時刻より三十分早い数字が表示されていた。指紋認証でロックを解除しメッセージアプリを立ち上げると、同居人へ仕事が終わった旨を簡潔に連絡する。メッセージはすぐに既読となった。
「……フッ」
 そして間髪入れずの返信。思わず目元が緩む。亮よりタイピングの速い同居人は、返事と共に今晩の献立について相談を持ちかけてきた。昨晩は肉料理だったから今日は魚がいいな、とか、今日は暑いから冷たいものが食べたいな、とか考えていると『今日は暑いし明日はお互いに朝早いからそうめんはどうかな?』というメッセージが続く。
『かまわない』
 亮はその提案を快く呑んだ。
「丸藤さ~ん、頬、緩んでますよ~」
「……!?」
 同居人から全身で喜びを示すスタンプが返ってきたのを眺めていると、頭上から亮の名を呼ぶ声が降ってきてハッとなる。見上げると、マネージャーでもカメラマンでもない若い男がニヤニヤと笑みを貼り付けて立っていた。前傾姿勢になっているとこから察するに、亮の画面を覗き見しようとしていたのだろう。
「……なにか?」
 その不躾な視線に、亮は眉を顰めた。
「あ、いえ、すみません。そんなつもりじゃなかったんです。ただ、滅多に笑わない丸藤さんが笑ってるもんだから、誰なのかなーって気になって……」
 男は亮の隣に座り、カメラマンの付き人だと名乗った。
「彼女さんですか?」
「同居人だ」
「へえ。いつ入籍されるんです?」
「いや……そういうわけでは……」
「えーもったいない! 相手のことが好きなら、逃げられちゃう前に早くプロポーズした方がいいですよ!」
 男はなおも亮のスマートフォンに視線をやりながら質問責めを続ける。
 彼女さん、どんな人ですか? 得意料理は? 歳は? 好きなところは?
 そう聞かれる度、答えを口にする亮の声が沈んでいく。当たり障りのない範囲で適当に流せばよかったのだが、不器用で人見知りの気がある亮には難しい芸当だった。
 そして付き人の男も、亮の歯切れの悪さに何かを悟ったようで、弾のように浴びせていた質問をピタリとやめて「すみません」と首をすぼめた。
「ごめんなさい……おれ、話しだすと止まらなくて。それでいつも師匠に怒られるんです」
 迷惑、でしたよね? と、しおらしい上目遣いが亮に縋り付いてくる。まるで咎められているかのような据わりの悪さを覚え、画面に落とした視線が揺れた。
 べつに返答に窮するような爛れた関係ではない。人並みにセックスもするがそれは生活に支障のない範囲であって頻度も高くなく、至って健全な同棲生活である。
 しかし同居人が女であるという幻想を信じてやまない男に、亮はどう返したらいいのかわからなかった。
 自分より楽観的な同居人――否、恋人は、こんなときどんな風に答えるのだろう――などと思考を巡らせたところで、同じ行動が取れるわけではない。むしろ却って羨望が増し、柔軟さを身に付けられぬ自分の頑固さに嫌気が差すばかりだった。
「いや……俺の方こそすまなかった。あまりこういう話は得意じゃなくてな」
 そして口下手なせいで、隣で気落ちしている付き人の男を無下にできるほど冷徹にもなれなかった。
 スマートフォンの画面を落とし、立ち上がる。亮の目の前では撮影機材を片付けるスタッフ達が忙しなく動き回っている。その光景をしばらく眺めたあと、亮は自分を撮影したカメラマンに挨拶をしてスタジオを出て行こうとする。
 その足を、付き人の男が呼び止めた。

「その……ちょっと意外でした」
 亮は半身だけ振り返る。男は、嬉しいような戸惑ったような、そんな複雑な顔で亮を見つめていた。
 声が、僅かに上ずって弾んでいる。

「丸藤さんみたいな人でも、笑うんですね」

   ◆

「……ただいま」
 合鍵を回してドアノブを捻れば、真夏の家路を労うように空調の冷気が亮を出迎えた。亮が一番心地いと感じる温度に設定された我が家。留守番をしていた恋人の細やかな気遣いに、仕事で荒んだ心が和らいでゆく。
「おかえり〜。お仕事お疲れさま」
 あまり人に向けて発さなかった帰宅の挨拶を拾ってくれた同居人――天上院吹雪は、Tシャツにエプロンという格好で出迎えに現れた。
「夕飯、もうすぐできるよ」
 そう言って吹雪は、亮から鞄を受け取り奥へ引っ込む。その様は、たしかに入籍前の彼女によく似ている気がする。もっとも、女と付き合ったことのない亮にとって単なる想像に過ぎないのだが。
「連絡もらってからすぐかな〜と思ってたけど、案外遅かったね」
「ああ、途中でスーパーに寄っていた」
 ダイニングにレジ袋を置き、ひとつひとつ中身を出していく。マグロ、サーモン、イカ。それぞれのトレイには細切れにされた魚が雑多に乗っている。解体の切れ端で見栄えもよくないそれらには割引のシールが貼られていた。
 あまり食卓に並ぶことのない食材を見た吹雪の表情が華やぐ。
「お刺身じゃないか! ありがとう亮! 今日はご馳走だね!」
「たまたま見つけたんだが、喜んでもらえてよかった」
 そしてその純粋な歓喜をスタンプ同様全身で表現する恋人の姿に、亮は薄らと微笑んだ。

   ◆

 身綺麗にしてから食事を採りたい亮は、先にバスルームへ向かった。軽く汗を流し、脱衣所に用意されていたTシャツと短パンを着てダイニングに戻る。その頃にはすでに準備はできていて、少し底のある丸皿に盛られた素麵とつゆがふたり分、そして豊富な種類の薬味と先ほど亮が買ってきた刺身が綺麗に並んでいた。
 亮は食器棚にいる吹雪からグラスを受け取り、麦茶を注いで最後の配膳を済ませる。そして、どちらからともなく所定の席につき、手を合わせて「いただきます」と言った。
 薬味に手を伸ばす。チューブの生姜やら刻み葱やら茗荷みょうがやらを素麺の上に散らしてゆく。そして亮は汁入れを掴み薬味の上でひっくり返した。氷に貼り付く素麺を剥がしながら啜るより、こちらの方が効率的だからだ。まるで冷やし中華の様相に変貌を遂げたそれを箸で挟み、音をたてて吸い込む。
 豪快な食べ方をする亮の姿を、吹雪は眦を綻ばせながら眺めている。吹雪は汁入れに薬味を浮かべて普通に啜っていた。
 会話の少ないダイニングに、ふたり分のズルズルという音が静かに響く。淡々と、機械的に。普段ならもう少しだけ会話があるのだが、今日は吹雪がやけに静かだった。対する亮は、恋人との談笑に興じるだけの余裕がない。穏やかに流れつつも、ほんの少しだけ張り詰めている空気。食事の風景にしては些か気まずい。
「何かあった?」
 刺身に箸を伸ばしながら吹雪が問う。亮はそれに上手く答えられなかった。

   ◆

 麦茶を飲み干すタイミングは同時だった。亮は食器洗いを買って出るも、君は仕事で疲れているだろうと吹雪に断られてしまった。宙ぶらりんになって立ち尽くす。ああ、惨めだなと、脳裏の自分が嗤う。
 食事が終われば、あとは寝るだけだ。時刻は二十一時を回っている。よい子は寝る時間。けれど今の亮は背徳的な欲求に支配されていた。寝室に行けばパジャマが置いてある。それをタンスにしまって代わりに取り出したのは、真っ白なワイシャツだった。心許ない布きれを腕に引っかけて、亮は再びバスルームへ歩いて行く。今度は湯船にお湯を張って、その間に洗浄を済ませるのだ。ボディータオルに含ませた泡が亮の身体を包んでゆく。今夜はどこに触れてくれるだろうかなどと夢想して、思い当たる場所を特に入念に擦っていった。
 中ももちろん綺麗にする。自分は女ではないから、女以上にこの身体を清潔にしなければならない。女と同じように愛し合いたいのなら、その背徳の免罪符を手に入れるまで、ひたすらに清め続けなければならない。
 本来であれば排泄に用いるソコを、亮は何も出なくなるまで洗い続けた。