血肉

※拙作「夜陰」の続きです。

 

 カリオストロ城の地下水路で身を潜めながら、来る決戦に向けて準備を進めていたルパン達だが、ついにすべてのカードを揃え終えた。
 その晩、「決起集会といこうぜ」と言いだしたのはルパンだった。次元はすぐさま酒とつまみを用意しに走り、五ェ門は周辺の残骸を利用して小さなちゃぶ台を作る。愛用のチタンマグカップに各々酒を注いで卓を囲み、中央に豆やら干し肉やらを広げれば、宴席の準備は完璧だ。カンパーイ、と金属同士をぶつけ、ぐびぐびと呷るその喉越しといったら、ここしばらくの苦労が吹き飛ぶほどの爽快感だ。ぷはぁ、うまい。三人は競い合うように息を吐く。
 陰湿な地下と無造作に転がる骸達を背景とした酒宴。正気の沙汰とは思えない場所での彼らの破顔っぷりは、不思議なほどよく溶け込んでいる。日陰者には似合いの席だと嗤ってしまえばそれまでだが、三人にとって会場の華やかさはさほど重要ではなかった。必要な人間と、必要な酒と、必要な肴があればどこでもいい。だからこそ彼らの顔には、不似合いなほど晴れやかな笑み刻まれている。好みのつまみを抱えながら、手酌で呷り、流し込む。次第に隣の芝生が青く見えると、たちまち不毛なつまみ争奪戦が勃発した。
 乱痴気同然に騒ぎ倒す三人の末路は、浮遊感にも似た高揚に身を委ねながらの微睡みである。スコッチとバーボンをちゃんぽんして飲んだ次元は早々に潰れ、大の字に倒れて大鼾おおいびきをかき始めた。向かい側に座るルパンは、七本目の缶ビールを空にしたところで船を漕ぎだす。
 そして二人の間に座っていたはずの五ェ門は、カップと一升瓶諸共、姿を消していた。

 ひたり、ひたり。閉鎖空間特有の反響によって幾重にも重なるせせらぎの様相は、お世辞にも趣があるとは言い難い。アジトから僅かに離れたその場所は、息苦しさすら覚えそうなほどの闇が重く垂れ込め、高い湿度も手伝ってひんやりと五ェ門に纏わり付く。しかしそれは五ェ門にとって慣れた感覚に他ならず、いい酔い覚ましだなどと思いながら静かに唇を湿らせていた。水路脇に姿勢よく胡座をかき、ちびちびとマグカップに口をつける。つまみを忘れてしまったが、なければこの景色と音を肴にすればいい。
 己の頬に指を這わす。少しだけ肉の削げたそこから伝わる不健康的な感触に、当時の惑乱を思い出した五ェ門はふっと鼻を鳴らした。
 未だ稚気の抜けぬ己の未熟なことよ。
 きっとどうかしていたのだ。身一つで食っていける自負がありながら、何故他人と手を組んでまで泥棒稼業に転身したのか。
 あれは斬ってはならないものだった。いつかは斬りたい、斬らねばならぬと考えていても、それは今ではない。もっと然るべき時、然るべき場所があるはずだからこそ、五ェ門は待たなければならなかったのだ。たとえ、研ぎ師の親父に揶揄い半分で急かされたとしても。
 取り返しのつかぬ後悔に浸りながら、残り少ない酒を一気に呷る。空になったカップに次の酒を注いでいると、背後から靴音が近付いてくる気配がした。

「ワリィな、米が手に入んなくってよ」
「ルパン」

 気遣わしげな声をかけながらやってきたルパンは、缶ビールを片手に五ェ門の隣に腰かけた。平素の道化染みた態度は鳴りを潜め、くびりと酒を呷る。
 凪いだ空気が二人を包む。相変わらず陰湿な音を反響させている水路に、夥しい数の髑髏されこうべと闇。眺めども、景色が変わることはない。ただ記憶の彼方にある景色に思いを馳せているだけ。
 ふと五ェ門がだらりと手を止めた。カップの水面に映る自分の顔から目を逸らすと、白い肌着に隠れたルパンの胸に留まる。どうにも居たたまれなくて、五ェ門はおずおずと口を開く。

「傷は、もういいのか」
「お前さんの手当がよかったからなぁ」

 するとルパンの口角が僅かに上がった。数週間も動けなかったというのに、まるで何もなかったかのような軽やかさで処置の評価を口にする彼の心中を、五ェ門は未だ理解できない。それでも懐の広さと底知れなさの両方を兼ね備えた得体の知れない大泥棒の隣は、どうしようもなく離れがたかった。
 再び、二人の視線は何もない前方へ向き直る。

「迷いの雲ってのは晴れたか?」
「わからぬ」

 実感がない、と言うのは偽りだろう。五ェ門の掌には未だ肉の感触が残っているし、この双眸が写し取った斬撃の瞬間も鮮やかに思い出せる。それはルパンに勝ったと理解するには十分過ぎる情報であった。
 だからこそ五ェ門は、わからない・・・・・としか答えられない。勝利の証拠は確然とそこにあるのに、待てど暮らせど歓喜がやってこなかったからである。知己と得物を交え合ったことは何度もあるが、こんな経験は初めてだった。あのまま手に掛けてしまったことさえあるというのに、どうして。
 コンテナの中で頻りに問い続けた言葉がまたしても甦る。自らに掛ければ掛けるほど胸の痼りは肥大し、呼吸を忘れそうになるあの感覚がまたしても五ェ門を襲う。嫌な感覚だ。じわじわと、眉間が強張っていく。

「ただずっと……ここが痛む」

 そう言って、耐えるように袷の胸元をきつく握りしめた。ワルサーに打ち抜かれた訳でもないのに、しくしくと喚くそれを鎮める術がわからない。意識がまたしても奈落に沈んでいきそうになり、引き留めようと深く嘆息する。
 ルパンの視線がこちらに向けられているのがわかった。ビールを飲む手を止め、じっと二の句を待っている。こういうとき、次元のようにするりと言葉が紡げたならどんなによかっただろうか。酒盛り場のど真ん中で眠りこけているだろう仲間に悪態を吐きかけて目を伏せる。己の口下手さを自嘲しながら、結局「耐え難い痛みだった」と続けるので精一杯だった。

「俺を斬ってみてどうだった」

 柔く弾みのある声が胸に響き、五ェ門は息を呑む。事実確認をするだけの質問であることは頭で理解していても、まるで凶器を突きつけられたかのように全身が竦む。

「そういえばよ」

 返事は待ってくれなかった。

「どうしようもなくなったとき、お前さんいつも斬鉄剣を振り回してたよなぁ。それで俺や次元のお気に入りをいくつもお釈迦にされたっけ」

 短気なんだからもう、とルパンは破顔する。

「エンゾのとこで決闘申し込んだのもその延長だろ。流石にあそこまでやったのは初めてだけっどもよ、俺を殺すような真似は絶対にしない。違うか?」
「っ……ああ」

 ルパンの瞳の奥が光る。まるで愛刀を思わせるように鮮烈な煌めきは、まっすぐこちらを射止めて離さない。初めて彼と対峙した日、落とし穴の中へ泥だらけの手を差し出してきた男がそこにいた。ざらついた硬い皮膚の感触が甦る。それに至るまでに感じた高揚を連れて、五ェ門の五感は過去へと遡ってゆく。
 嗚呼そうだ。この感覚を知ったから、自分は彼と行動を共にしているのだ。
 瞼が痙攣する。しかし、涙は零れない。

「それだよ。その顔だよ」

 ルパンに言われて、五ェ門は水路を覗き込む。そこには、腐れ縁だ何だと吐き捨てながらも、未練たらしく懐へ仕舞い続けたそれ・・を抱える自分が映っていた。どうりで痛い訳である。きつく握り締める胸の下で、引き剥がすことすら困難なほど癒着し、宿主の制御を離れてしまうくらいに育ってしまったそれを手塩に掛けたのは、他ならぬ五ェ門自身なのだから。

「斬ってはならぬものを斬ったのだと気付いたときには、もう手遅れだった。だが斬らねば勝負になり得ぬ。ゆえに、某がお主に答えを求めた時点で誤りだったのだ」

 既に手元にあるものの所在を問うことは愚の骨頂である。ルパンはそれを理解していたから「帰ってからでいいか」とはぐらかすような態度を見せたのだ。思い返せば当然の話であった。人である以上、心臓がなければ生きられない。それと同じこと。明瞭かつ単純な摂理に、あろうことか刃を突き立ててしまったのだから、迷いの雲を切り裂いてきた斬鉄剣が沈黙してしまうのも道理であるのだ。

「この関係に適した言葉は未だ見付からぬ……だが、そもそも名などないのだろう。お主が生きている限り、某も生きられる。それが解っただけでも十分だ」
「なるほど。それがお前さんの〝答え〟ってやつか?」
「ああ……」

 二度と迷わぬ。確たる決意の証拠に、五ェ門の心臓が強く脈打つ。ルパン三世という男の存在を全身に行き渡らせながら、最後の一口を飲み切った。水面で揺らめく男の顔に、もう沈鬱さはない。
 二人が立ち上がるのは同時だった。凝り固まった筋肉を解すように伸びをすると、徐に踵を返して水路を後にした。

「さァて、明日に備えて潰れた次元ちゃんを起こすとしますかぁ」
「もう若くもないというのに、まったく情けない飲み方をしおって」
「まぁまぁ。お説教は全部終わらせてからにしようぜ」
「そもそも次元を潰したのはお主だろう」
「げっ……い、いやぁ、そうだったかなぁ~」

 隣り合う大泥棒の背中。暗さを増してゆく地下の中でも、それは揺らぐことも、離れることもない。
 日陰の底、地獄に近い場所へ、二人は揚々と帰って行く。