スターターピストルの音がする

 ガタン、と窓が揺れる。
 経済誌に落としていた視線を上げると、突風にもぎ取られた花びらが中空を漂っているのが見えた。春の到来を告げに来てくれたらしいと気付き、俺はサイドチェストに置かれたデジタル時計を見遣る。カレンダーの機能も兼ね備えているそれが示す日付を見て、周囲がやけに静かな理由を理解した。
 今日は卒業式の日。つまり、デュエル・アカデミアという揺り籠から翔が巣立つ日である。今頃は級友との別れを惜しんでいることだろう。涙と鼻水でくしゃくしゃになった童顔が目に浮かぶ。
 振り返れば、同じ頃の自分は別れを惜しむ級友が周囲に集まらなかったように思う。友人が全くいなかった訳ではないはずだが、俺を優先するほどではなかったのだろう。卒業デュエルの終わりに、クロノス教諭と鮫島校長に泣き付かれた記憶だけが鮮明に残っている。些か大仰にも思える彼等の表情に嘆息しつつも、しかし涙は流れなかった。
 別離を惜しまなかった訳ではない。興味を引くデュエル理論を話してくれたクラスメイトや、卒業デュエルで味のあるプレイングを見せてくれた後輩と離ればなれになるのは、やはり寂しい。
 だが俺は、未来に希望を見ていながら、心の奥底で細やかな虚無を感じていた。思いも寄らない形で成ってしまった吹雪の留年は、自分で思う以上に俺自身の感情に影響を及ぼした。胃の腑が重たく、足は縫い止められたかのようだった。そんな自分の変化を、吹雪は目聡く心配してくれた。「すまなかった」と、繰り返し頭を下げられた。そんな卒業式だった。
 何もかもがイレギュラーだったからこそ、翔の代は何もなくて本当によかったと思う。今日へ至るまでの過程に様々な苦難と試練に見舞われたが、乗り越える度に逞しくなっていく彼等の顔つきを見て、純粋に嬉しかった。敗者を踏み越えてでしか存在を維持できなかった俺よりもずっと健全で、羨ましい。彼等なら、この先どんな理不尽な苦境に立たされても強かに前を向いて行けるだろう。
「……?」
 窓越しに舞う桜を眺めながら思考に耽っていた俺を現実に引き戻したのは、控え目なノック音だった。その音の強さと回数は、記憶の人物のどれにも当て嵌まらない。訝しさを胸に潜ませて入室を許可すれば、おずおずと戸が開く。隙間から、新緑の頭が顔を出した。
「藤原?」
「あ、ごめん……アポなしだけど来ちゃった」
「いや、構わない」
 珍しい来客だ。ダークネスに関わる事件が解決した後で、デュエル・アカデミアに留まったとは風の噂で聞いていたが、一度も顔を合わせる機会がなかった。俺は療養中の身で、自由に島を出歩くことは禁じられていたから。
 ――否、それはただの言い訳に過ぎない。普通に歩けるのだから、思い立った時点で鮎川教諭に許可を取るなりして会いに行けばよかった。どうせ彼は不要な引け目を感じて足が遠のいているだろうから、何食わぬ顔をして訪ねればよかったのだ。だがそうしなかった。つまり、俺自身にも何らかの後ろめたさを彼に覚えていたということなのだろう。
「隣、座っていい?」
「ああ」
 藤原の動きに緊張が見える。歩幅は床を確かめるように狭く、肩は何かを警戒するように力が入っている。特に印象的なのは目線だろう。ベッドに腰掛ける俺よりも立って移動する藤原の方が当然高いはずなのに、どうも見上げられているような心地がする。それは、顔を伏せながら時折窺うように視線だけを寄越してくるからだ。不安げに揺れる眼差しは、一年生だった頃の翔と重なって見える。
「卒業式は終わったのか?」
「あ、うん……まあね」
「吹雪はどうしていた」
「妹さんにべったりだったよ。相変わらず、珍妙な恰好をしてたよ」
「そうか」
 何よりだ、と返事をしながら手に持ったままの経済誌をサイドチェストに置いた。会話の途絶えた部屋に窓枠の揺れる音が響く。ガタガタと喚くように悲痛な音は、二の句を紡ごうとする俺達の心に重たくのしかかる。
 この部屋には何もない。暇を潰すものも、会話の糸口となりそうなものも。最低限の調度品を並べた白いだけのここは、まるで俺の内情を暴く鏡のようだと思った。
 何もないのだ。長年心に虚を齎していた親友が帰還しても、言葉のひとつすら出てこないほどに。今日まで藤原を訪ねられなかった理由を、ここでようやく自覚する。
「丸藤……すまなかった」
 だが先に謝罪を口にしたのは藤原だった。
 息を呑む。彼に働いた不誠実を突きつけられたような気がして、何ひとつ言葉を返すことができなかった。痛みに耐えるかのように強張り震える彼の肩に、必要以上の自責が見て取れる。お前も利用されていた身だろう、俺もお前のことを忘れていたのだからおあいこだ。次々に浮かんだ科白を舌に乗せるも言葉にならない。どれもこれも、上辺だけを繕った気休めにしかならないからだ。
 こんなとき吹雪なら何と声をかけるだろう。卒業式は終わったという藤原の言葉が正しいなら、とっくに解散していていてもおかしくないだろうに、一体どこで何をしているのか。不在の人間に苛立ちをぶつけている自分に嫌気が差す。
「吹雪から聞いたんだ。俺達がいなくなった後のお前はずっと独りだったって。馬鹿だよな。誰よりも孤独を恐れていた自分が、誰かを孤独にしてしまう可能性に気付きもしなかったなんて」
 伏せる藤原の顔。垂れる前髪。俺を拒絶するように覆い隠された表情がどんなものか、まるで見えやしない。この場合にかけるべき最適な言葉を持ち合わせていない俺は、ただただ無力感を味わう。
「だが俺は何ともない」
「そんなはずないだろう」
 声を荒らげた藤原の顔が勢いよく上がる。潤んだ菫色の双眸が真っ直ぐ突き刺さり、先ほどのが失言だと気が付いた。かつてサイコ流の継承者だと名乗る人物とデュエルをした日、心臓の悪化で手術を受けた後に、翔に叱責されたのを思い出す。つくづく、言語化とは難しい。
「俺は……見ていたんだ、ダークネスの中で。お前が自分から闇に手を伸ばそうとしてるところを。学園の模範だった丸藤がスランプ程度で道を踏み外すなんてって……あの頃は嗤っていた。でも、思えば当たり前だよな。当時はまだ十九歳な上に……独りだったんだから」
 藤原は首を振る。「俺じゃあ耐えられないよ」と言いながら、膝の上に載せていた俺の手を取った。ひんやりと繊細な指が、血色の悪い俺の手の甲をなぞる。まるでガラス細工に触れるような触り方だと思った。
 手元に落としていた視線を上げると、繊細な顔立ちの男がそこにある。彼はまるで慈しむような表情を浮かべて、俺の手を眺めていた。
「痩せたね」
「そうか?」
「きっとそうさ。だって、昔はこんなに骨ばっていなかった」
 さらさらと、皮膚の下で盛り上がる骨と筋の感触を確かめるような手つきがくすぐったい。翔ですらこんな触れ方をしないのに、少しずつ羞恥が込み上げてくる。ついには居たたまれなくなって僅かに手を引く仕草をしてやると、彼は先ほどの熱心ぶりが嘘のように引き下がった。
 沈黙。そういえば、いつの間にか外の風が止んでいる。
「頼みがあるんだ」
 逡巡するような間を置いてから会話を続行させたのは、やはり藤原だった。ふと、昔はこんなに喋る奴だったろうかと疑問が湧いた。たぶん、俺が口下手なだけだろう。
 俺は別に、会話が嫌いな訳ではない。周囲に気の利く弟と、要らないことまでよく喋る親友が傍にいたから、自分が口を開く必要性を感じていなかっただけ。俺が言わずとも周囲の誰かが代弁してくれた。その状況に、ひとつの疑問も抱くことがなかった。なんて怠惰極まりないのだろう。
「なんだ」
 そのツケをいま、身をもって痛感している。
 たった三音の言葉を選び取ることが難しくて堪らない。それはまるで、初めて触れるデッキのような計り知れなさだ。
 否、デッキならまだよかった。生来の好奇心から、トライアンドエラーを繰り返すだけの度胸はあっただろう。しかし言葉は違う。間違えれば他者を傷付けかねない。そんな他人の生死すら操作できるほどの凶器を無差別に投げるだけの無謀さは、生憎と持ち合わせていないのだ。
 再びやってきた沈黙に胸がひりつく。選び取った言葉の正解が早く知りたくて、溜めに溜めた生唾を飲み下す。
 そうしてしばらく、言いにくそうに彷徨わせていた藤原の視線が上がり始めた。繊細な菫色に決意じみた色が混ざり、キリリと鋭く俺を射止める。そこで俺はようやく気が付いた。胸を焦がし続けていた不安は、全くの杞憂だったのだと。
「二年後、俺が無事に卒業を迎えることができたら……吹雪と丸藤で、迎えに来てほしい」
 地に足をつけたような声色だった。苦境を越えた先にある第二の出発点に立ったときの顔。数日前の弟も、これによく似た顔で俺に卒業後の夢を語ってくれた。前途の厳しさを覚悟した表情。どんな表現でもいい。もはや俺が言葉を選ばずとも、藤原はとっくに腹を決めていたのだ。
 また一人、俺を追い越して行ってしまったことを知る。むしろ、二の足を踏み続けていたのは俺の方だった。ぶわりと湧き上がる全身の震え。くすぐったくて、落ち着かなくて、だが不快ではない不思議な感覚。今なら何の引っかかりもなく言葉が紡げることに気が付いて、俺の全身は更に歓喜した。
 遠くから軽快な足音が近付いているのが聞こえる。アイツが来る前に、はやく。胸の奥底から浮き上がったそれらを掬い、舌の上に載せて、そして――
「ならその二年後に、お前や吹雪の隣に立てるよう、俺も追いついていないとな」
 くすり。
 どちらからともなく、小さく吹き出す。
「何だよそれ。追いかけるのは俺の方だろ」
「いいや、俺からすれば、お前はもうとっくに追い越しているさ」
「ふふ、変な丸藤」
 病室の扉が音を立てる。勢いよく開かれたそこから姦しい声を上げて入室してきたのは、西洋の歌劇を思わせる衣装に身を包んだ吹雪だった。
 久しく記憶から姿を消していた光景。無機質な部屋に鮮やかな風がふわりと吹き込む。冷えていた頬が徐々に熱を持ち始め、四肢の末端から活力が漲ってくる。
 嗚呼きっと、俺はこの喧騒をずっと待ち焦がれていたのだ。

 向かう道は違えど、必ずまた巡り会う。
 それぞれがそれぞれを思う限り、永遠に。