ルビンの壺が歪む

「ねえサリエリ、顔洗いたいんだけど」
 遊んでいた女に追い出されたとかで転がり込んできた洋梨顔の男は、その美しい相貌をだらしなく緩ませながら、開口一番そんな不満を我に投げた。
「顔ならそこの洗面台で洗えばいいだろう」
「鏡もないのにどうやって洗えっていうのさ!」
 突然押しかけてきた癖に我が儘な奴だ。
「なくても洗える」
 ないものは無い。そう念押ししてやれば「いまどき鏡付いてない家とかありえないだろ」などと愚痴りながら、アマデウスは奥へ引っ込んでゆく。全く、喧しい奴だ。ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる背中を完全に見送り、我はキッチンへ向かった。
 早く朝食の支度をしなければ。できあがる前に追い出さなければ、奴はいつまでも居座るだろう。このままでは脳内で完璧にスケジューリングしたタスクが、全て台無しになってしまう。それだけはなんとしても避けたかった。
 袋から食パンを取り出しトースターにセットする。
 さて、今日はどんなジャムを塗って食べようか。

   ◆

 やっとの思いで家からアマデウスを外に出す。何やら出がけに文句を垂れていたが、持ち帰った仕事があるからと適当な理由を並べてやれば、大人しく引き下がってくれた。
 生憎と嘘なのだが、相手はアマデウスだ。問題なかろう。
「……ふぅ」
 何故か残業明けのような疲労感を覚えながら、静まりかえった部屋をよろよろと歩く。少し覚束ない足取りで向かうのは、リビングではなく寝室だ。
 ドアノブを捻り恭しく扉を開けると、ベッドとデスクだけの簡素な部屋が我を出迎えた。
 空間を彩る装飾品の類いは一切ない。まるでオフィスの仮眠室のようだと揶揄されたのは記憶に新しく、それは昨晩押しかけてきたアマデウスが言い放った科白だった。
 只人を模した復讐者が部屋を彩るなど、滑稽が過ぎるであろう。
「……」
 そんな殺風景な部屋でも、クローゼットを開ければそれなりに物は入っている。服は場面ごとに装いを変えられるよう種類を多めに。そして時計、ネクタイ、コート、ジャケットにバッグ。デスク周りも然りだ。ノートにペンに眼鏡ケース。
 これだけで十分だろう。
 我は天板に取り付いた浅い引き出しから掌大の板を取り出す。女性が化粧する際に用いるそれは、カバーを開けると鏡面が自立する仕組みになっている。我はそれをデスクに立て、向かい合う恰好で座った。
 同じ顔をした星と対峙する。
「サリエリ」
 嗚呼、この瞬間はやはり至福だ。だらしなく頬が緩むその一部始終が鏡に映る。それが徐々に穏やかな微笑へと変わり、我より先に口を開いた。
『サリエリは君だろう、グリジオ』
「何を言う。サリエリはいつだって貴様だ。我はサリエリの影法師に過ぎない」
『そうは言ってもなぁ。私はこの通り鏡の住人だし、君がアントニオ・サリエリとして生きている以上、私がサリエリと言うには些か無理がある』
「しかし……」
 控えめに笑う声は柔和だが、鏡越しでも感じる有無を言わさぬ厳めしさ。生前に宮廷楽長として幾多の音楽家を教え導いたという威容は健在だ。
 如何に温和な風采であれど、その表情から浸出する教育者としての風格が、我にこれ以上の自己否定を許さない。押し黙る他なかった。
 不本意だ。
 大変に不本意である。サリエリ直伝の弁舌のお陰で何かと有利に立ち回ることができていたのに、いざ当人を前にするとまるで始めから存在しなかったかのように発揮できない。特にサリエリの話題・・・・・・・となると顕著だった。
 一度でいい。サリエリにはサリエリたる自覚を持ってほしいのだ。そうすれば、紛い物が本物を模した日常を送る無聊が多少でも晴れるというのに。
 過ぎたる願いか、サリエリは一度も許してくれない。
『それより今朝は随分と賑やかだったな。誰か来ていたのか?』
「アマデウスだ。すまない、喧しかっただろう」
『なんだ、それならもう少しいさせてよかったのに。できることなら一目見たかったなぁ。彼は元気そうにしていたか?』
「ああ、また女に逃げられたそうだ」
『ははっ! そうかそうか、今世も相変わらずか!』
 カラカラと豪快に笑う表情は、我にはできないものだ。こんなにも朗らかな男が何故、鏡などという窮屈な世界に閉ざされているのか。サリエリが笑う度、我の胸には暗雲が垂れ込む。
『モーツァルトが健在で私は嬉しいよ。君に頼むのもなんだが、彼には自愛するよう伝えてやってくれ。それはそうと、モーツァルトはまだ音楽を続けているのかい?』
「サリエリ」
 お喋り好きのサリエリの悪癖が始まった。我は堪らず話を遮る。彼は、アマデウスのこととなると弁が止まらない。奴の話題が我にとって鬼門であると解っているのに、その瞬間からは忘却の彼方に置き去ってしまうのだ。
 ハッと我に返ったサリエリは、少し焦った声で「すまない」と言った。
「いや、構わない。本来であれば貴様の態度こそが正しいのだ」
 しかし、我ではない我と同じ顔の男は力なく笑った。
『それでも、唯一の話し相手である君が不快に思ったなら、私はその話題を避けるよう気を付けるよ』
 我に、気遣いなど不要だ。その唯一の話し相手とやらに、最も望む話題を奪われているのだぞ。そう声を上げたい衝動に駆られる。何度も訂正しているのに、訴えているというのに、何故伝わらぬ?
 激情のままに拳を振り上げた過去を反想する。星屑が舞うように散らばった鋭利なる破片達。その原型は、もう眼前のそれしか残っていない。
 最後の鏡。その事実が、衝動を実行に移さず踏み留まらせてくれる。
 しかしそれもいつまで持つか。我の苦労など、鏡越しに住まうサリエリには解るまい。
『グリジオ、そちらの世界は辛いかい?』
 復讐者たる我の身を案じるなど、本来必要ないというのに。サリエリはいつも我を慮る科白を口にする。この胸の痛みはなんだ。
「何故そう感じる?」
『君はいつも辛そうだ。私を前にしていても、君が笑うことは滅多にない。まあ、その原因はきっと私自身にあるのだろうが』
 違う。サリエリに非はないのだ。膝に置いた拳に力が籠もる。
 何故だ。何故彼は我を糾弾しない?
 たった一方向の景色しか覗けぬ閉鎖世界に押し込められた怒りをぶつけてほしい。サリエリを模して只人となった我には、現世うつしよの不条理を呪うだけの力はない。それでも、サリエリには怒りに震え、非劇を高らかに歌う権利があるはずなのだ。そうしないのは何故だ?
『君は不本意かも知れないが、私は現状を受け入れている。燎原の火とやらに焼かれるはずだった私を、こうして鏡で繋ぎ止めてくれている。君には感謝しているのだよ』
「違う! 逆だ! 鏡の中でしか存在できぬ貴様の居場所を、我は壊しているのだ!」
『そうだな。君の行動は正しい。私もそれが一番だと思っているよ』
「そうではない! 我は、我は……!」
 伝わらない。もどかしい。
 その顔はなんだ。諦観か? 達観か? どちらにせよ貴様の表情からは何一つ読み取れぬ。それが、我にとって口惜しいことこの上ないというのに!
 緊張し、震える身体から湧き上がるものがなんなのか解らぬ。無意識に浮き上がらんとする腰を必死に抑え込むが、何故この衝動を律せねばならぬのかも、解らぬ。
 サリエリの微笑が直視できぬ。
 だがそんな我の辛抱も、次に放ったサリエリの科白によって敢えなく崩れ去ることとなる。
『君には、思うままの人生を生きてほしい。奏者は人の数だけ存在し、そして同じだけ作曲者もいる。君には君だけの音楽があるのだ。復讐者の因果から私の名を冠しているが、それは私の影だからではない。神から与えたもうた、紛れもない君自身の名前なのだよ。影と呼ばれるべきは私の方だ。私は鏡の住人であり、君にしか見えない幻なのだから』
「違うちがうチガウ! 我は、貴様はァ!!」

 ――ガタン!
 ――バキッ!

 あ、あ、――
 我はまたしても――

 苛烈な炎の如き衝動は、その一撃によって急速に鎮火した。磨き抜かれた小さな窓が粉微塵に砕けている。その破片が、指の間に挟まり赤く染まる。熱毒が染み広がるように、鈍の痛覚が我の神経を締め上げた。
 あれほど言い聞かせたというのに。

「ああ……」
 押し寄せた津波は呆気なく沖へ引いてゆく。あんなにも我を苛んだ激情は、消え去ると同時に自立する力すら奪っていった。
 すとんと座面に落ちる身体。先程より深く腰掛け、その延長で項垂れ顔を覆う。明かりの落ちたままの部屋が閉ざされる。一帯の闇。この景色は、かつて我等を燎原の火にて焼き続けた英霊の座によく似ていた。
「……サリエリ……」
 窓を失ったサリエリの世界は今、どのようになっているのだろうか。唯一であったろう光源を失った世界は、顔を覆った闇のように暗いのだろうか。
 自ら破壊したというのに、我は今、筆舌に尽くしがたい焦燥に駆られている。これを鎮める方法は――
「鏡を、鏡を用意せねば……」
 席を立つ。この日はアマデウスのせいで一日オフにする予定だったのだが、撤回しよう。早急に済ませなければ、二度とサリエリを現世うつしよへ連れ戻せなくなってしまう気がした。サリエリは我ではないのだから。
 クローゼットからダークグレーのジャケットを羽織り、軽く身なりと整えて足早に玄関へ向かう。

 今度はどんな鏡を用意すれば喜んでくれるだろうか。