踊る踊る。
十の指が八十八の鍵盤を縦横無尽に暴れ回る。
時に激しく、時に穏やかに。
人間が持つ喜怒哀楽を、余すことなく旋律として表現する男の表情はひたすらに無だった。
それはさしずめ、音楽の神に感情を差し出した詩人の如。
男は奏でる。
紅き神秘の宝石に選ばれし男が辿った破滅の軌跡を。
まるでオペラのように壮大で悲壮で、そして滑稽で。
登場人物の思惑が、糸のように縺れ合う。
そうして展開された網から逃げ、身を滅ぼした憐れな男の物語。
「それを、コチラのピアノを通して語りましょう」
踊る、踊る。
八十八の鍵盤で構成された叙情詩。
美しい音楽たちは、詩人の思うままに脚色が施されている。
聴衆の都合のいい耳に合わせて。
踊る踊る。
透明度の高い音に魅せられた客は恍惚とした表情で聴き入っていた。
この曲がどんな意図をもって生み出されたのか知らずに。
そして誰が作曲したのかも知らずに。
或いは目の前の男こそが作者だとすら思い込んでいるだろう。
今、この曲を奏でているのは彼だから。
踊る。
踊る。
音の叙情伝は、やがて怒りにも似た激しさでもって終わりを告げた。
もしくは奏者によって突如幕引きがされた。
「そうして男は、自ら命を絶ったのでした」
これにて終幕となります。
徐に起立した詩人が恭しく一礼する。
何も知らない人々は、美しい音に手を叩く。
素晴らしい、素晴らしい、と口々に賞賛を送る。
床を睨んだままの男がどんな表情をしているのかも知らずに。
◆
「神才の音楽は、またしても民衆に理解されることなく無量の賞賛を浴びたぞ」
闇色をしたピアノの蓋を閉じる。聴衆の去ったホール。まるで読了後の余韻のよう。
アマデウス。
その名を口にする男の声音は、穏やかでいながら背後にナイフを隠し持っているようであった。
音楽家にあるまじき確かな殺意。或いは憎悪。
男にとってはどちらでもよかった。
鍵盤の蓋を撫でながら独白を続ける。
「やはりわからない。何故だ、なぜ……」
凪いでいた声音に細波が立つ。
男は懐から古ぼけた手記を取り出した。荒々しい手つきで開き、その最後のページに記された文字列をなぞる。
「最後の詩の意味が未だに解らぬ。あれは何だ。あの詩が意味する音楽はどれなのだ?」
吠えて、次に取り出したのは角の欠けた楽譜。手記の最初のページに戻って楽譜と照らし合わせながら、ひとつひとつ丁寧に捲ってゆく。
『死神の姿をした赤き金糸雀よ。
ミームが類推してゆく課程において淘汰された哀れな男よ。
僕はプロセスの中に組み込まれすらしなかった笑われるべき男です。
どうか、これから綴る懺悔を聞いてください。
光る宝石の手から必死に逃げながら、僕はずっとあなたに嫉妬しておりました。
数本の糸が絡み合うだけの思惑を、いつしか僕は巨大な陰謀と錯覚しておりました。
人間は醜い。それは僕も同じことでした。
ただ紡げばよかったのです。
ただ作り続ければよかったのです。
音楽はそれほどに無垢で美しいものなのですから』
ひとつのページに記された慟哭をひとつの楽章に見立てて残された音楽達。どの曲がどのページに該当するかを正確に拾い上げ組み立て直したものが、男の奏でる叙情詩だ。
彼を唯一理解できるのは自分だけだと言い聞かせて。
『宝石の啓示は酷く都合の良いものでした。
約束された栄光。絶対尊厳。
そんなものに何の意味があるというのでしょう。
刃を交えるように音楽をぶつけ合いましたが、終ぞ勝利は叶いませんでした。
当時は悔しさからあなたを貶めようと画策していました。
しかし今なら理解できます。
敗因は、時の色が見えなかったことにあるのだと。
蒔いた種は実ることなく朽ちて逝きました。
萌芽しなければ花が咲くことはありません。
しかし僕はそれを求め続けたのです。
葡萄酒をください。
パンをください。
博愛の象徴たるあなたの慈悲が欲しいのです。
あなたからの視線が、言葉が欲しい。
もう何度も受け取ってきたはずなのに、浅ましくも続きを欲しがりました』
走り書きのような荒さで綴られた文字は、終わりに近付くに連れて読解が困難になる。
時間をかけて読み進めた末、漸く解読した最終楽章を、男は未だ見付けられずにいた。
『歴史を歪められた人の世よ。
それを取り戻さんと顕現した死神よ。
赤きあなたが奏でる音は人の頂点であり、神の僕である。
僕はそんなあなたを賞賛しましょう。
あなたは僕を愛しています。
けれど僕はそれに応えられません。
アマデウスは、人の手に渡るべき存在ではないのですから。
僕はあなたを愛しています。
あなたは万人に愛されるべき存在であり、それは僕も例外ではないからです。
だからどうか奏でてください。
彼らのために。
箱庭と化したこの世界で、僕らの来訪を待つために。
僕があなたの前に現れるまで、奏で続けていてください。
僕が壊せなかった真紅の宝石を壊す者が現れるまで、奏で続けていてください。
栄光と破滅の宝石よ。
お前が齎す夢は正夢に非ず。
傍らで光り続けた愚のお陰で僕は死ぬだろう。
死神を世に残し、そして笑われたまま死ぬのだ』
男は思案する。これは死の間際に記されたもので、関連する楽曲は未完のままではなかろうかと。
手記に文字を落としたページと、楽譜の数が合わないのだ。
該当する楽譜が一枚も見付からない。生前アマデウスの親友を自負していたはずの男は、その権限から何度も邸宅を出入りし捜索に明け暮れた。
しかし、終ぞ見付かることはなかったのである。
音楽でしか想いを読み解けない男にとって最終楽章の解読は困難を極めていた。殆ど不可能に近い。
始めは自らの手で完成に導こうとした。しかしできなかった。金糸雀のように演奏するしか能のない自分が何かを生み出すなど愚の骨頂だと思ったからだ。
「貴様亡き後、いつしかホールから出られなくなった我ができることは、足を踏み入れた民衆に貴様の音楽を聴かせてやることだけ」
外の世界が今どうなっているのか。確かめる手段はどこにもない。それは余りにも退屈で不自由だ。
男はその意趣返しに、手に入れた楽譜を正確になぞることはしなかった。
どうせ理解する気のない連中に聴かせてやる謂われなどないのだと言わんばかりに。
罅割れつつある指を懸命に走らせながら、男は待ち続ける。
人理の使い魔となった主人公が、このホールを訪ねてくる瞬間を。