お前の傍に居れるなら何処でもいい

 キミは海か山、どっちが好きだい?

 昔そんなことを訪ねてくる友人がいた。
 否、恐らく彼からすれば、私は体のいい財布係でしかなかっただろう。対等な人間関係など碌に築けない、音楽以外はからっきしの、はっきり言ってクズだったからだ。けれど他の者より少しばかり耳がよかった私を、彼が気に入っていた。ただそれだけの関係である。
 そんな彼がある日、大学の友人たちとキャンプに出掛けた際、その道すがらで私に冒頭の話題を投げかけたのだ。彼からすれば明日の天気の話をするかのように、何てことない、ただの世間話。
 けれど私からすれば、正にいま選択肢に挙げた内の片方へ向かっていると言うのに何を今更聞いているのか、と言う感じだった。

 ねえ、どっち?

 彼は尚も食い下がり、私から答えを聞き出そうとしている。
 私は何故か、返答に窮してしまった。
 程なくして目的のキャンプ場に辿り着き、彼と私は最後に車を降りる。ひんやりと澄んだ空気が頬を撫でる感覚が心地よく、私は更に視界を遮断することで更に深く感じた。そして胸いっぱいに空気を取り込んでは都会のガス煤けた肺を浄化する。
 ふと彼の足音が聞こえないことに気が付く。私は慌ててキャンプ場の方へ向かいなおすと、そこには先に行っていると思っていた彼が私を見詰め、うすぼんやりと哂っていた。思わず足が止まる。
 徐に彼が近付く。私の足は縫い留められたかのように動かない。目の前にいるのは友人な筈なのに、どうしてか逃げ出したくて堪らなかった。
 暑くもないのに、汗が止まらない。

 僕はさ――

 彼の薄い唇は弧を描いたまま解け、少し高めのテノールが響く。
 この後の台詞は枝葉が擦れあう音にかき消され、拾い上げることができなかった。
 そして思い出す。
 彼の質問に答えていなかったことを。

 あの日から一年が経った。
 私たちはその時期が来るギリギリまで決行か否かで揉めていたのだが、彼に会うために、とやはり行くことになった。
 いつものようにバーベキューセット一式やテント、寝袋やその他各々が持ち寄った食材などを車に積み込み、出発する。
 去年と同じ山、同じキャンプ場へ。
 私の隣には誰もいなかった。他の友人たちが最近流行っているアーティストの話題や大量に出された課題の話でそれなりに盛り上がっている。そんな中、私は山道に入ってから鳩尾あたりを燻り続けている不快感をどうやり過ごすか考えていた。
 ぐるぐると、まるで得体のしれない生き物に体内を食い荒らされるかのような感覚は、なるべく遠くを眺める様に努めても改善されず、むしろじわじわと悪化の一途を辿っている。普段は滅多に酔わないだけに、いざなってみると流石に辛かった。心なしか冷や汗が滲んてきたようにも思う。
 あと少し、あと少しで目的地に辿り着く。
 そうやって自分に言い聞かせて、何とかこの険しい山道を乗り切ろうとした。
 ふと、鬱蒼と茂る森の奥で見たものに、私の時は、一瞬だけ止まってしまった。
 ぼう、と自ら発光しているかのように浮かび、立っていた金色のそれ。
 それは『あの時』と同じようにうすぼんやりと哂っているようにも見える。
 なぜ、彼が――
 そしてそれは、間違いなく、私を見ていたのだ。
 目が合った、と思った。その瞬間、身体の不快感はピークに達し、胃の中身が急速に逆流を始める。咄嗟に手で口元を覆い上体を屈めた。
 私の異変にどうやら友人たちも気が付いたらしい。ある者は小さなビニール袋を手渡し、またある者は私の背中を擦る。ハンドルを握る者は速度を落とし、待避所が出てこないか探してくれていた。
 声が聞こえる。たぶん、私が意識を失わないよう声かけをしてくれているのだろう。しかし、急激な体調不良でパニックになった私の身体は正常な機能を失っていた。至近距離で私に向けられている筈なのに、声が遠く聞こえる。何を言われているのか全く判らない。
 広げたビニール袋の中は、既に半分ほど吐瀉物で埋め尽くされていた。
 程なくして私を苛む車の振動は止み、清涼な空気が一気に入り込む。車内を漂う饐えた匂いが霧散したことで、嘔吐感は無くなっていた。友人たちの肩を借りて車外に降ろされた私は、あらかじめ広げられていたレジャーシートに腰掛け水を受け取る。
 口の中を濯ぎ、体調も落ち着き始めたところで、いま一度、彼を見た森に目をやる。誰もいない。当たり前だった。
 友人たちの声が遠くから聞こえる。既に正常な機能を取り戻していた私の鼓膜は、彼らが少し離れたところで話していることを伝えた。ゆっくりと立ち上がり、体調が良くなった旨を伝えようと歩き始めたその時。
 ガサリ、と異様に大きく草葉がざわめいた。思わず立ち止まる。何故だか音のした方へ視線を向けるのは憚られた。
 ざわめきは大きく、そして永く、まるで誰かを呼ぶかのように響く。友人たちはどうやら音が聞こえていないらしい。ならばこの音の主は誰を呼んでいるのか。考えずとも明白だった。

 ねえ、サリエリ。

 私を呼ぶ声が聞こえる。それは聞くことが叶わなくなって久しい、けれど余りにも聞き慣れ過ぎた声だった。徐々に視界が友人から森へ、場面を変える。
 彼が、いた。

「ア、マ……」

 声帯に力が入らず、言葉は紡げない。
 いるはずない。いてはならない筈の彼がどうして。
 聞きたいことは山ほどあるのに名前さえ口にできない私は、だらしなく口を開け放つことしかできなかった。
 瞬きを忘れた私の瞳は、頑なに見ることを拒否していた。しかし今は却って目を離すことができない。ぼう、と自ら発光しているかの様に眩い金色。その中でいっとう輝く二対のペリドット。そして、特徴的な薄い唇は、うすぼんやりと哂っているようにも見える。
 丸かった宝石がアーチを描く様に細められた。重力に従い下がっていた両手は、徐々に持ち上がり両手を広げる。それはまるで、子を迎え入れる母のようで。私の足は無意識に彼の方へ歩を進めていた。
 覚束ない足取り。一歩一歩踏み占める度に上体がぐらつく。やがてアスファルトの感触を伝えていた私の足は、ぬかるんだ土と草に入ったことを知らせてきた。
 瞬間、ひやりとした風が舞い、頬を、髪を、服を撫でてゆく。視界一杯に彼の金が広がり――
 私の目は、何も映さなくなった。

『僕はさ、キミとふたりきりになれる山が好きだな』

 耳はその台詞を最後に、機能を停止した。