歌が聴こえる。
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今宵はひときわ大きな満月だ。死んだ光が一帯に降り注ぎ、水底を青白く染める。音もない、色もない、息遣いすらも感じられない、冷たい場所。
微風が
歌が聴こえる。
ベッドと丸椅子しか置いていない殺風景な寝室で、それは響きすらせず弱々しい。一歩間違えれば傍らで色を添えているはずのアコースティックギターが彼の歌を呑んでしまいそうだ。
部屋の中には対照的な色味を持つふたりの男が静かに音楽を奏でている。
「――♪――」
仰向けに横たわった銀灰の男は、鮮血のような瞳を虚空に彷徨わせて唇を動かしていた。白いシャツだけを纏った真っ白な肢体は、歌っていなければ死人と見紛うだろう。消え入りそうな声は、まるで細い蝋燭のように儚い命の灯火を彷彿とさせた。死に逝こうとする彼の姿は、もうじき沈むこの街を体現しているかのようだ。
彼――サリエリはこの街から出られない。背中に人魚の入れ墨をもって産まれてしまい、街の生け贄にされているからだ。先人達が人魚の逆鱗に触れてしまったことで掛けられた呪い。それは街が沈まないようにする代わりに、次の生け贄が産まれるまでこの地に縛り付けられるというもの。老いることができず、子孫を残すことも許されず、自ら命を絶つこともできない。何故なら生け贄がいなくなれば街はたちまち沈んでしまうからだ。
巨大な満月が剥き出しにしているのは、水底の惨状。青白く幻想的な風景の下には死んだ街が広がっている。真新しい煉瓦の家屋も、古めかしい木造の家屋も、人間も家畜も、皆等しく沈んでいる。生き残りは、街で一番背の高い時計塔の最上階だけ。即ちサリエリとアマデウスがいるこの部屋だけだ。
重い持病を患っているサリエリは、その身体の弱さから次代の生け贄を待つことができなかった。砂時計のようにサラサラと減ってゆく命は、平行して街の水位を上げてゆく。
「――♪――」
優しい男の心は、命が消える前に死んだ。残ったのは、傍らに座る黄金の恋人――アマデウスが奏でるギターの音に反応し歌を紡ぐ本能だけ。
歌は止めどなく流れ続ける。
ふたりは密かに恋をした。サリエリはアマデウスが奏でるギターの音に、アマデウスはサリエリの紡ぐ歌声にそれぞれ惚れて、口づけを交わした。初めて呪い持ちのカップルが誕生したと周囲に知れ渡ったとき、誰ひとりとして祝福する者はいなかった。ましてやその呪い持ちが癒えぬ病を患っているともなれば、街はふたりを時計塔へ幽閉した。
連中の行動に人魚はどのような判決を下したのか。それは窓から見える風景が如実に物語っていた。人魚の怒りを忘れた愚かな生き物たちの末路が、そこには広がっている。月光の下で揺らめく青白い水面はぞっとする程に冷たく、静かで、美しい。
自我を失ったまま歌い続けるサリエリの目尻から一筋の涙が零れた。こめかみを伝ってぽたりとシーツに吸い込まれると、外の水嵩が増した。
アマデウスが爪弾くギターがサリエリの頼りない声を掬い上げる。一音ずつ奏でられる素朴な旋律はただ優しく歌に寄り添い、口づけを落とすように流れ続ける。その爪が罅割れても、全てが終わるまで演奏を止めることはない。
愛を語らう歌が聴こえる。
「あいしてる」
ユニゾンした。