白夢の繭

 ひび割れた自我と言うものは、身を置く時間軸が必要なくなる。
 時には巻き戻り、時には同じ出来事を繰り返す。
 そうして壊れた心は確かな時間の認識を失い、更にひび割れ、砕けてゆく。
 感情が示す意味も、この男には必要なかった。
 微笑み、穏やかな歌声を披露したかと思えば、突如頭を掻きむしり慟哭する。
 彼にとって感情とは突然湧いて出てくるもの。
 その感情がどんな要因をもって引き起こされるのか理解できないのだ。

 幾度となく訪れた森の中。その奥、いっとう暗い場所で彼は、毟り取られた羽をこれ以上奪われないよう抱え、蹲っていた。
 その羽が何なのか、とうの昔に忘れてしまってもなお、大切に。

 彼の周りには羽ばたく自由を奪われ、朽ち果てた小鳥が何羽も地に打ち捨てられていた。彼はその最後の一羽を胸の中へと庇い、代わりに自身の背は無数の矢を受ける。
 痛々しいほどに濡らす血は、まるでシロップを垂らすような緩慢さで彼の足元に広がっていった。

 真っ赤なシロップにいつも添えられるのは乾燥しきった唇が紡ぐ恋の歌。
 天上の星々を称えるような旋律を、碌に調律がされていない壊れかけの楽器が奏でる。所々調子が外れ、生前の彼であれば「こんなものでは駄目だ」と怒りに震えていた事だろう。
 しかし、その曲が誰の手によって作られたものなのか理解できなくなった今、調子が外れたところで些事に過ぎない。

 彼はこの地獄の様な森の中で、今もなお美しい幻想を抱き続けている。家族の、師の、主の、弟子の、友の、それらの笑顔と笑い声に囲まれて、自分は最期まで幸せだったのだと示すように穏やかに歌う。
 殆どが射ち落とされ、見る影もなく朽ちてゆく小鳥たちには目もくれずに。

 それは子を寝かしつける母の子守歌の様だった。緩く目尻を落とした顔でピクリとも動かない小鳥を労わるように撫で歌いながらも、しかしその落ち窪んだ瞳から止め処なく溢れ頬を伝うものが何なのか判っていない。認識していない。
 狂人めいた行動であれど、それでも彼の自我を保つものは深い愛だった。

 しかし――

「サリエリ」

 なぜその歌なのか。
 なぜあの男の曲ばかり歌うのか。

「貴様はあんなにも沢山の曲を作ってきたではないか」

 なぜ、それを歌わない?

 歌が止まる。
 それまで何をしても見ざる聞かざるを貫いていた彼が反応を見せ、辺りは痛いほどの静寂に包まれた。徐に顔が上がると、くすんだ瞳は恐怖で引きつっていた。
 そして答える。何ひとつ判らないのだ、と。

 小鳥を抱きしめる腕に力が込められた。カタカタと身体は小さく震え、ゆるゆると頭を振って思い出そうとする。
 だが思い出せる筈などないのだ。
 なぜなら彼が今こうして後生大事に抱えているものは、自分ではないのだから。
 世間の汚らしい噂によってこの森は陰鬱さを増し、彼の周りを彩っていた小鳥たちは悉く地に堕ち、背には夥しい数の悪意に貫かれ続ける。
 途方もない時間。自らを失って久しい筈だというのに、彼は未だ繋ぎ止めようと必死なのだ。
 己を証明できるものは、もうこれしかないのだと言わんばかりに。

 ああ、貴様は――
 こうして何度も穢され、切り刻まれ、絶望しても、天上の音色を奏でるその黄金の小鳥を手放すことはないのだろう。
 そいつこそが貴様を忘却の闇へいざなう元凶だとしても。

 だが、今は。

「今は、『それ』に縋らずとも貴様の存在は証明される」

 そっと彼に近付き、折れないようその頼りない背中に腕を回す。生前の彼が数多の子供たちにしていたように、ゆっくりと手のひらを上下に撫でた。

「眠れ、眠れ」

 何度も、何度も。
 悲しみと恐怖に強張った身体がほどけるまで。

 やがて人の温もりを感じたのか震えは収まり、無抵抗な重量を腕に感じた。顔を覗き込むと、疲れ切ってはいるが泣き腫らした瞼に覆われ穏やかに眠っている。
 しかし彼の背を撫でる手は止めなかった。

 悪意に傷ついた歴史の被害者。
 アントニオ・サリエリ。

 彼を傷つけた歴史によって生まれた我らでは彼を救うことはできない。
 だがそれでも、今日だけは。

「眠れ、眠れ。安らかに」

 愛しい人よ。
 今だけは、どうか安らかに。