これは、ある意味で〝罪〟といえるのかも知れません。
我々デュエルモンスターズの精霊には暗黙の掟があります。
――人間界を侵さない、人間に干渉しない、人間に情を移さない。
あくまで超自然的な存在である我々は、その一人一人が世界を脅かしかねないほどの力を持っています。だから人間界へ降りるなら、常にそれを自覚して行動しなければなりません。
ただでさえ元の世界を離れれば制限される力を、人間と共に生きるためとはいえ更に制限をかけなければならないのは窮屈極まりないことです。そのため、力ある精霊ほど自分の領域から出ようとはしませんでした。
数年前までは。
そういう意味では、ボクのような存在は希有といえるのかも知れません。いや、異端でしょうか。
とにかく人間との関わりに興味があったボクは、とある一人の少年と出会いました。
彼は心優しく穏やかで、争いを好まず、けれど周囲で彼に敵う実力のデュエリスはいませんでした。それだけ、カード一枚一枚と真剣に向き合い、そして愛してくれたのです。
彼には両親がいません。幼い頃に事故で亡くしてから、ずっと天涯孤独です。精霊の姿が見える彼にとって、両親の次に長い付き合いのボクは家族同然と思ってくれていたのではないでしょうか。カードに向ける眼差しからそれを感じていました。
けれど、ボクたちにかけてくれる数々の言葉を愛おしく思いながら、不干渉の掟が口惜しい。とても心苦しいことですが、彼との関係を続けていく上で必要なことなのです。幸い彼はとても聡い方でしたので、そんなボクの事情を汲んでくれていました。それが思慮によるものか遠慮からかはわかりかねましたが。
幼少期のマスターは、笑顔こそ多くありませんでしたが、比較的穏やかだったように思います。時折、両親のいない寂しさからか、涙を流す姿を目にすることもありましたが、少なくとも友人の前ではとても落ち着いていました。目標だと話していたデュエル・アカデミアへの入学も叶いました。一見すると順調に見える彼の人生に、このまま少しずつ光芒が射していくのだろうと確信していました。
高校へ上がり、マスターは孤児院を離れて全寮制の離島へ住まいを移しました。
中等部で出会った二人の友人とは、同じ寮舎の隣室を割り当てられて「これから泊まり合えるって吹雪の奴がはしゃいでたな」と頬を緩ませておられました。ボクも同じ未来を思い描いていたので、きっと近い内に叶うでしょう。そのときは、もう一人の友人も交えて夜通しデュエルについて語るのではないでしょうか。
「楽しみですね、マスター」
スーツケースの口を広げたマスターは、その中身を然るべき場所へとテンポよく仕舞っていきます。制服の下に着る服は大きなクローゼットの中へ。そして、数少ない私物のひとつであるカメラは、デスクに取り付いている引き出しの中へ。まるで初めから決められていたかのように、その動きに迷いはありません。
「どうせ、言い出しっぺが先に寝落ちて、俺と丸藤だけが取り残されるんだろうなぁ」
ボクとの会話を続けながらも、マスターは順調にスーツケースの中身を空にしていきます。目線は絡みませんが、勝手知ったる要領で進む会話です。それにすげない態度だと感じたことは一度もありません。
「楽しくなりそうじゃないですか」
「そうだけど、丸藤の話って普段は理屈っぽいのに、時々突拍子もないこと言い出すから吹雪より気が抜けないんだよ」
「それは以外ですね」
手伝うことのできないボクに付き合ってくれる優しいマスター。この関係性はとても心地よく、ついついマスターを視線で追いかけてしまいます。今何をしているのか、どんな表情をしているのか、何を手に持っているのか。気になって気になって、そしてまた温かな感情が湧き上がるのです。
「天然って、多分アイツのことを言うんだろうな。あーでも、丸藤の場合、自己完結が行き過ぎて言葉足らずになってることが多いから、ちょっと違うか?」
「ふふ、マスターは彼らのことが好きなんですね」
そうして何気なく思い浮かんだ感想を口にすると、不意にマスターの手が止まりました。ゆっくりと、屈んでいた上半身を起こしていきます。
「どうなんだろう。そう言われると照れくさいけど……きっと、ありがたいことなんだろうな」
しばらく考える仕草を見せて、それからようやく視線が合いました。はにかむようなマスターの表情はどこか遠慮がちでしたが、不快ではないようです。ボクはまた胸が温かくなるのを感じました。
だから彼等とマスターとの関係は、少なくとも学園を卒業するまで続くものと信じていたのです。
休日や放課後のマスターは、図書館で過ごすことが多いです。あるときはレポート課題の調べ物をするために、またあるときは寮に持ち込む小説を探すために。ああそれと、喧騒から離れたいときもここを利用します。人の存在を感じながら、心地好い静寂を得られる絶好の場所として気に入っているのだそうです。
人の輪から浮きがちのマスターですが、その実態は誰よりも寂しがり屋です。だから無人の森ではなく、他人のいる図書館を好みました。
この日は課題のレポートを進めるためにやってきました。放課後から間もない時間だからか、人の数は疎らです。これはマスターの好きな静けさで、彼は満足気な足取りで定位置の席へと向かいました。
ペンケースとノートを置いて場所を取り、くるりと踵を返しては目的の本棚へ歩いて行きます。大概の本には触れているので、ほとんど迷うことなく目当ての棚にたどり着きました。そこから更に欲しい情報の載った一冊を探すのですが、ふと、背表紙をなぞるマスターの指が止まりました。
「……丸藤……」
ぽつりと発せられた声は、微かながらも確かに友人の名前を口にしていました。気になったボクもそこを覗いてみます。
金属の骨組みでできた本棚は、その先を見通すことができます。虫食いのように空いた隙間から、お名前の方の姿を認めることができました。すらりと伸びる後ろ姿が見せる白い制服は、図書室の薄暗がりによく映えます。
「彼も、レポートの資料探しでしょうか?」
「どうだろう」
「声、かけないんですか?」
「うん。邪魔したら悪いし」
窓辺から景色を眺めるかのように、向こう側の様子を窺うマスターの横顔は、少し寂しそうに見えます。その理由は、碧色の髪を揺らす後ろ姿の隣で、チョコレート色の髪が戯れるように揺れていたからでした。
二人の様子はとても仲睦まじ気です。茶髪の彼が忙しなく手を動かしたり、くるくると表情を変えたりするのを、もう一人の彼がじっと耳を傾けています。少し離れた場所で彼らを見つけると、よく目にする光景でした。時々肩を寄せ合って同じ本を覗き込み合う姿は、確かに壊すにはもったいないと思えます。
「……やっぱり部屋に戻る」
マスターは、力なく腕を下ろしてそう言いました。棚の向こうでどんな会話をしているのか、こちら側に立っている以上、知ることは叶いません。本当は聞きたくて堪らないだろうに、唇を噛みながら、何かから振り切るように棚から身を逸らします。そして、場所取りのために置いておいた筆記用具を引っ掴んでこの場を後にする――かと思いきや、ふと、マスターの動きが止まりました。
「……」
徐に上がる顔。恨めしそうに投げる視線の先は、二人の友人がいる通路です。マスターの顔は今にも泣き出しそうでした。
やはり一声かけに顔を出した方がいい。そう考えた私がマスターの眼前に身を乗り出そうとした、そのときでした。
「っ!」
かちゃん、と金属が弾けるような音が耳に飛び込んできます。それはとても微かな音でしたが、私もマスターも確かに拾い、そして互いに顔を見合わせました。
不快な予兆に、堪らずボクとマスターは駆けました。図書室なので極力足音を立てず、けれど逸る気持ちから身体は前傾で。どこでその音が鳴ったのか、小さ過ぎてわかりません。けれどどうしてか、向かう先に迷いはありませんでした。
マスターと共に棚の影から通路へ顔を覗かせます。薄闇の廊下に浮かぶ白はひとつだけ。茶髪の友人の姿はなくなっていました。
碧色の彼は、一冊の本を開いて熱心にそのページに視線を落としています。音に気付いた様子はありません、早くこの場を離れなければなりませんが、何が起きるのか予測できない状況で、どうやって移動させたらいいのでしょう。
直接言っては怪しまれてしまう。そんな不安が、ボクとマスターの行動を鈍らせます。
「……ッ! 丸藤!!」
まごついている間に、その瞬間はやってきました。棚の骨組みを繋ぐ部品は次々に壊れ、音を立てて瓦解する金属と本の雨が、すぐ側に立つ彼に落ちようとします。彼は棚が傾き始めてから、ようやく異変に気付きました。逃げるにはもう遅い。悲痛な叫びを上げるマスターが形振り構わず飛び込んで行こうとしています。
ボクは咄嗟に右手を前方に翳していました。眼球の奥から湧き上がる熱を掌に集め、そして放ちます。鋭い光が周囲を白く染め、たちまち二人の姿を塗り潰していきました。
やがてホワイトアウトした世界が、徐々に色を取り戻していきます。図書室は薄闇を取り戻し、マスターとその友人の輪郭も少しずつ明瞭になっていきました。そしてすべてが元通りになると、雪崩から免れた二人が呆然と立っていました。
碧色の彼は切れ長の双眸をめいっぱい見開き、謹厳そうな唇が緩く空いています。足下の山に視線を落とし、事態の理解が追いついていないような表情をしていました。棚は無残に崩れ、夥しい数の本と金属が山を作っています。本来ならその下に埋もれるはずだったのに、僅かに逸れて無事だったのだから当然でしょう。
徐に彼の顔が上がり、マスターと目が合います。
「いま、何か……」
ぽつりと零された言葉は、一体誰に向けてのものでしょうか。静まりかえる周囲に、腹の底を撫でるような低音がやけに大きく響きます。
「ねえ、今の音なに?」
「本棚が崩れてるぞ!」
「おれ先生呼んでくる!」
遠くの方でそんな声が上がると、冷静さを欠いたざわめきが瞬く間に伝播していきました。静謐の場で突如発生した轟音に誰もが惑い、慌てています。
そんな中、渦中のボク達だけが、まるで時を止めたかのように立ち尽くしていました。
程なくして教師が足早にやってきて、マスターと彼を保護しました。怪我の有無を確かめるために保健室へ行くよう誘導し、ボクはその後ろをついて行きます。
保健室の中でマスター達を出迎えてくれた白衣の女性は、手早く傷の具合を確かめると穏やかな笑みを向けてきました。無事であったことを告げ、けれど大事を取って休むよう言い残し、保健室を出て行きました。
二人は、横に並ぶベッドの縁に、それぞれ向かい合うようにして座りました。耳鳴りがするほどの沈黙には、互いの無事を喜ぶ様子はありません。片方はじっと項垂れ、もう片方は居心地悪そうに視線を彷徨わせています。これはもしかして、ボクの方から切り出さなければならないのでしょうか。あまり心地のいい空気ではなく、堪らず口を開こうとした、そのときでした。
「藤原」
彼の声です。呼ばれたマスターはびくりと方を震わせました。
「な、なに……」
「さっき、本棚が倒れた瞬間に何か見なかったか?」
今度はボクの方が息を呑みました。精霊が見えないはずの彼が、一体何を言い出すのでしょう。彼は無表情ですが、その眼差しには真剣さが感じられます。それが更なる焦りを生みました。
「見てない、けど……どうして?」
平静を装うとするマスターの声が震えています。視線は床に落とされたまま上がってこようとしません。
「いや、何でもない。……だがたしかに、大柄な天使のようなものが見えた気がしたんだが」
「それこそ、気のせい、じゃないのか? オカルトに興味ないくせに、珍しいな」
言葉は途切れがちで、不自然に抑揚がなく、そして刺々しい。目上の人間に叱られて強がるようなマスターの態度に、ボクの胸がちくりと痛みました。
けれど彼の声音はあくまで穏やかなものでした。責める気配はどこにも感じられません。けれど、彼がマスターの名前を呼びかけた瞬間、マスターは勢いよく立ち上がります。
それはまるで逃げるかのようでした。一度も彼を見ることなく、足早に保健室を出て行きます。乱暴な音を立てて閉まる扉。我に返ったボクは、マスターの後を追わなければなりません。けれど少しだけ、その足に躊躇いが生まれました。
振り返れば、何やら考え事をしている様子の彼が目に留まります。僅かな憂いを湛えたようなその顔の奥で、何を考えているのか読み取れません。
『……ごめんなさい』
伝わるはずもないことはわかっていても、それでも、口にせずにはいられませんでした。
精霊界のタブーを犯したこと。
他人のマイノリティーを勝手に晒してしまったこと。
何もかも手遅れになってから、それが〝過ち〟であることに気が付きました。
二つの罪は、やがてマスターとボクとの間に軋轢を生み、闇と光に別たれる結果を招きました。
親友とされていたはずの彼らに見捨てられたそもそもの原因を作ったのは、他ならぬボクなのです。
精霊界を脅かす元凶がマスターと関わっているのなら、探さなければなりません。
マスターに捨てられた事実を改めて見る羽目になっても。
ボクは――藤原優介のカードですから。