La canzone di Angel

 魔力を失い、外装が維持できなくなったサリエリはとても無害だ。まるで自身のサーヴァントクラスを忘れてしまったかの様に動かず、反応せず、言葉も発しない。更に言えば僕の姿すら視界に映らないのか、目の前に立っていても焦点が合う事はなかった。
 まるで精巧な人形の様だと思った。試しに彼をベッドへ連れて行きセックスを始めても抵抗してこないし、何より彼の息子は全く兆しを見せなかった。これじゃあマグロを相手にするより酷い。僕は早々に萎えて行為をやめた。
 次に彼の好物であるスイーツを用意して彼に食べさせてみたがこれも全くの無反応。ケーキを一口分掬って口元に近づけても口を開こうともしない。
 流石に苛々してきた僕は行き場を失ってしまった一欠けのケーキを自分の口に放り込み、目の前の人形の頬を掴んで直接流し込んでやった。
 けれどそんな僕の悲しい試みは、やはり失敗に終わってしまった。殆ど租借されていない食べ物を無理やり体内に入れようとした所為で、サリエリは喉を詰まらせ吐いてしまったのだ。
 ここまで反応に乏しすぎると最早お手上げだ。僕は仕方なく彼をイージーチェアに座らせ暫く放っておく事にした。

 ピアノの鍵盤と書きかけの楽譜に向かい、けれど視線は彼の方を向く。
 この光景を何も知らない第三者が見たら療養中の親友の面倒を見ている世話焼きな男と評するだろう。けれど残念ながらそれは違う。そもそも魔力切れを起こしたサリエリを連れたマスターが「抜け殻みたいになってる」と騒いでは一番暇そうにしているからとか言う理由で僕に彼を押し付けたのが事の発端だからだ。
 彼は相変わらず何処を見ているのか判らない表情でずっと背凭れに身を預けたまま。ふと「実は死んでいるのでは」と思いもしたが時々瞬きをするのでやっぱり生きているらしい。殆ど変化を見せない彼を観察するのに飽きた僕は、早々に五線紙に向き直し作曲を続ける事にした。

 そうこうしていると譜面台に広げていた真っ新な五線譜はみるみるうちに黒い点と線で結ばれてゆく。時折記号も織り交ぜながら脳内で浮かんでは消えてしまいそうになる旋律を余す事無く書き写す。それが一区切りついたところで一度、鍵盤の上で踊らせてみる事にした。演奏しながらここはもう少し弱く、とかここはもう少しダイナミックにしてもいいなとか考えていると、不意にドサッと雑音が聞こえて手が止まった。
 音の鳴った方を振り向くと、これまで何をしても無反応だったサリエリが何故か椅子から転げ落ちていたのだ。

「……動いた」

 僕はとっさにそう呟いた。どうやら何かやりたいらしく、倒れた後ももぞもぞとしている。しかし、魔力が戻っていない所為なのか、自分を支える力か非常に危うい。どうにか起き上がらんと緩慢な動作で手足をばたつかせている様は、まるで仰向けにひっくり返された青虫の様だ。
 それでも、少しずつ、ほんの少しずつ、ズルズルと床と布が擦れる音を響かせながらどうにか進んでいる。前を見据える気力は無い。けれど確かに、彼は『僕』の許へ近付いていた。
 彼の観察を再開してどれくらい経っただろう。体感的には随分長い様な気もするけど、そんなに経っていない気もする。とにかく、何もせずじっと事の顛末を眺めるなんて退屈な行為を珍しくしていたもんだから、彼が漸く僕の許へ辿り着いた事に気付くのが少しばかり遅れてしまった。
 彼はとうとう力尽きたらしく、僕が座る椅子に背を預ける様な格好で横向きに寝転がっていた。相変わらず何を映しているか判らない虚ろな瞳。主の身体を支える役割を放棄してしまったかの様にだらりと投げ出された四肢。
 ああなんだ。単にここまで来たかっただけなのか。
 そう、落胆の様な諦めの様な心境でそう結論付けたその時だった。

「――――」

 碌に発声がされてなくて掠れた、けれどとても透き通る旋律が控えめに僕の鼓膜を叩いたのだ。
 その歌は僕がさっき作り掛けた曲のメゾソプラノの部分だった。けれど今この部屋には僕とサリエリのふたりしか居ない。僕は勿論歌も歌えるけれどこんな高音域は専門外だ。ならばこの歌声の犯人はあとひとり。
 かつて、僕たちが宮仕えの音楽家として最も作曲に勤しんだあの時、皇帝はお気に入りだったサリエリの事を何度か『天使の歌声』だと評していた。彼の歌声を聴いた事が無かった僕は、当時そんな風に彼を絶賛する皇帝の事を『娘を溺愛する馬鹿親の様』だと余り良い印象を持っていなかったし気にも留めていなかった。
 そして今、こうして僕が動揺してるだなんて全く理解していないだろう彼は、お構いなしに美しい高音を響かせている。同じソプラノ歌手でも滅多にお目に掛かれないその柔らかさと透明感は、まるで母親の子守歌の様。彼がカウンターテナーとして優れていると証明するには十分だった。
 独り言の様に口を小さく開閉しては控えめに喉を震わせ詞を紡ぐ。こんな無垢な歌声を僕は知らない。未だ床に横たわったまま虚ろに歌い続けている彼を暫く眺めていたけれど、このまま垂れ流したままにしておくにはどうにも勿体ない気がして、僕は徐に鍵盤に向き直っては彼の歌声に合う伴奏を付けてやった。

「――――」

 空虚だった僕の部屋に音楽が満ちる。
 ひとつは、神才と称された僕が奏でる、極上の伴奏が。
 もうひとつは、何もかも失ってしまった君が紡ぐ、子供よりも無垢な歌声が。
 いつ彼の魔力が戻るかわからないけれど、再び望まない殺戮を行わなければならない地獄に身を投じるその時まで、ほんの僅かな間でいいから、今この時間が彼にとって安息となれる様に。

 僕は、柄にもなく丁寧な指使いでディーヴォの歌に花を添えた。